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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第十話 触れる速度

朝、床が冷たかった。


足の裏で、それを知った。


夜に雨が来たのだと思った。HUDを確認するより先に、わかった。コンクリートの床が、雨の後の温度をしていた。どういう温度かを説明するのは難しかった。ただ、そういう温度だった。


窓を開けると、土の匂いがした。


やはり、雨だった。


宿を出た。


草の上に、まだ露がついていた。道を歩くと、靴の底から湿り気が伝わってきた。防水ではない布の靴だったから、少しずつ染みてくる感覚があった。


不快かどうか聞かれれば、不快だった。


でも、止まらなかった。


染みてくる感覚を、足の裏で感じていた。


川沿いのカフェがあった。


木の建物だった。柱も、テーブルも、床も、木だった。


椅子に座ると、木の硬さが、腰から背中へ伝わった。


今まで、椅子の硬さを感じていたかどうか、思い出せなかった。東京の椅子は、人間工学的に設計されていた。何時間座っても疲れない角度。圧力の分散。気づかないうちに快適になっていた。


ここの椅子は、硬かった。


でも、自分が椅子の上にいることが、わかった。


コーヒーが来た。


陶器のマグカップだった。


両手で持った。


熱かった。持てないほどではないが、指先に確かに熱があった。その熱が、手のひらへ広がって、腕の内側まで伝わってくる感じがした。


東京では、コーヒーを飲むとき、温度を確認したことがほとんどなかった。最適な温度で提供されるから、確認する必要がなかった。


ここでは、確認した。


確認する必要があったからではなく、手のひらが先に知った。


シオンが来た。


今日も手ぶらではなく、ノートを持っていた。


向かいの席に座って、コーヒーを頼んで、ノートを開いた。


「昨日、川へ行きました」とPONは言った。


「橋の方?」


「そこで魚を見てた」


シオンはペンを動かしながら、少し笑った。口元だけの笑いだった。


「魚、いる」


「ずっと石の陰にいた」


「臆病なやつが多い」


PONはマグカップを両手で持ったまま、シオンのペンを見ていた。


紙の上を、ペン先が動く。引っかかる感触が、向こう側から来る気がした。摩擦。筆圧。紙の繊維とインクが接触する、あの感触。


見ているだけなのに、手のひらに来る感じがした。


「ノートに書いてること、聞いてもいいですか」


シオンはペンを止めた。


「図が多い」とシオンは言った。「言語より先に、形で考える癖がある」


「ずっとそうですか」


「チェンマイに来てから」とシオンは言った。「東京にいた頃は、全部テキストだった。考えもテキストだった」


「紙にするとどう違いますか」


シオンは少し考えた。


「遅い」と言った。「ペンは、脳より遅い。だから、脳が待つ」


「脳が待つ?」


「手が追いつくまで、考えが止まる。その間に、さっきまで考えてなかったことが来る」


PONはそれを聞いて、ターミナルを思い出した。


コードを書いていた頃。考えるより先に手が動いていた時期もあれば、手が止まって初めて考えが来る時期もあった。後者のほうが、良いものができた気がした。


でも、そのことを誰にも言ったことがなかった。


コーヒーをもう一杯、スタッフが持ってきた。


テーブルに置くとき、マグカップが木の天板を叩いた。低い音がした。


シオンが手を伸ばして、カップを受け取った。


その瞬間、スタッフの手とシオンの手が、少し触れた。


スタッフは何も言わなかった。シオンも何も言わなかった。


でもシオンの手が、一瞬だけ止まった。


それだけだった。


PONはそれを見ていた。見ていた、というより、感じていた。テーブルを通して、その静止が伝わってくる気がした。


昼前に、川まで歩いた。


シオンも来た。


二人で、橋を渡った。橋は木だった。踏むたびに、少し軋んだ。足の裏に、古い木の感触があった。


橋の中ほどで、シオンが欄干に手を置いた。


PONも隣で、手を置いた。


木が、太陽で温まっていた。


乾いた木の温度。その下を、川が流れていた。水の冷たさが、少し上がってくる気がした。温かい木と、冷たい川の空気が、手のひらの上で混ざっていた。


しばらく、何も言わなかった。


言う必要がなかった。


川の音と、風と、遠くで鳥が一羽、鳴いた。


橋を渡ったところで、犬がいた。


また茶色い犬だった。パーイの犬は、みんな似ていた。


犬はPONに近づいてきた。頭を下げた。


しゃがんで、頭に触れた。


毛が、思ったより柔らかかった。温かかった。生き物の温度だった。


犬は動かなかった。


しばらくそのまま、撫でていた。


指先に、毛の感触があった。奥に、頭蓋骨の硬さがあった。その下に、生きている何かがあった。


シオンが横で見ていた。


「犬、好きですか」


「わからない」とPONは言った。「でも触れていたい」


シオンは何も言わなかった。


午後、土産物屋の前を通った。


店先に、布が並んでいた。


シオンが立ち止まって、一枚を手に取った。


藍色の布だった。手触りを確かめるように、指の間で布を動かした。


「これ、機械織りじゃない」とシオンは言った。


「わかるんですか」


「なんとなく」とシオンは言った。「引っかかり方が違う。均一じゃない」


PONも、同じ布を触った。


引っかかりが、一定ではなかった。場所によって、少し厚い部分があった。繊維の密度が、微妙にちがう。


機械が作れない布ではないかもしれなかった。でも機械が作る必要を感じないような布でもあった。


夕方、雨が来た。


軒下で止まった。


シオンも同じ軒下に入った。


雨粒が、石畳を叩いていた。跳ねる音がした。乾いた石が、急に濡れる匂いがした。


肩が、少し触れていた。


布越しに、体温があった。


特に何も言わなかった。


雨を見ていた。


シオンの体温が、肩から腕へ、ゆっくり広がってくるような気がした。気がした、だけだったかもしれない。でも、その温度を、PONは確かに感じた。


雨が止んだ。


シオンは別の方向へ歩いた。


「また明日」とだけ言った。


「また明日」とPONは言った。


シオンが路地の角を曲がって、見えなくなった。


PONは、肩の温度がまだあるうちに、歩き始めた。


宿に戻った。


部屋に入った。


扇風機が回っていた。風が来るたびに、汗が少し冷えた。


窓から外を見た。暗くなり始めていた。木のシルエットが、空を背景に浮かんでいた。


HUDを起動しようとした。


その前に、机に手を置いた。


木の机だった。


表面に、使い込まれた感触があった。誰かが長い時間をかけて、触れ続けてきた木の感触。艶があった。でも完全には滑らかでなかった。傷があった。節があった。


温度は、中くらいだった。


熱くなく、冷たくなかった。


室温と同じだった。


でも、手のひらで感じると、確かに何かがあった。


自分が今ここにいる、ということが、手のひらから来た。


HUDを起動した。


エージェントのサマリーが展開した。収益フロー、正常。介入推奨、ゼロ件。


最後に、発信元不明の通知が一件。


開いた。


「触れることは、確認ではなく接続です。」


PONはその一行を読んだ。


机に置いた手を、まだ動かしていなかった。


接続、という言葉を、頭の中で繰り返した。


確認ではなく、接続。


データを取得するのではなく、そこに繋がる。


通知を閉じた。


HUDも閉じた。


扇風機の風が来た。


肩の温度が、少しだけ、まだあった。


木の机の温度が、手のひらにあった。


二つの温度が、部屋の暗さの中で、静かに続いていた。


第十一話につづく

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