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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第十一話 呼吸する部屋

夜九時を過ぎると、パーイの空気が変わった。


熱が少し抜けて、でも湿度は残って、土と草と何かの花の匂いが混ざった。道を歩くと、足元から昼の熱がまだ来た。アスファルトが、昼間の記憶を持っていた。


バーは、宿から歩いて十分だった。


バーと呼んでいいのかわからなかった。木の建物の壁が一面だけ開いていて、中と外の境がなかった。天井に扇風機が三台。テーブルが七つか八つ。照明はオレンジ色で、暗かった。外から虫の声が入ってきた。


シオンはすでにいた。


奥のテーブル、一人で座っていた。今日はノートを持っていなかった。


飲み物を頼んだ。


シオンの前には、何か琥珀色のものがあった。


PONはビールにした。瓶で来た。グラスはなかった。


瓶の口が、唇に触れた。冷たかった。


演奏が始まった。


三人だった。ギター、ベース、それと小さなドラムセット。チェンマイで聴いたのと、似たような編成だった。


最初の一音が出た瞬間、空間の密度が変わった。


音が大きくなったわけではなかった。ただ、何かが加わった。


BPMは遅かった。ゆっくりした曲だった。コードが変わるまでに、時間があった。その間に、音が部屋の木に吸われて、返ってきた。


ギターの男が、歌い始めた。


歌というより、呼吸だった。


息を吸って、声にして、吐く。その繰り返しだった。言語はわからなかった。意味も取れなかった。でも呼吸の形が、聞こえた。


どこで息を吸うか。どこで止めるか。どこで全部吐くか。


そのリズムが、音楽のBPMとは少しズレていた。


でも、ズレたまま続いた。崩れなかった。


シオンがジャケットのポケットから、小さなものを出した。


ペーパーと、小さな袋。


自然な動作だった。テーブルの上で、手際よく作った。


火をつけた。


最初の煙を、ゆっくり吐いた。


煙が、扇風機の風に乗って、天井の方へ消えた。


PONへ、差し出した。


受け取った。


吸うと、煙が肺に入った。


止まった。


吐いた。


呼吸の速度が、一段落ちた感じがした。


落ちた、というのは悪い意味ではなかった。下の段に降りる感じ。そこからまた呼吸が始まる感じ。


音楽が、少し遅くなった気がした。


遅くなったのは音楽ではなく、自分の速度だった。


東京にいた頃のことを、考えた。


深夜、コードを書いていた。ターミナルが白く光っていた。新しいモデルが出た夜、試してみたくて、眠れなかった。何時間か経って、ふと気づくと、呼吸をしていなかった。


正確には、していた。でも、意識になかった。


集中すると、呼吸が止まる。止まらなくても、浅くなる。胸の上の方だけで、細く、速く。


あの頃の呼吸を、今の自分はできない気がした。


速すぎて、今の自分にはついていけない。


でも、あの熱狂は本物だった。世界が毎日更新されていた。寝るのが惜しかった。あの呼吸をしながら、本当に面白かった。両方、同時に本当だった。


ドラムが、少しだけ走った。


一拍、早かった。


ギターが合わせた。ベースは少し遅れた。


三人の呼吸が、一瞬ズレて、また戻った。


崩れなかった。


ズレたまま、続いた。


それが、部屋の空気を揺らしていた。


完璧に合っていたら、揺れなかっただろうと思った。


シオンが、また煙を吐いた。


今度はゆっくりだった。


PONはそのタイミングで、自分も息を吐いた。


意識したわけではなかった。


吐いてから、気づいた。


同じタイミングで吐いていた。


シオンは気づいていなかった。あるいは、気づいていて、何も言わなかった。


音楽が続いた。


客が増えた。


でも、うるさくならなかった。


みんな、演奏に合わせるように、声を落としていた。笑い声が上がることもあったが、演奏を壊さないような笑い声だった。


空間全体が、一つの呼吸をしていた。


吸って、止まって、吐く。


その大きな呼吸の中に、みんながいた。


「昔、呼吸を忘れてた」とPONは言った。


シオンは演奏を見たまま、聞いていた。


「コードを書いてるとき、気づいたら止まってた」


「止まってた?」


「呼吸が。浅くなって、止まる瞬間があった」


シオンは少し間を置いた。


「私も」とシオンは言った。「締め切り前、気づいたら何分も止まってた」


「何をしてたんですか、締め切りで」


「論文」とシオンは言った。「生態学。でもデータ解析してる間は、身体がなかった」


「身体がなかった」


「脳だけがあった」とシオンは言った。「そういう感じ」


演奏が一曲終わった。


静寂が来た。


誰も拍手しなかった。


する必要がなかった。空間が、そのまま次を待っていた。


演奏者たちが、水を飲んだ。それぞれの速度で。


次の曲が、始まった。


始まり方がわからなかった。誰かが合図したわけではなかった。ただ、始まった。呼吸のように。


深夜になった。


客が少しずつ減った。


シオンが立ち上がった。


「戻る」とだけ言った。


「また明日」


「たぶん」とシオンは言った。


それで十分だった。


シオンが出て行った。


少し経って、PONも出た。


帰り道、空を見た。


星が多かった。


昨日も見た。でも今日の方が多く見えた。


呼吸の速度が変わると、見えるものが増えるのかもしれなかった。


あるいは、同じものが、ただそこにあっただけだった。


宿に戻った。


部屋に入った。


扇風機が回っていた。


HUDを開こうとした。


その前に、自分の呼吸を聞いた。


吸う。


肺が膨らむ感触がある。


止まる。


一瞬だけ、すべてが止まる。


吐く。


ゆっくり、全部出す。


その間に、空白があった。


吸い終わってから吐くまでの、止まっている瞬間。


そこに何があるのかを、今まで考えたことがなかった。


何もなかった。


何もない、静かな空間があった。


そこへ、身体が戻ってくる感じがした。


HUDを起動した。


エージェントのサマリーが展開した。


発信元不明の通知が一件。


開いた。


「呼吸は、もっとも古い同期プロトコルです。」


PONはその一行を読んだ。


もう一行あった。


「完全同期では、休息が発生しません。」


通知を閉じた。


HUDを閉じた。


また、呼吸した。


吸って。


止まって。


吐く。


その空白が、今日はもう少し長かった。


扇風機の風が来た。


虫の声が聞こえた。


遠くで、演奏がまだ続いていた。


低い音が、夜の空気を揺らして、ここまで来ていた。


第十二話につづく

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