保存区域 チェンマイ 第九話 パーイへの道
アミンが言った。
「パーイへ行ったことは?」
川沿いのベンチだった。午後の雨が来る前の、光が白くなる時間。アミンはいつものように何も持っていなかった。荷物も、飲み物も。
「ない」とPONは言った。
「行ったほうがいい」
「なんで」
アミンは川を見たまま、少し間を置いた。
「チェンマイより、遅い」
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パーイのことは聞いたことがあった。
チェンマイから北へ、山を越えた場所にある小さな町。距離は大したことないが、山道が続くので時間がかかる。バスで三時間。
HUDで検索すれば、観光情報が出てくるはずだった。
出さなかった。
「どんな場所ですか」
「同期が弱い」とアミンは言った。「インフラが薄いから」
「不便では」
「不便」と即答した。「でも、それが目的で行く人間もいる」
川に、鳥が一羽降りた。水面を蹴って、また飛んでいった。
「アミンさんは行ったことあるんですか」
「住んでいた」とアミンは言った。「一年ほど」
「なんで戻ったんですか」
アミンはしばらく、川を見ていた。
「戻りたくなった」とだけ言った。
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その夜、シオンに話した。
「パーイ、知ってますか」
シオンはノートを閉じた。今日は赤い表紙だった。
「知ってる」
「行ったことは」
「ある」とシオンは言った。「二回」
「どうでしたか」
シオンは少し考えた。考えるとき、目が少し上を向く。
「最初の三日間、手が震えた」
「怖かったんですか」
「違う」とシオンは言った。「HUDの情報密度が急に下がるから、身体が対応しようとする。それが震えに出た」
「三日後は」
「止まった」とシオンは言った。「で、空がよく見えた」
それだけだった。
空がよく見えた、の意味を、PONは聞かなかった。
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三日後、PONはバスに乗った。
特に決意はなかった。
朝、目が覚めて、エージェントのサマリーを確認して、介入推奨ゼロ件を確認して、それからなんとなく、行こうと思った。
荷物は小さかった。着替えが二日分。タブレット。充電器。それだけ。
バスターミナルは、チェンマイの街外れにあった。
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バスは古かった。
電動ではなかった。エンジンがあった。振動があった。座席のクッションが薄かった。
乗客は十二人ほど。タイ人が多く、外国人はPONを含めて三人だった。
窓が開いていた。
エアコンはあったが、効きが弱かった。窓から風が入ってきた。道路の匂い、木の匂い、時々、何かを焼いている匂い。
HUDを確認した。電波は普通にあった。
閉じた。
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山道に入ると、揺れが増した。
カーブが続いた。左へ、右へ、また左へ。体重が移動するたびに、身体がそれを感じた。シートベルトが肩に食い込んだ。
窓の外は、緑だった。
高さのある木が続いていた。光が葉の間から落ちてきて、バスの中で揺れていた。
PONは窓の外を見ていた。
見ていると、思考が止まった。
止まる、というのは正確ではなかった。流れ方が変わった。カーブに合わせて、思考が揺れた。どこかへ向かわない思考。
それが、悪くなかった。
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途中、小さな集落で止まった。
運転手が降りて、道端の屋台で何かを買った。乗客の何人かも降りた。
PONも降りた。
空気が違った。
チェンマイより、乾いていた。標高のせいだろうか。少しだけ涼しかった。
屋台に、揚げたバナナが並んでいた。
一本、買った。
熱かった。甘かった。
バスに戻りながら、それを食べた。手が少し油で光った。
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パーイに着いたのは、昼過ぎだった。
バスターミナルは、小屋のようなものだった。屋根と柱だけ。ベンチが数脚。
降りると、静かだった。
チェンマイより、音が少なかった。バイクは走っていたが、数が少なかった。人も少なかった。道が広かった。空が多かった。
空が多い、というのは変な言い方だが、そう感じた。
建物が低いから、空が見える範囲が広かった。
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宿は、事前に決めていなかった。
歩いた。
二十分ほど歩くと、木の看板が出ていた。ゲストハウスだった。入ると、犬が一匹いた。茶色い、中くらいの犬。さっきの寺の犬に似ていた。
受付の男性は、五十代くらいだった。何も聞かずに、一部屋の値段を空間に表示した。
払った。
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部屋は小さかった。
窓が一つ。外に木が見えた。扇風機が天井にあった。エアコンはなかった。
HUDで室温を確認しようとして、確認しなかった。
暑かった。でも、耐えられない暑さではなかった。扇風機を最大にして、窓を開けた。
風が入ってきた。
草の匂いがした。
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夕方、町を歩いた。
小さかった。
メインストリートが一本あって、その周りに小さな店が並んでいた。カフェ、食堂、土産物屋、マッサージ店。
人の流れが、チェンマイより遅かった。
歩く速度が遅かった。立ち止まる人間が多かった。目的地へ急いでいる人間が、少なかった。
PONも、速度を落とした。
自然に、落ちた。
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川があった。
細い川で、橋がかかっていた。橋の上で、若い男女が写真を撮っていた。スマートフォンではなく、フィルムカメラだった。
フィルムカメラを、久しぶりに見た。
東京にいた頃も、たまに見かけた。でもそれは、意図的なレトロだった。ここの二人は、特に意識している様子がなかった。ただ、使っていた。
橋の手すりに寄りかかって、川を見た。
水が透明だった。底の石が見えた。魚が一匹、石の陰にいた。
どのくらいそこにいたか、わからなかった。
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夜、食堂に入った。
メニューはタイ語だけだった。
HUDで翻訳しようとして、やめた。
写真があった。指さして、頼んだ。
何が来るか、わからなかった。
来たのは、豚肉と野菜の炒め物だった。辛かった。美味かった。
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食堂の隅で、男が本を読んでいた。
紙の本だった。
四十代くらい。欧米系の顔立ち。眼鏡。ページをめくる速度が、遅かった。一ページに、長い時間をかけていた。
HUDで情報を見るより、ずっと遅い速度。
でも、男の顔は穏やかだった。
急いでいなかった。
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宿に戻って、横になった。
扇風機の音。虫の声。遠くで、犬が鳴いた。
HUDを確認した。
電波は弱かった。チェンマイより、一段階下がっていた。エージェントのサマリーが、更新に少し時間がかかった。
読み込みを待ちながら、PONはシオンの言葉を思い出した。
手が震えた、と言っていた。
自分の手を見た。
震えていなかった。
でも、何かが違った。
情報の密度が薄い空気の中に、身体が置かれている感じがした。薄い、というのは欠乏ではなかった。ただ、少なかった。それだけだった。
エージェントのサマリーが表示された。
問題なし。介入推奨、ゼロ件。
閉じた。
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発信元不明の通知が来た。
電波が弱いせいか、来るまでに時間がかかった。
開いた。
*「情報密度が下がると、身体の感度が上がります。」*
それだけだった。
PONはその一行を読んで、窓の外を見た。
星が見えた。
チェンマイでは、あまり見えなかった。光が多いから。
ここは暗かった。
だから、星があった。
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眠った。
夢を見た。
内容は、また消えた。
でも今回は、感触が二つ残った。
星の光と、川の音。
どちらも、夢の中にあったのか、現実にあったのかわからなかった。
窓が開いていたから、川の音は本当に聞こえていたかもしれなかった。
区別しなかった。
しなくていい気がした。
*第十話につづく*




