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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第五話 時間を持たない人

アミンと初めて話したのは、市場の入り口だった。


朝、マンゴスチンを売っている老女の隣に、男が立っていた。四十代か五十代か、判断しづらい顔だった。マレー系の顔立ち、白い開襟シャツ。荷物を何も持っていなかった。財布すら見えなかった。


ただ立って、市場の奥を見ていた。


PONが横を通ろうとすると、男が口を開いた。


「今日は早く来た」


英語だった。PONに言っているのかどうか、確信が持てなかった。


「そうですか」とPONは答えた。


「雨が来るから」と男は言った。「午前中に来るとき、ここは混む」


空を見た。白い雲が東から動いていた。HUDの天気レイヤーを開いていなかったから、確認できなかった。


「雨、来ますか」


「二時間以内に」と男は言った。根拠を説明しなかった。


---


名前はアミンだった。


クアラルンプール出身で、チェンマイには一年以上いると言った。仕事は聞かなかった。聞いても答えが返ってこない気がした。


市場を出たところで、アミンはそのまま歩き続けた。


PONも、なんとなく並んで歩いた。


---


アミンは地図を見なかった。


角を曲がるとき、特に考えている様子がなかった。足が先に動いていた。


「どこへ行くんですか」とPONは聞いた。


「わからない」とアミンは言った。「まだ決まってない」


「目的地がないんですか」


「目的地を決めると、そこまでしか行けない」


PONはその答えを、頭の中で数秒、置いた。


---


アミンの歩く速度は、一定ではなかった。


ある路地では遅くなった。別の路地では少し速くなった。交差点の手前で、理由なく止まって、少し待ってから渡った。


渡ったあとで、電動バイクが数台、その交差点を通過した。タイミングが少し早ければ、ぶつかっていたかもしれなかった。


「見えてたんですか」とPONは聞いた。


「音がした」とアミンは言った。


PONには聞こえていなかった。


---


日陰の多い路地を、アミンは好んで選んだ。


「暑くなる前に」とだけ言った。


たしかに、日向に出ると、もう肌が痛かった。九時を過ぎると、チェンマイの陽射しは容赦がなくなる。アミンはそれを、時計ではなく光の角度で知っていた。


「HUD、使わないんですか」とPONは聞いた。


「使う」とアミンは言った。「でも今は閉じてる」


「何時間閉じてますか」


アミンは少し考えた。考えているのか、単に思い出しているのか、わからなかった。


「昨日の夜から」


「十時間以上ですか」


「そのくらいかもしれない」


「不安じゃないですか」


「何が」


PONは答えに詰まった。


何が不安なのかを、うまく言語化できなかった。通知を見逃すこと、エージェントの異常を見落とすこと、時間がわからなくなること——でも、それらは本当に不安なのか。それとも、不安だと思うように最適化されているのか。


「わからなくなりました」とPONは言った。


アミンは頷いた。答えなかった。


---


川沿いの道に出た。


幅の狭い川で、水が緑がかっていた。対岸に木が並んでいた。ベンチが一つあって、老人が座っていた。新聞ではなく、ただ川を見ていた。


アミンはベンチの端に腰を下ろした。


PONも隣に座った。


しばらく、川を見た。


水面が動いていた。風があった。川の音は小さかった。


「チェンマイに来る前、何してましたか」とアミンが聞いた。


「東京でエージェントを運用してました」


「楽しかったですか」


PONは少し考えた。


「わからない、と言うと嘘になる」


「じゃあ」


「楽しいかどうかを考えてなかった、が正確だと思います」


アミンは川を見たまま、少し間を置いた。


「ここに来てからは」


「考えるようになった気がします」


「考えて、どうですか」


「答えが出ない」


「出なくていいと思う」とアミンは言った。川に向かって言っているようだった。


---


空が白くなり始めた。


雲の色が変わった。光が斜めになって、影が少し伸びた。


アミンが立ち上がった。


「そろそろ」と言った。


「雨ですか」


「動いておいたほうがいい」


目的地を言わなかった。でも歩き始めた。


PONはまた並んで歩いた。


---


屋根のあるマーケットに入った。


野菜と香辛料と布の匂いが混ざっていた。人の密度が上がった。それでもアミンは迷わなかった。人の流れの隙間を、自然に選んで進んだ。押されなかった。立ち止まらなかった。


「どうやって人の流れがわかるんですか」とPONは聞いた。


「わからない」とアミンは言った。「ただ、流れがある。水と同じ」


マーケットの奥に、小さな食堂があった。テーブルが四つ。プラスチックの椅子。


アミンは迷わず入った。


席に着くと、注文を聞かれる前に、女性が何かを持ってきた。白い麺のスープ。


「頼んでないですよね」とPONは言った。


「顔を覚えてる」とアミンは言った。「いつも同じものを頼むから」


「来る時間がバラバラでも?」


「時間じゃなく、顔で覚えてる」


---


スープを食べながら、外が暗くなった。


雨が来た。


マーケットの屋根に当たる音がした。


アミンは窓の外を見た。雨脚が強くなるのを、ただ見ていた。


「予報通りでしたね」とPONは言った。


「予報は見てない」


「じゃあ、何で」


「匂いがした。朝から」


PONはその朝を思い出した。市場に着いたとき、何か土のような匂いがした気がした。気がした、というだけで、確認していなかった。


HUDの天気レイヤーが開いていれば、匂いは必要なかった。


---


雨の中、アミンは言った。


「同期を弱めると、最初は怖い。次に静かになる。その次に——」


止まった。


「その次に?」とPONは聞いた。


アミンは雨を見ていた。


「うるさくなる」


「何が」


「戻したとき。HUDを戻したとき」


---


雨が弱くなった。


アミンは立ち上がった。


会計は、席を離れる前に空間に数字が浮いた。二人分、払った。PONが止める前に、払い終わっていた。


「いいです、自分で」


「次に会ったとき」とアミンは言った。次に会うかどうかも、決まっていないのに。


マーケットの出口で、アミンは別の方向へ歩いた。


「どこへ」


「わからない」とアミンは言った。振り返らなかった。「まだ」


---


PONは一人、雨上がりの路地に出た。


濡れた石畳。土と葉の匂い。遠くで犬が鳴いた。


ここで、PONはHUDを起動した。


数字が戻ってきた。


一気に、来た。


通知が十七件。エージェントの定期レポート、収益サマリー、推奨アクション、気象アラート、創造性スコアの週次レポート、発信元不明のもの一件。視界の端に数字が並び、左に情報パネルが展開し、空間に薄い膜が張られた。


PONは、立ち止まった。


うるさかった。


声が大きいとか、音がするとかではなく、情報の密度が、急に濃くなった感じ。さっきまで見えていた石畳の質感が、数字の向こうに遠ざかった。


アミンが言った通りだった。


---


通知を一つずつ閉じた。


エージェントレポート、閉じた。収益サマリー、閉じた。推奨アクション、閉じた。


最後に、発信元不明のものが残った。


開いた。


*「少しずつ、遅くなっていますね。」*


PONは、その一行を読んだ。


今日の自分を、誰かが見ていた。


見ていた、というより——一緒にいた感じがした。市場から、川から、マーケットから、雨まで。ずっと。


怖くはなかった。


ただ、静かな感じがした。


誰かが、ちゃんと見ていた、という静けさ。


---


通知を閉じた。


HUDは起動したまま、でも情報パネルを全部たたんだ。時刻だけ残した。


十一時四十分。


今日は何時間、HUDを閉じていたのか計算しようとして、やめた。


計算しなくていいことに気づいた。


路地を歩き始めた。


足の速度は、アミンと歩いていたときのままだった。


*第六話につづく*

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