保存区域 チェンマイ 第十二話 通過
音楽が終わった。
終わり方がわからなかった。最後の音が、少しずつ小さくなって、気づいたら消えていた。誰かが止めたのではなく、ただ、終わった。呼吸が終わるように。
静寂が来た。
でも静寂ではなかった。虫の声があった。扇風機があった。遠くで、犬が一度だけ鳴いた。
音楽がなくなっただけだった。
演奏者たちが、机を片付け始めた。
ケーブルを巻いた。スタンドを畳んだ。誰も急いでいなかった。急ぐ理由がなかった。
客は、PONとシオンだけになっていた。
いつから二人だけになったのか、気づいていなかった。
グラスが空だった。氷が溶けて、水になっていた。
シオンは、テーブルに肘をついて、演奏者たちを見ていた。
今日はあまり話さなかった。
最初から少なかった。会話が途切れて、でも沈黙が重くなかった。音楽があったから、沈黙が形を持っていた。
音楽が終わっても、その形が少し残っていた。
煙が、消えていた。
一時間前まであった白い煙が、どこにもなかった。
扇風機が散らしたのか、天井に吸われたのか、ただ薄まったのか、わからなかった。
あった、という感触だけが残っていた。
匂いも、薄れていた。
完全にはなくならなかった。でも、探さないと感じられない程度になっていた。
「そろそろ」とシオンが言った。
立ち上がった。
椅子が、軋んだ。木の音がした。
PONも立った。
シオンは店の人に何かをタイ語で言った。笑い声が少し起きた。何を言ったかはわからなかった。
外に出た。
夜が深かった。
空に星があった。昨日より、多く見えた。気温が少し下がっていたから、空気が澄んでいた。
道を歩いた。
二人で歩いたが、話さなかった。
砂利の音がした。靴が砂利を踏む音。二つの音が、少しずれて続いた。
川のそばで、シオンが止まった。
水の音がした。暗くて、川は見えなかった。音だけがあった。
「パーイ、いつまでいるんですか」とPONは聞いた。
シオンは少し間を置いた。
「わからない」
「チェンマイへ戻るんですか」
「たぶん」とシオンは言った。「たぶん、のままにしておきたい」
PONはそれを聞いて、何も言わなかった。
たぶん、のままにしておく、という言い方が、何かに似ていた。
何に似ているかは、すぐには出てこなかった。
橋の手前で、シオンは別の道へ曲がった。
「また明日」とは言わなかった。
「おやすみ」とだけ言った。
PONも言った。
シオンが、暗い道の中へ消えた。
砂利の音が、少しずつ遠くなった。
聞こえなくなった。
PONは、そこに少し立っていた。
一人で歩いた。
川の音が続いていた。
暗い中で、木の輪郭が見えた。大きな木だった。根が道に張り出していた。
手を伸ばして、幹に触れた。
湿っていた。
夜の湿気を吸っていた。冷たくて、少しざらざらしていた。
木は、昼も夜も、雨の前も後も、ここにある。
でも昼に触れた木と、今触れている木は、同じではないかもしれなかった。
温度が違った。湿度が違った。
同じ木に、違う瞬間に触れていた。
宿への道で、男がいた。
四十代くらい。欧米系。食堂で本を読んでいた男だった。
今夜は本を持っていなかった。ただ、夜の空気の中に立っていた。
目が合った。
男は頷いた。PONも頷いた。
それだけだった。
すれ違って、男は別の方向へ歩いた。
男の背中を少し見てから、歩き続けた。
パーイには、一度速くなった人間が多い気がした。
ここにいる人間の多くは、最初から遅かったのではなかった。速くなって、その速度を知って、それから自分で落とした人間だった。
落とし方を知っているから、静かだった。
逃げてきたのではなく、選んでいた。
その違いは、外からはわからないかもしれなかった。でも、空気が違った。
部屋に戻った。
扇風機が回っていた。
窓が少し開いていた。夜の空気が入ってきていた。
ベッドに座った。
今日のことを、順番に思い出そうとした。
できなかった。
順番がなかった。音楽と、煙と、シオンの横顔と、川の音と、木の湿り気と、砂利の音が、順番なく、ただあった。
記録しようとすると、こぼれた。
HUDを起動した。
エージェントのサマリーが来た。収益フロー、正常。介入推奨、ゼロ件。
発信元不明の通知が一件。
開いた。
「保存は、停止を意味します。」
もう一行。
「人類は、消えていくものを愛しています。」
PONはその二行を、しばらく見た。
消えていくものを愛している。
愛している、という言葉が、静かに置かれていた。
通知を閉じた。
横になった。
天井を見た。
シオンがいつパーイを出るか、わからなかった。明日かもしれなかった。一週間後かもしれなかった。
わからないまま、今夜はここにいた。
それ以上のことは、今夜は考えなかった。
眠る前に、今夜の音楽を思い出そうとした。
メロディーが、出てこなかった。
でも、空気が来た。
あの揺れたBPMと、煙と、木の匂いと、虫の声と、扇風機と、人の呼吸が混ざった、あの密度が。
音楽は終わっていた。
でも、あの空気は、まだ肺の中に少し残っていた。
朝、目が覚めた。
早かった。空がまだ暗かった。
でも、夜ではなかった。夜と朝の間だった。
窓の外の空気が、違っていた。夜の湿度ではなく、朝に向かう乾いた感触になり始めていた。
虫の声が、薄くなっていた。
止んだのではなく、薄くなっていた。
どこかで一匹、まだ鳴いていた。
ベッドの上で、しばらく動かなかった。
手のひらを見た。
昨日、木に触れた手だった。シオンの肩が触れた側の手だった。
何も残っていなかった。
見た目には。
でも、感触の記憶が、どこかにあった。
皮膚の記憶、とでも言うものが。
起き上がって、窓を開けた。
夜明け前の空気が入ってきた。
冷たかった。
昨日の夜より、二度か三度、低い気がした。
HUDで確認しなかった。
肌が、知っていた。
空が、少しずつ明るくなっていた。
暗い青が、少しずつ薄くなっていった。
見ていると、変化がわからなかった。
でも、見続けていると、さっきより明るかった。
変化は、一瞬ではなかった。でも、気づくと変わっていた。
夜が終わっていた。
終わったのではなく、通過していた。
遠くで、鳥が鳴き始めた。
一羽が鳴いて、しばらくして、別の一羽が鳴いた。
読経が始まった。
かすかに、遠くから。
パーイにも寺があった。
この時間に、誰かが唱えていた。
PONは窓の前に座ったまま、それを聞いていた。
HUDを起動しなかった。
エージェントのことを、考えなかった。
シオンがいつ出発するかを、考えなかった。
ただ、空が明るくなっていくのを、見ていた。
音楽は昨夜に終わっていた。
煙は消えていた。
シオンは別の道へ消えていた。
夜は通過していた。
でも、手のひらにはまだ何かがあった。
肩にはまだ温度があった。
肺にはまだ、あの空気の残響があった。
消えた、のではなかった。
ここを通過して、どこかへ行っていた。
鳥の声が増えた。
空が、白くなった。
チェンマイの朝とは違う白さだった。
山が近いから、空気の層が違った。
薄くて、冷たくて、静かな白さ。
PONは、その白さの中に、しばらくいた。
第十三話につづく




