保存区域 チェンマイ 第三話 情報のない午後
保存区域 チェンマイ 第三話 情報のない午後
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その日の朝、PONはHUDを起動しないまま外に出た。
意図したわけではなかった。シャワーを浴びて、服を着て、ドアを開けて、階段を降りて、路地に出て——そこで気づいた。視界が、素のままだった。
戻ろうか、と思った。
思ったまま、歩いた。
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HUDのない視界は、最初の二分くらい、妙に軽かった。
軽い、というのは正確ではないかもしれない。ただ、余白があった。視界の端に何も浮かんでいない。左に数字がなく、右にアイコンがなく、空間に薄く貼られていたはずの情報の膜が、どこにもなかった。
路地が、そのままそこにあった。
壁の漆喰の剥がれが見えた。植木鉢の土が乾いていた。電線に鳥が三羽止まっていて、一羽が飛んで、二羽になった。
いつもそこにあったはずのものが、今日は初めて見えるような気がした。
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カフェへの道を、少し外れた。
理由はなかった。ただ、いつもと違う路地が目に入って、そちらへ曲がった。
知らない道だった。
HUDがあれば、地図レイヤーが開いて、現在地と最寄りのカフェと、天気と、その日のエージェントサマリーが同時に浮かんだはずだった。でも今日はそれがない。あるのは、路地と、壁と、朝の光だけだった。
少し、不安だった。
でも不安の種類が、妙なものだった。道に迷う不安ではなく、何かを忘れているような、でも何を忘れたかわからないような——そういう不安。
歩いた。
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十分か、二十分か、わからなかった。
時刻がわからないと、時間の感覚が変わる、ということをPONはそのとき初めて理解した。HUDがあれば、右下に常に時刻が浮かんでいる。朝七時十四分、朝七時十五分、と時間が刻まれ続けている。だから今が何時かではなく、今が何分経過したかで時間を感じていた。
でも今日は、今が何時かわからない。
空の明るさで、朝であることはわかる。雲の色で、今日は昼前に雨が来るだろうとわかる。それだけだった。
それだけで、十分だった。
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路地の突き当たりに、小さな市場があった。
知らなかった。この三週間、この道を通ったことがなかったのか、それともHUDの別レイヤーに埋もれていて視界に入っていなかったのか、どちらかわからなかった。
野菜と果物と、何かの干物と、花が並んでいた。売っている人々は年配の女性が多かった。客も少なかった。
PONはそこを、ゆっくり歩いた。
マンゴスチンが積んであった。赤黒い皮と、白い果肉。値段はどこにも出ていなかった。HUDがあれば価格レイヤーが起動して、相場と品質スコアと最寄りの同等品情報が浮かんだかもしれない。
今日はそれがないので、ただ見た。
一個、買った。いくらかは、払う瞬間に空間に数字が出た。それだけ確認して、支払った。
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市場の端に、男がいた。
六十代くらい、タイ系の顔立ち。白い開襟シャツ。プラスチックの椅子に座って、何かを削っていた。木片を、小さなナイフで、少しずつ。
PONは足を止めた。
男は顔を上げなかった。削り続けていた。木屑が膝の上に落ちた。
「何を作ってるんですか」
英語で聞いた。
男は顔を上げた。笑顔だったが、目が少し遠かった。
「わからない」と男は英語で答えた。「できたらわかると思う」
PONは返す言葉がなかった。
男はまた削り始めた。
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マンゴスチンを食べながら、知らない路地を歩いた。
皮を剥くのに少し手間取った。白い果肉が出てきた。甘くて、少し酸味があった。こういう食べ方は久しぶりだった、と思った。移動しながら、手で何かを剥いて食べるという行為が。
東京ではしなかった。東京では、食事はほとんど最適化されていた。栄養バランスと体調と気分のデータを参照して、今日の食事が提示された。それを選ぶだけだった。手が汚れることも、種を捨てる場所に困ることも、なかった。
種を、路地の隅に置いた。
ゴミかどうかわからなかった。でも、誰も怒らなかった。
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知らない通りに出た。
大きな木が一本、道の真ん中に近いところに立っていた。根が歩道を持ち上げていた。誰も撤去していない。歩道がでこぼこのまま、木と共存している。
東京ではあり得ない。東京では、木は歩道の邪魔をしない場所にある。あるいは、邪魔をする前に撤去される。
PONはその木の根元に手を触れた。
理由はなかった。
ただ、触れた。
皮が硬くて、少し湿っていた。
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気づくと、どこにいるかわからなかった。
HUDを起動すれば一秒で解決する問題だった。でも、PONはそのままにした。
太陽の位置で、東西の方向はわかった。来た方向を思い出して、大まかに戻れる気はした。
その「気はする」という感覚が、面白かった。確信ではなく、気はする、という余白。
歩いた。
正しい方向かどうかわからないまま、歩いた。
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大通りに出た。
見覚えのある交差点だった。カフェのある通りから、それほど遠くなかった。
PONは少しがっかりした気がした。
迷子でいたかったのか、と思った。自分が。
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カフェのテラスに、昨日の女性がいた。
またノートを書いていた。今日は別のノートだった。色が違った。黒い表紙。
PONはコーヒーを頼んで、少し離れた席に座った。
女性は今日も顔を上げなかった。書き続けていた。
どのくらい経ってから、女性が顔を上げた。
PONと目が合った。
女性は、少し驚いたような顔をした。驚いたというか——何かを確認するような目だった。
「HUD、閉じてる」と女性は言った。英語だった。
「ええ」
「今日だけ?」
「今日だけ、のつもりで」
女性はノートを閉じた。
「慣れると、閉じてる時間が増える」と言った。事実の報告のような口調だった。
「あなたは」
「三年で、一日十八時間になった」
十八時間、という数字を、PONは頭の中で繰り返した。起きている時間のほとんど、HUDを閉じている。
「不便じゃないですか」
「最初はそう思ってた」と女性は言った。「今は逆に思ってる」
「逆?」
女性は答えなかった。
ノートを開いて、また書き始めた。
会話が終わったのだと、PONは理解した。
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帰り道、PONはまたHUDを閉じたまま歩いた。
今度は迷わなかった。
道を覚えていた。路地の匂いで、どこかわかった。壁の色で、曲がる場所がわかった。
これは学習なのかと思った。それとも、もともと知っていたのか。
答えは出なかった。
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部屋に戻って、HUDを起動した。
数字が戻ってきた。エージェントのログ、収益フロー、通知が三件。全部、確認済みにした。
窓の外を見た。
夕方の光が、壁を橙色に染めていた。
HUDの数字と、橙色の壁が、同じ視界の中に存在していた。
どちらが本当の景色か、という問いが浮かんだ。
浮かんで、消えた。
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その夜、また通知が来た。
発信元は、また、なかった。
*「今日、木に触れましたね。」*
PONはその一行を、しばらく見ていた。
見て、閉じた。
眠った。
外で、雨が降り始めた。
*第四話につづく*




