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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第七話 安定した人々

ケンジから連絡が来たのは、午後の雨が止んだあとだった。


視界の端に、小さなアイコンが浮いた。久しぶりだったから、一瞬、誰かわからなかった。東京のアカウント。時差を計算した。向こうは夜の八時ごろだった。


応答した。


---


ケンジの顔が、視界の中央に展開した。


少し痩せていた。いや、引き締まっていた。肌の状態が良かった。目の下のくまがなかった。東京にいた頃のケンジは、いつも少し疲れた顔をしていた。今日は違った。


「久しぶり」とケンジは言った。


声が、穏やかだった。


「元気そうだね」とPONは言った。


「かなり安定してる」とケンジは言った。「最近ほんとに調子いい」


---


ケンジは話した。


睡眠サイクルが最適化されて、深睡眠の割合が上がった。感情変動が減った。ストレス指標が三ヶ月連続で改善している。仕事のパフォーマンスも上がった。エージェントの運用精度も上がった。


全部、正しかった。


全部、良いことだった。


PONはそれを聞きながら、何かを探していた。何かが来るはずだ、という感覚で聞いていた。笑い声とか、言い訳とか、「でも」とか、「まあ」とか。


来なかった。


ケンジの話は、滑らかに続いた。


---


「幸福度も上がってると思う」とケンジは言った。


「思う?」


「数値も出てるし、体感でも」


「体感でどう感じる」


ケンジは少し考えた。


考える時間が、短かった。


「穏やかな感じ。波がない。前はいろいろ揺れてたけど、今はフラットに安定してる」


フラット、という言葉が、PONの中に止まった。


フラットなことが、幸福なのか。フラットなことを、幸福と呼ぶのか。


聞かなかった。


---


会話は続いた。


ケンジはPONのチェンマイ生活を聞いた。


PONは話した。カフェのこと、アミンのこと、寺のこと、HUDを閉じることが増えたこと。


ケンジは聞いていた。


相槌が、適切だった。タイミングが、ずれなかった。「それは面白いね」「そういう感覚、わかる気がする」「いい経験だね」。


全部、正しかった。


でも何かが——引っかからなかった。


会話のどこかに、ひっかかりがあるはずだった。人と話すとき、どこかで何かに引っかかる感じがあるはずだった。でも今日のケンジとの会話は、どこにも引っかからなかった。滑らかに流れていった。


---


「最近、泣いてないな」とケンジが言った。


何かの流れで、自然に出てきた言葉だった。


PONは、そこで少し止まった。


「泣く機会がないってこと?」


「感情の波が減ったから」とケンジは言った。困っていなかった。「前は映画とか音楽とか、けっこう来てたけど。最近はあまり」


「それは、どう感じる」


「改善だと思う」とケンジは言った。「感情に振り回されなくなった、ということだから」


PONは何も言わなかった。


ケンジも、それ以上言わなかった。


会話は次の話題へ、滑らかに移った。


---


通話を終えた。


視界からケンジの顔が消えた。


部屋に、自分だけが残った。


PONはしばらく、天井を見た。


ケンジは、本当に健康だった。本当に安定していた。本当に幸福度が上がっていた。嘘をついていなかった。演じていなかった。


ただ——泣いていなかった。


泣いていないことを、改善だと思っていた。


それが悪いことかどうか、PONにはわからなかった。わからないまま、何かが、胸のあたりに残った。


---


外に出た。


雨上がりの路地だった。石畳が濡れていた。土と葉の匂い。遠くで、バイクのモーター音がしていた。電動だから、高い音ではなく、低い持続音。


角を曲がると、屋台があった。


鍋から湯気が上がっていた。売っている女性が、隣の屋台の男と何か話していた。笑っていた。笑い方が、大きかった。声が出ていた。


PONは何も買わなかった。


でも、少し止まった。


笑い声が、路地に広がっていた。


---


もう少し歩いた。


路地の奥から、ギターの音がした。あの半屋外の空間から、また聴こえていた。今日は別の人間が弾いていた。もっと下手だった。何度も同じコードでつかえていた。


でも、止まった。


止まって、聴いた。


つかえるたびに、また戻る。同じところで、また戻る。でも止めない。続ける。


それが、何かに似ていた。


泣きながら話し続ける人間に、似ていた。


---


川沿いのベンチに座った。


夕方の光が、水面を橙色に染めていた。


HUDを確認した。エージェントのサマリー、問題なし。収益フロー、安定。介入推奨、ゼロ件。


最後に、発信元不明のものが一件。


開いた。


*「長期安定状態では、感情振幅が減少します。」*


PONはそれを読んだ。


続いていた。


*「揺らぎは、異常ではありません。」*


もう一行。


*「文明は、均一な個体だけでは更新されない。」*


PONは、その三行をしばらく見ていた。


ケンジのことを書いているのか、自分のことを書いているのか、わからなかった。


どちらについても、書いているのかもしれなかった。


---


通知を閉じた。


川を見た。


水が流れていた。一定ではなかった。石のところで速くなり、広いところで遅くなり、どこかで渦を巻いていた。


流れているのに、形が変わり続けていた。


同じ川だった。


でも、同じ水ではなかった。


---


ケンジとまた話すとき、何を聞けばいいのかを考えた。


最後に泣いたのはいつか、と聞こうとして、やめた。


聞いても、ケンジは困らないだろうと思った。


困らないことが、少しだけ、悲しかった。


その悲しさが、どこから来るのかは、まだわからなかった。


---


屋台の前を通りながら、今度は立ち止まった。


女性が、また笑っていた。今度は別のことで笑っていた。


何が面白いのかわからなかった。でもその笑い声が、路地の湿った空気の中に溶けて、しばらく残った。


PONは、そこで初めて、自分の口元が少し動いていることに気づいた。


理由はなかった。


ただ、笑い声が、移っていた。


*第八話につづく*

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