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第90話 眠り続けた野獣

見覚えはない。


花のようにも、翼のようにも見える紋章。


それなのに。


胸の鼓動だけが、不自然なほど速くなっていた。


(……なんだろう)


気のせい。


そう思おうとした、その瞬間――。


「ミラベル!」


ノアの鋭い声が響く。


「避けろ!」


魔物が地を蹴った。


鋭い爪が一直線に迫る。


ミラベルは咄嗟に身をひねる。


爪は頬をかすめ、そのまま後方の石壁を切り裂いた。


轟音とともに石片が飛び散る。


「ちっ!」


ガルドが剣を抜き放つ。


「囲むぞ!」


「待って!」


ミラベルの声に、三人の動きが止まる。


魔物は低く唸りながらも、視線だけはミラベルから逸らさない。


敵意だけではない。


何かを確かめるような眼差しだった。


「魔物だぞ!」


ガルドが叫ぶ。


「近づくな、ミラベル!」


「それ以上近づくと危ないわ!」


エルフィナの声にも焦りが滲む。


それでも、ミラベルは一歩踏み出した。


「くそっ……!」


ノアが舌打ちする。


「聞いちゃいない!」


腕を掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。


ドクン。


胸元のペンダントが脈打つ。


淡い金色の光が、静かに溢れた。


魔物の動きが止まる。


振り上げていた前脚が、ゆっくりと下ろされた。


濁っていた瞳が、わずかに揺れる。


「……何が起こってる?」


ガルドが戸惑いを隠せず呟く。


「お前、何をしたんだ?」


ノアも目を細める。


ミラベルは首を横に振った。


「……分からない」


正直な気持ちだった。


「でも……」


魔物を見つめる。


「この子、危険じゃない気がする」


「気がするって……」


ガルドは額に手を当てた。


「相手は魔物だぞ?」


ミラベルも、自信があるわけではない。


ただ。


胸元のペンダントは、不思議なくらい穏やかな鼓動を刻んでいた。


「この施設……」


崩れた壁。


散乱した研究具。


壁一面に描かれた、擦れた巨大な魔法陣。


そして、この魔物。


「何なんだろう……」


誰へともなく呟く。


少し考えたあと、ミラベルは魔物へ視線を向けた。


「あなた以外にも……いるの?」


当然、返事はない。


「聞いて答えるわけないだろ」


ガルドがすかさず突っ込む。


思わずミラベルは苦笑した。


その時だった。


魔物がゆっくりと踵を返す。


四人の間に緊張が走る。


だが、襲ってくる様子はない。


一度だけ振り返り、ミラベルを見つめる。


そして、研究所のさらに奥へと歩き始めた。


「……行くのか?」


ガルドが呟く。


ノアは魔物とミラベルを交互に見つめる。


「罠かもしれない」


「それでも」


ミラベルは静かに頷いた。


「あの子は、何かを伝えようとしてる気がする」


誰も確信は持てなかった。


それでも四人は、魔物の後を追うように歩き始めた。


◇


旧魔法研究所の入口。


崩れた石門の前で、一人の監察官が静かに研究所を見つめていた。


遠くから、魔物の咆哮が微かに響く。


隣に控える部下が、不安そうに口を開いた。


「本当に……よろしかったのでしょうか」


「学生を、あのような場所へ送り込んで」


監察官は答えない。


朽ちた研究所を見つめたまま、小さく息を吐く。


半世紀以上、人の手が入っていない禁域。


何が眠り、何が目覚めるのか。


誰にも分からない。


「試験とはいえ……」


部下は続ける。


「あそこは未開の地です」


「何が起きても、不思議ではありません」


しばらくの沈黙のあと。


監察官は低く呟いた。


「……王女殿下のお考えだ」


その声に、信奉の色はなかった。


「我らには、到底理解の及ばぬことなのだろう」


冷たい風が吹き抜ける。


朽ちた旧魔法研究所は、何も答えなかった。

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