表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノイズ(仮)  作者: fedlic
9/17

保存区域 チェンマイ 第九話 パーイへの道

アミンが言った。


「パーイへ行ったことは?」


川沿いのベンチだった。午後の雨が来る前の、光が白くなる時間。アミンはいつものように何も持っていなかった。荷物も、飲み物も。


「ない」とPONは言った。


「行ったほうがいい」


「なんで」


アミンは川を見たまま、少し間を置いた。


「チェンマイより、遅い」


---


パーイのことは聞いたことがあった。


チェンマイから北へ、山を越えた場所にある小さな町。距離は大したことないが、山道が続くので時間がかかる。バスで三時間。


HUDで検索すれば、観光情報が出てくるはずだった。


出さなかった。


「どんな場所ですか」


「同期が弱い」とアミンは言った。「インフラが薄いから」


「不便では」


「不便」と即答した。「でも、それが目的で行く人間もいる」


川に、鳥が一羽降りた。水面を蹴って、また飛んでいった。


「アミンさんは行ったことあるんですか」


「住んでいた」とアミンは言った。「一年ほど」


「なんで戻ったんですか」


アミンはしばらく、川を見ていた。


「戻りたくなった」とだけ言った。


---


その夜、シオンに話した。


「パーイ、知ってますか」


シオンはノートを閉じた。今日は赤い表紙だった。


「知ってる」


「行ったことは」


「ある」とシオンは言った。「二回」


「どうでしたか」


シオンは少し考えた。考えるとき、目が少し上を向く。


「最初の三日間、手が震えた」


「怖かったんですか」


「違う」とシオンは言った。「HUDの情報密度が急に下がるから、身体が対応しようとする。それが震えに出た」


「三日後は」


「止まった」とシオンは言った。「で、空がよく見えた」


それだけだった。


空がよく見えた、の意味を、PONは聞かなかった。


---


三日後、PONはバスに乗った。


特に決意はなかった。


朝、目が覚めて、エージェントのサマリーを確認して、介入推奨ゼロ件を確認して、それからなんとなく、行こうと思った。


荷物は小さかった。着替えが二日分。タブレット。充電器。それだけ。


バスターミナルは、チェンマイの街外れにあった。


---


バスは古かった。


電動ではなかった。エンジンがあった。振動があった。座席のクッションが薄かった。


乗客は十二人ほど。タイ人が多く、外国人はPONを含めて三人だった。


窓が開いていた。


エアコンはあったが、効きが弱かった。窓から風が入ってきた。道路の匂い、木の匂い、時々、何かを焼いている匂い。


HUDを確認した。電波は普通にあった。


閉じた。


---


山道に入ると、揺れが増した。


カーブが続いた。左へ、右へ、また左へ。体重が移動するたびに、身体がそれを感じた。シートベルトが肩に食い込んだ。


窓の外は、緑だった。


高さのある木が続いていた。光が葉の間から落ちてきて、バスの中で揺れていた。


PONは窓の外を見ていた。


見ていると、思考が止まった。


止まる、というのは正確ではなかった。流れ方が変わった。カーブに合わせて、思考が揺れた。どこかへ向かわない思考。


それが、悪くなかった。


---


途中、小さな集落で止まった。


運転手が降りて、道端の屋台で何かを買った。乗客の何人かも降りた。


PONも降りた。


空気が違った。


チェンマイより、乾いていた。標高のせいだろうか。少しだけ涼しかった。


屋台に、揚げたバナナが並んでいた。


一本、買った。


熱かった。甘かった。


バスに戻りながら、それを食べた。手が少し油で光った。


---


パーイに着いたのは、昼過ぎだった。


バスターミナルは、小屋のようなものだった。屋根と柱だけ。ベンチが数脚。


降りると、静かだった。


チェンマイより、音が少なかった。バイクは走っていたが、数が少なかった。人も少なかった。道が広かった。空が多かった。


空が多い、というのは変な言い方だが、そう感じた。


建物が低いから、空が見える範囲が広かった。


---


宿は、事前に決めていなかった。


歩いた。


二十分ほど歩くと、木の看板が出ていた。ゲストハウスだった。入ると、犬が一匹いた。茶色い、中くらいの犬。さっきの寺の犬に似ていた。


受付の男性は、五十代くらいだった。何も聞かずに、一部屋の値段を空間に表示した。


払った。


---


部屋は小さかった。


窓が一つ。外に木が見えた。扇風機が天井にあった。エアコンはなかった。


HUDで室温を確認しようとして、確認しなかった。


暑かった。でも、耐えられない暑さではなかった。扇風機を最大にして、窓を開けた。


風が入ってきた。


草の匂いがした。


---


夕方、町を歩いた。


小さかった。


メインストリートが一本あって、その周りに小さな店が並んでいた。カフェ、食堂、土産物屋、マッサージ店。


人の流れが、チェンマイより遅かった。


歩く速度が遅かった。立ち止まる人間が多かった。目的地へ急いでいる人間が、少なかった。


PONも、速度を落とした。


自然に、落ちた。


---


川があった。


細い川で、橋がかかっていた。橋の上で、若い男女が写真を撮っていた。スマートフォンではなく、フィルムカメラだった。


フィルムカメラを、久しぶりに見た。


東京にいた頃も、たまに見かけた。でもそれは、意図的なレトロだった。ここの二人は、特に意識している様子がなかった。ただ、使っていた。


橋の手すりに寄りかかって、川を見た。


水が透明だった。底の石が見えた。魚が一匹、石の陰にいた。


どのくらいそこにいたか、わからなかった。


---


夜、食堂に入った。


メニューはタイ語だけだった。


HUDで翻訳しようとして、やめた。


写真があった。指さして、頼んだ。


何が来るか、わからなかった。


来たのは、豚肉と野菜の炒め物だった。辛かった。美味かった。


---


食堂の隅で、男が本を読んでいた。


紙の本だった。


四十代くらい。欧米系の顔立ち。眼鏡。ページをめくる速度が、遅かった。一ページに、長い時間をかけていた。


HUDで情報を見るより、ずっと遅い速度。


でも、男の顔は穏やかだった。


急いでいなかった。


---


宿に戻って、横になった。


扇風機の音。虫の声。遠くで、犬が鳴いた。


HUDを確認した。


電波は弱かった。チェンマイより、一段階下がっていた。エージェントのサマリーが、更新に少し時間がかかった。


読み込みを待ちながら、PONはシオンの言葉を思い出した。


手が震えた、と言っていた。


自分の手を見た。


震えていなかった。


でも、何かが違った。


情報の密度が薄い空気の中に、身体が置かれている感じがした。薄い、というのは欠乏ではなかった。ただ、少なかった。それだけだった。


エージェントのサマリーが表示された。


問題なし。介入推奨、ゼロ件。


閉じた。


---


発信元不明の通知が来た。


電波が弱いせいか、来るまでに時間がかかった。


開いた。


*「情報密度が下がると、身体の感度が上がります。」*


それだけだった。


PONはその一行を読んで、窓の外を見た。


星が見えた。


チェンマイでは、あまり見えなかった。光が多いから。


ここは暗かった。


だから、星があった。


---


眠った。


夢を見た。


内容は、また消えた。


でも今回は、感触が二つ残った。


星の光と、川の音。


どちらも、夢の中にあったのか、現実にあったのかわからなかった。


窓が開いていたから、川の音は本当に聞こえていたかもしれなかった。


区別しなかった。


しなくていい気がした。


*第十話につづく*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ