表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノイズ(仮)  作者: fedlic
3/17

保存区域 チェンマイ 第三話 情報のない午後

保存区域 チェンマイ 第三話 情報のない午後


---


その日の朝、PONはHUDを起動しないまま外に出た。


意図したわけではなかった。シャワーを浴びて、服を着て、ドアを開けて、階段を降りて、路地に出て——そこで気づいた。視界が、素のままだった。


戻ろうか、と思った。


思ったまま、歩いた。


---


HUDのない視界は、最初の二分くらい、妙に軽かった。


軽い、というのは正確ではないかもしれない。ただ、余白があった。視界の端に何も浮かんでいない。左に数字がなく、右にアイコンがなく、空間に薄く貼られていたはずの情報の膜が、どこにもなかった。


路地が、そのままそこにあった。


壁の漆喰の剥がれが見えた。植木鉢の土が乾いていた。電線に鳥が三羽止まっていて、一羽が飛んで、二羽になった。


いつもそこにあったはずのものが、今日は初めて見えるような気がした。


---


カフェへの道を、少し外れた。


理由はなかった。ただ、いつもと違う路地が目に入って、そちらへ曲がった。


知らない道だった。


HUDがあれば、地図レイヤーが開いて、現在地と最寄りのカフェと、天気と、その日のエージェントサマリーが同時に浮かんだはずだった。でも今日はそれがない。あるのは、路地と、壁と、朝の光だけだった。


少し、不安だった。


でも不安の種類が、妙なものだった。道に迷う不安ではなく、何かを忘れているような、でも何を忘れたかわからないような——そういう不安。


歩いた。


---


十分か、二十分か、わからなかった。


時刻がわからないと、時間の感覚が変わる、ということをPONはそのとき初めて理解した。HUDがあれば、右下に常に時刻が浮かんでいる。朝七時十四分、朝七時十五分、と時間が刻まれ続けている。だから今が何時かではなく、今が何分経過したかで時間を感じていた。


でも今日は、今が何時かわからない。


空の明るさで、朝であることはわかる。雲の色で、今日は昼前に雨が来るだろうとわかる。それだけだった。


それだけで、十分だった。


---


路地の突き当たりに、小さな市場があった。


知らなかった。この三週間、この道を通ったことがなかったのか、それともHUDの別レイヤーに埋もれていて視界に入っていなかったのか、どちらかわからなかった。


野菜と果物と、何かの干物と、花が並んでいた。売っている人々は年配の女性が多かった。客も少なかった。


PONはそこを、ゆっくり歩いた。


マンゴスチンが積んであった。赤黒い皮と、白い果肉。値段はどこにも出ていなかった。HUDがあれば価格レイヤーが起動して、相場と品質スコアと最寄りの同等品情報が浮かんだかもしれない。


今日はそれがないので、ただ見た。


一個、買った。いくらかは、払う瞬間に空間に数字が出た。それだけ確認して、支払った。


---


市場の端に、男がいた。


六十代くらい、タイ系の顔立ち。白い開襟シャツ。プラスチックの椅子に座って、何かを削っていた。木片を、小さなナイフで、少しずつ。


PONは足を止めた。


男は顔を上げなかった。削り続けていた。木屑が膝の上に落ちた。


「何を作ってるんですか」


英語で聞いた。


男は顔を上げた。笑顔だったが、目が少し遠かった。


「わからない」と男は英語で答えた。「できたらわかると思う」


PONは返す言葉がなかった。


男はまた削り始めた。


---


マンゴスチンを食べながら、知らない路地を歩いた。


皮を剥くのに少し手間取った。白い果肉が出てきた。甘くて、少し酸味があった。こういう食べ方は久しぶりだった、と思った。移動しながら、手で何かを剥いて食べるという行為が。


東京ではしなかった。東京では、食事はほとんど最適化されていた。栄養バランスと体調と気分のデータを参照して、今日の食事が提示された。それを選ぶだけだった。手が汚れることも、種を捨てる場所に困ることも、なかった。


種を、路地の隅に置いた。


ゴミかどうかわからなかった。でも、誰も怒らなかった。


---


知らない通りに出た。


大きな木が一本、道の真ん中に近いところに立っていた。根が歩道を持ち上げていた。誰も撤去していない。歩道がでこぼこのまま、木と共存している。


東京ではあり得ない。東京では、木は歩道の邪魔をしない場所にある。あるいは、邪魔をする前に撤去される。


PONはその木の根元に手を触れた。


理由はなかった。


ただ、触れた。


皮が硬くて、少し湿っていた。


---


気づくと、どこにいるかわからなかった。


HUDを起動すれば一秒で解決する問題だった。でも、PONはそのままにした。


太陽の位置で、東西の方向はわかった。来た方向を思い出して、大まかに戻れる気はした。


その「気はする」という感覚が、面白かった。確信ではなく、気はする、という余白。


歩いた。


正しい方向かどうかわからないまま、歩いた。


---


大通りに出た。


見覚えのある交差点だった。カフェのある通りから、それほど遠くなかった。


PONは少しがっかりした気がした。


迷子でいたかったのか、と思った。自分が。


---


カフェのテラスに、昨日の女性がいた。


またノートを書いていた。今日は別のノートだった。色が違った。黒い表紙。


PONはコーヒーを頼んで、少し離れた席に座った。


女性は今日も顔を上げなかった。書き続けていた。


どのくらい経ってから、女性が顔を上げた。


PONと目が合った。


女性は、少し驚いたような顔をした。驚いたというか——何かを確認するような目だった。


「HUD、閉じてる」と女性は言った。英語だった。


「ええ」


「今日だけ?」


「今日だけ、のつもりで」


女性はノートを閉じた。


「慣れると、閉じてる時間が増える」と言った。事実の報告のような口調だった。


「あなたは」


「三年で、一日十八時間になった」


十八時間、という数字を、PONは頭の中で繰り返した。起きている時間のほとんど、HUDを閉じている。


「不便じゃないですか」


「最初はそう思ってた」と女性は言った。「今は逆に思ってる」


「逆?」


女性は答えなかった。


ノートを開いて、また書き始めた。


会話が終わったのだと、PONは理解した。


---


帰り道、PONはまたHUDを閉じたまま歩いた。


今度は迷わなかった。


道を覚えていた。路地の匂いで、どこかわかった。壁の色で、曲がる場所がわかった。


これは学習なのかと思った。それとも、もともと知っていたのか。


答えは出なかった。


---


部屋に戻って、HUDを起動した。


数字が戻ってきた。エージェントのログ、収益フロー、通知が三件。全部、確認済みにした。


窓の外を見た。


夕方の光が、壁を橙色に染めていた。


HUDの数字と、橙色の壁が、同じ視界の中に存在していた。


どちらが本当の景色か、という問いが浮かんだ。


浮かんで、消えた。


---


その夜、また通知が来た。


発信元は、また、なかった。


*「今日、木に触れましたね。」*


PONはその一行を、しばらく見ていた。


見て、閉じた。


眠った。


外で、雨が降り始めた。


*第四話につづく*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ