第96話 朽ちた幻
石壁の向こうにあったのは、ひどく静かな部屋だった。
中央に置かれた、大きな水槽。
その中を満たしているのは、透明な液体。
そして――。
その液体の中に、何かが沈んでいた。
「……何、これ」
エルフィナが息を呑む。
近づいてみても、それが何なのか分からない。
獣のようにも見える。
けれど、普通の魔物とは明らかに違っていた。
身体の一部は硬質な殻のようになり、皮膚には古い魔力の痕跡が残っている。
目は閉じられたまま。
長い年月、微動だにしていない。
「生きてるのか……?」
ガルドが顔をしかめる。
「分からない」
エルフィナが首を振る。
「少なくとも、この液体は保存用の魔法薬だと思う」
「保存……」
ミラベルは水槽の中を見つめた。
こんな場所に。
誰にも知られず。
ずっと残されていたもの。
「ここで……何をしていたんだろう」
答えはない。
四つ脚の魔物だけが、水槽の前に座っていた。
じっと。
中にいるものを見つめている。
「……あなたは、これを知ってるの?」
ミラベルが問いかける。
魔物は動かない。
ただ、水槽を見つめ続けている。
まるで。
何かを見せるために、ここまで連れてきたようだった。
ミラベルは少しだけ首を傾げる。
「でも……」
胸元のペンダントに触れる。
何も起こらない。
水槽の中のものからも、特別な反応はない。
「……分からないね」
ミラベルは小さく呟いた。
その時だった。
――ゴゴゴゴゴ……!
突然、地面が大きく揺れた。
「うわっ!」
ガルドが壁に手をつく。
水槽の液体が大きく揺れる。
天井から砂埃が降り注いだ。
「また崩れるの!?」
エルフィナが声を上げる。
ノアはすぐに出口へ目を向けた。
そして。
「……セレス」
「え?」
「さっきの爆発」
ノアの表情が険しくなる。
「この揺れ……あいつのいる辺りから来てるかもしれない」
ミラベルの胸がざわついた。
「……行こう」
「でも、あの子は?」
エルフィナが四つ脚の魔物を見る。
魔物はまだ、水槽の前にいる。
ミラベルは迷った。
けれど。
「……この子は、ここにいたいんだと思う」
根拠なんてなかった。
ただ、そんな気がした。
「それに……」
ミラベルは水槽を振り返る。
「今は、セレスを探さないと」
ノアが頷く。
「急ごう」
四人は部屋を出た。
足音が遠ざかっていく。
やがて。
静寂。
誰もいない。
四つ脚の魔物は、しばらく水槽を見つめていた。
そして。
ゆっくりと立ち上がる。
一度だけ、閉じた扉へ視線を向けた。
それから――
いくつもの檻が並ぶ、部屋の奥へ歩き出した。
一つ。
また一つ。
重なり合う鉄格子の向こうへ。
その姿は、やがて暗闇に溶けていった。
誰もいなくなった部屋。
水槽の中。
液体に沈んでいたそれの指先が――
ほんの僅かに動いた。
ぴくり。
水面が揺れる。
それだけだった。
まるで。
長い眠りから目覚めるには、まだ早いとでもいうように。




