保存区域 チェンマイ 第一話 湿度と漂流
第一話 湿度と漂流
朝六時。
PONは目を開ける前に、視界の端に数字が浮かぶのを感じた。
気温、二九度。湿度、八四パーセント。
それだけ確認して、目を閉じた。
数字は消えた。部屋は暗くて、湿っていて、エアコンは昨夜のうちに切れていた。天井から湿気が降りてくる感覚がある。雨ではない。チェンマイの朝がそういうものなのだ、とPONは三週間かけて理解した。逃げられない。逃げようとも思えない。ただそこにある湿度。
シャワーを浴びて、外に出た。
ニマンエリアの路地は、朝のこの時間、まだ人が少なか。ゴミ収集の小さな無人カートが、壁に沿って静かに動いている。鳥の声と、遠くの寺から流れてくる読経の音。バイクはほとんどが電動で、エンジン音がしない。
静かな朝だった。
東京もこういう朝だったのかもしれないが、東京では朝を感じる暇がなかった。
角を曲がったところに、コーヒーを売っている場所があった。
「売っている場所」とPONが呼んでいるのは、それが店なのかどうか確信が持てないからだった。軒先に椅子が二脚あって、老いた女性がいつもそこに座っていて、目が合うとコーヒーが出てきた。会計はそのまま空間に浮かんで、指で払った。タイバーツの数字が一瞬だけ視界に現れて、消えた。
女性は一度も喋ったことがない。
PONも喋ったことがない。
それでも毎朝来ていた。
コーヒーを持って、少し歩いた。
裏路地の奥に、半分木に覆われたベンチがあった。誰かが置いたのか、最初からあるのか、わからなかった。座ると、木の葉から朝の光が斑に落ちてきた。
PONはそこで、エージェントのステータスを確認した。
視界の左端に、薄いパネルが展開する。エージェントが十二体。それぞれが並列で動いていて、収益フローは今日も安定していた。何かを指示したわけではない。昨夜のうちに判断して、動いて、今朝にはもう終わっていた。
PONがやることは、ほとんどなかった。
異常値があれば介入する。判断の境界線が曖昧になったとき、方向性を与える。あとは眺めていればいい。それが今の仕事だった——「仕事」と呼べるなら。
東京にいた頃は、これをもっと緊張してやっていた。でも今は、緊張しなかった。
緊張する必要がないからか、それとも緊張の仕方を忘れたのか、PONにはわからなかった。
路地を歩いていると、音が聞こえた。
ギターだった。
生の、アコースティックギター。
PONは足を止めた。音のする方向を探した。狭い路地の奥、シャッターの半分閉まった入り口から、音が漏れていた。覗こうとして、やめた。覗く理由がなかった。でも立ち去れなかった。
三十秒か一分、立ったまま聞いた。
上手くはなかった。弦を押さえる指がたまに滑って、音が濁った。でもそれが——なんというか、妙に引っかかった。完璧じゃない音が、裏路地の湿った空気の中に溶けていく感じが。
視界の端に、小さな通知が浮いた。
「生音楽・手作業・非効率活動を検知。記録しますか?」
PONは指を動かして、「いいえ」を選んだ。
通知は消えた。
音はまだ続いていた。
カフェに着いた。
ここには毎朝来ていた。名前はない。タイ語で何かが書かれた木の板が入り口に立てかけてあるだけだった。スタッフは一人で、二十代後半に見える女性。いつも同じ位置に立っていて、注文を覚えていた。
注文しなくてもいい。来れば出てくる。
テラスの席に座ると、空間UIが静かに展開した。エージェントのサマリーが左、天気と移動推奨が右。PONはそれを閉じた。今日は見たくなかった。
コーヒーが来た。
フラットホワイト、ミルクが少し多め。PONが頼んだことのない比率だったが、今日の温度と湿度に合わせたのかもしれなかった。美味かった。
隣のテーブルに、男が来た。
四十代くらい。南アジア系の顔立ち。リュックを一つ持っていて、テーブルに置いたのはタブレット一枚だけだった。
男は注文して、画面を開いて、それから長い時間、ただ外を見ていた。
何もしていなかった。
画面は暗いままだった。
PONはそれを横目で見ながら、自分がこの男の何が気になるのかを考えた。外を見ている人間が珍しいわけではない。考えている人間も珍しくない。
ただ、この男はあまりにも何もしていなかった。
エージェントも動かしていない。情報を参照していない。生産的な何かをしている気配が、まったくなかった。
それが——おかしいのか、おかしくないのか、PONにはわからなかった。
昼前に、通知が来た。
視界の中央にゆっくり浮かぶやつは、緊急性が低い。PONはそれを流し読みした。
「創造性活動スコア:この三週間で14%低下。推奨:非構造化時間の増加、または特定区域内の滞在継続。」
見慣れた通知だった。たまに来る。
何のサービスから来るのかは、はっきりしなかった。インフラに組み込まれていて、都市を使っていれば自然に届く類のやつだ。健康スコアや睡眠スコアと同じ棚に並んでいる。
特定区域内の滞在継続。
PONはその一行を、もう一度読んだ。
チェンマイが「特定区域」なのか、そうでないのか。そもそも「特定区域」が何なのか。
説明はなかった。
通知は薄くなって、消えた。
夕方、雨が来た。
スコールは五分で終わった。
路地に水が流れて、土と植物の匂いが立ち上がった。PONは屋根の下で、それを嗅いでいた。
東京では嗅いだことのない匂いだった。東京の雨はアスファルトと排気の匂いがしたが、ここの雨はもっと古い匂いがした。土の匂いというか——何かが生きているような匂い。
視界に何も浮かばなかった。
雨の間、通知は来なかった。
PONはそれに気づいて、少し変だと思った。
夜、部屋に戻った。
エージェントのログを確認した。今日も問題なし。収益は安定。自動で決済されて、自動で分配されて、自動で記録されていた。PONがやったことは、朝の確認だけだった。
それでいい、とシステムは言う。
それでいいのだろう、と頭では思う。
シャワーを浴びて、ベッドに横になった。
天井のシミが見えた。雨漏りの跡だろうか。この部屋は新しくないが、古くもない。でも天井のシミは、何年もかけてゆっくりついたもののように見えた。
誰かがここに住んでいた。
その誰かも、天井を見ていたかもしれない。
PONはそれを、特に深く考えなかった。ただぼんやりと、シミの輪郭をなぞった。
視界に何も浮かばなかった。
チェンマイの夜は、静かだった。
眠る直前、一つだけ通知が来た。
さっきのとは違うチャンネルから。発信元の表記がなかった。
文字数が少なかった。
「いてくれて、よかった。」
PONは目を細めて、それを読んだ。
誤送信か、と思った。
でも消す前に、少しだけ、その七文字を見ていた。
通知は消えた。
部屋は暗くて、湿っていて、遠くで犬が一度だけ吠えた。
第二話につづく




