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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第二話 同期と余白

朝、目が覚めると、HUDがなかった。


正確には、起動していなかった。視界の端に何も浮かばない。気温も、湿度も、エージェントのステータスも。ただ天井があって、染みがあって、窓から白い光が入ってきた。


三秒ほど、PONはそのまま天井を見た。


それから瞬きを二回して、HUDを手動で起動した。


数字が戻ってきた。気温三一度、湿度八七。エージェント全体、正常。収益フロー、安定。


何も変わっていなかった。


ただ、あの三秒間——何も浮かばない視界の感触が、妙に残った。怖かったわけではない。ただ、何かが違った。静かすぎた、というか。部屋の解像度が、少し上がったような感じがした。


---


カフェへの道で、男を見かけた。


昨日もいた。一昨日もいた。三十代後半くらい、いつも同じ路地の角に立っていて、何かを眺めている。スマートフォンも持っていない。タブレットも持っていない。ただ立って、路地の先を見ている。


視線の先には何もない。壁と、植物と、猫が一匹。


PONはその男の視界が気になった。HUDで何を見ているのか。どのレイヤーを展開しているのか。


でも男の目は、焦点が合っていなかった。


何かを見ているのではなく、ただ「見ている」目だった。


PONはそのまま通り過ぎた。


---


カフェのテラスに着くと、先客がいた。


女性、二十代後半。東南アジア系ではなく、どこか東欧の空気がした。白いTシャツ、ショートパンツ、テーブルの上にノートが一冊。


手書きのノート。


ページは半分以上埋まっていた。文字ではなく、図のようなもの。線と丸と、矢印。女性は顔を上げずに書き続けていた。


PONはコーヒーを待ちながら、横目でそれを見た。


何を書いているのか、見えなかった。見えたとしても、理解できるものかどうかわからなかった。


ただ、あの密度が気になった。あれだけのページ数を、手で、紙に書くという行為が持つ密度が。


スタッフがコーヒーを持ってきた。今日のフラットホワイトは、ミルクの比率が昨日と微妙に違った。湿度に合わせているのか、それとも自分の体温を読んでいるのか。


PONはそれを考えて、やめた。考えても仕方がない。


---


昼前に、HUDに小さな通知が来た。


*「本日のエージェント介入推奨:0件」*


つまり、今日も何もしなくていい。


PONは通知を閉じて、空を見た。


雲が厚かった。午後にスコールが来るだろう。チェンマイに来てから、空を見て雨を予測することを覚えた。HUDの天気予報より、雲の動きを見たほうが正確なことがある気がしていた。実際に正確かどうかは、確認していない。


---


午後、雨が来る前に路地を歩いた。


特に目的はなかった。エージェントのログは定期的にHUDに流れてくるが、確認しなくても問題なかった。異常があればシステムが介入する。PONがやることは、その後の判断だけだ。でもここ最近、判断を求められることがない。


路地の奥に、小さなスペースがあった。


四畳ほどの空間に、椅子が六脚。屋根は薄いトタン。電球が一個。


ギターを持った男がいた。


昨日の男ではない。今日は若い、二十代の男だった。膝の上にギターを置いて、チューニングをしていた。弦を弾くたびに、少しずつ音が変わっていく。正確な音に近づいていく、その過程の音。


チューニング中の音が、PONは好きだった。


なぜかを説明できなかった。完成していない音が、完成に向かっていく途中の音が、何か——落ち着かない感じがして、それが落ち着いた。


男はPONに気づいて、軽く頷いた。


PONも頷いた。


男はチューニングを続けた。


PONはそこに五分くらい立っていた。何も起きなかった。HUDは何も通知しなかった。


---


スコールは夕方に来た。


路地の軒下で雨宿りをしていると、男が隣に立った。


朝、路地の角に立っていた男だった。


「よく降るね」と男は言った。日本語だった。


「そうですね」


「チェンマイ長い?」


「三週間くらい。あなたは?」


「七ヶ月」


男は路地に降る雨を見ていた。視線は相変わらず、焦点が合っているのかどうかわからなかった。


「何してるんですか」とPONは聞いた。


「何も」と男は言った。


「仕事は」


「してる。してると思う」


思う、という言い方が引っかかった。


「エージェントですか」


「そうじゃない」と男は言って、少し笑った。「もっと古いやつ」


雨が強くなった。


屋根のないところに、雨水が線を引いて落ちていった。


「HUD、使ってないんですか」とPONは聞いた。男が何も見ていない理由が、それ以外に思いつかなかった。


男はしばらく黙っていた。


「使ってる。ただ、ほとんど閉じてる」


「何で」


「うるさいから」


PONはその答えを、頭の中で何度か繰り返した。うるさい、という感覚が、自分にはなかった。ずっとそこにあるものだったから。


「慣れませんか」と男は言った。「最初は不安じゃないかな。でも閉じてると、だんだん——」


男はそこで止まった。


「だんだん、なんですか」


「見えてくるものがある」


雨が止み始めた。


男は傘も持たずに路地へ出て行った。濡れるのを気にしていなかった。


PONはその背中を見ていた。


---


夜、部屋に戻って、エージェントのログを開いた。


今日の収益は安定。介入なし。何も問題なし。


PONはログを閉じて、試しにHUDを全部閉じた。


部屋から数字が消えた。


気温表示が消えた。時刻が消えた。エージェントの状態が消えた。壁の前の空間に薄く浮いていた情報の膜が、全部なくなった。


部屋が、少し広くなった気がした。


静かだった。


ただ静かだった。


壁のシミが見えた。窓の外で虫が鳴いていた。エアコンの低い音。遠くで、犬が一回吠えて、やんだ。


PONは三分くらい、それをそのまま感じていた。


怖くはなかった。うるさくもなかった。ただ、何かが——遅くなった感じがした。部屋の時間が、少し遅く流れているような。


HUDを戻した。


数字が戻ってきた。


---


眠る前に、朝の女性のノートのことを考えた。


あの密度。あの図。


何を書いていたのだろう、と思った。


思って、答えが出なかった。


答えが出ない問いを、最後に持ったのがいつだったかを考えた。


考えて、思い出せなかった。


HUDが何かを言いかけた気がしたが、閉じた。


今日くらいは、答えを持たないまま眠りたかった。


---


チェンマイの夜は、雨の後、一度だけ風が来る。


窓から入ってきて、湿った空気を動かして、また止む。


PONはその風が来るのを待ちながら、眠った。


風が来たかどうかは、わからなかった。


*第三話につづく*

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