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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第四話 BPMと身体

夜八時ごろ、雨が止んだ。


PONは部屋の窓から外を見ていた。路地の石畳が濡れていて、街灯の光が水面に映っていた。HUDには何も浮かんでいなかった。今日は夕方から閉じたままにしていた。


どこかへ行こう、と思った。


理由はなかった。ただ、部屋にいる気がしなかった。


---


路地を南へ歩いた。


目的地はなかった。HUDの地図を開かなかったから、自分がどこへ向かっているかは、歩きながら決まっていくことになった。


足が乾いた路地を選んだ。濡れた石畳より、少し高くなった歩道のほうが歩きやすかった。それだけの理由で、右へ曲がったり、左へ曲がったりした。


音が聞こえた。


低い音だった。ベースだと気づくまで、少し時間がかかった。壁に吸われて、輪郭のなくなった低音が、路地の奥から漏れていた。


---


半屋外の空間だった。


屋根はあるが、壁の一面が開いていた。路地に面した部分に、低いコンクリートの縁があるだけで、中と外の境界が曖昧だった。プラスチックの椅子と、木のテーブルが六つか七つ。照明はオレンジ色の裸電球が数個。


ステージと呼べるものはなかった。


ただ、奥の壁際に、三人の人間がいた。


ギター、ベース、パーカッション。それだけ。PAもモニターも、ほとんどないように見えた。マイクが一本、ギターの前に立っていたが、半分飾りのようだった。


PONは縁に腰を下ろした。


中に入るのか外にいるのか、自分でもわからなかった。


---


演奏が始まった。


カウントもなかった。ギターが一音鳴らして、ベースが続いて、パーカッションが入ってきた。それだけで始まった。


ゆっくりした曲だった。


ジャズとも、ブルースとも、どちらとも言えない何か。コードが変わるタイミングが、PONの予測と少しずれた。ずれたというか、少しだけ遅かった。息を吸ってから、少し置いてから、変わった。


PONはそのズレが気になった。


---


AIが生成した音楽は、もう何年も聴いていた。


移動中、作業中、睡眠前。HUDで気分と体調を参照して、最適なものが流れた。BPMは常に正確で、コード進行は感情を誘導するように設計されていて、ミックスは耳に疲れないように調整されていた。


聴きながら何かをするのに、何の支障もなかった。


---


今、PONは何もできなかった。


聴くだけだった。


ギターの男が、一か所だけ弦を押さえそこねた。音が少し詰まった。男はそのまま続けた。修正しなかった。次の小節で、そのミスを引きずるでもなく、ただ続けた。


その詰まった音が、しばらく頭に残った。


完璧ではなかった。でも、何かが——リセットされた感じがした。その一音で、演奏全体の時間が、少しだけ巻き戻されたような。


言葉にならなかった。


---


客は七、八人だった。


みんな、静かに聴いていた。


PONの隣に、女性が座った。


ノートの女性だった。今日はノートを持っていなかった。手ぶらで、膝の上に手を置いて、演奏を聴いていた。


目が合った。


女性は小さく頷いた。PONも頷いた。


それだけだった。


---


パーカッションの男が、途中から少しテンポを上げた。


ギターが合わせた。ベースは少し遅れて合わせた。三人のBPMが、ぴったりとは一致しない。誰かが走り、誰かが引っ張り、誰かがタメる。


でもそれが、全体としては揺れていた。


揺れているのに、崩れなかった。


PONは気づくと、足が少し動いていた。膝の上で、指が何かを叩いていた。


意識していなかった。


身体が、勝手にそこにいた。


---


休憩のあいだ、女性が口を開いた。


「よく来るの?」


「初めて」


「気づいた?」


「何に」


「テンポ」


PONは少し考えた。「ズレてましたよね」


「ズレてた」と女性は言った。肯定でも否定でもない口調だった。「でも足、動いてたでしょ」


PONは答えなかった。


答える必要がなかった。


「AI音楽では、動かない」と女性は言った。「私は、ずっとそれが不思議だった」


「なんでだと思いますか」


女性はしばらく空を見た。オレンジの電球が、女性の横顔を照らしていた。


「わからない」と女性は言った。「ただ、身体のほうが知ってる気がする。頭より先に」


---


二部が始まった。


今度はギターの男が歌い始めた。英語でもタイ語でもない、何かの言語だった。意味はわからなかった。でも声の揺れ方が、空気の湿度に合っていた。


雨の後の夜に、こういう声が合う、ということを、PONは理解した。理屈ではなかった。ただ、そうだった。


---


演奏が終わったのは、十時過ぎだった。


PONは時刻を、終わって初めてHUDで確認した。二時間以上、そこにいた。


体感では、もっと短かった。


四十分か、一時間か。そのくらいの感覚だった。


時間が圧縮されていた、というより——時間を数えていなかった。二時間のあいだ、PONは一度も「あと何分か」を考えなかった。


それがいつ以来のことか、思い出せなかった。


---


帰り道、女性と少し並んで歩いた。


「名前、聞いてなかった」とPONは言った。


「シオン」と女性は言った。


「日本人ですか」


「半分」


それ以上は聞かなかった。


路地の角で、シオンは別の方向へ曲がった。


「また来る?」と彼女は聞いた。


「たぶん」


「たぶん、でいいと思う」とシオンは言って、歩いて行った。


---


部屋に戻った。


シャワーを浴びて、ベッドに横になった。


頭の中で、まだあの揺れたテンポが鳴っていた。正確には鳴っていない。でも身体が、何かのリズムをまだ覚えていた。


呼吸が、ゆっくりだった。


東京にいた頃の呼吸を、PONは覚えていなかった。でも今の呼吸は、前とは違う気がした。遅くなっていた。チェンマイに来てから、少しずつ。


それが良いのか悪いのか、わからなかった。


ただ、苦しくはなかった。


---


通知が来た。


発信元、なし。


*「身体が先に知っている、という感覚は、正しい。」*


PONはその一行を読んだ。


読んで、閉じようとして、閉じなかった。


シオンが言ったことと、ほぼ同じだった。


同じだった、というより——続きのようだった。


会話の、続き。


誰と、何の会話の。


PONはそれを考えながら、考えることをやめて、目を閉じた。


頭の中でまだ、あの揺れたテンポが続いていた。


走って、モタって、また走る。


崩れないまま、続いていた。


*第五話につづく*

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