第87話 幾年後の約束
白い世界だった。
どこまでも白い。
空もない。
地面もない。
上下も、遠近もない。
ただ、世界から余計なものだけを取り除いたような場所。
風はない。
音もない。
けれど――。
「……」
ミラベルは静かに目を開いた。
聞こえるものは一つだけ。
自分の鼓動。
トクン。
トクン。
生きていることを確かめるように、胸の奥で響いている。
ミラベルは胸元のペンダントを握り締めた。
「……ここは?」
呟いた声は、白い空間の中に残る。
旧魔法研究所。
ノアたちと共に扉へ近づいたところまでは覚えている。
そして――。
あの女性。
知らないはずなのに、なぜか懐かしく感じた。
彼女はいったい、誰だったのか。
その時。
「ようやく起きたか」
声が響いた。
低く、古い声。
ミラベルが振り返る。
そこには小さな光が浮かんでいた。
淡い輝きは、ゆっくりと形を持つ。
透き通る羽。
幼い子どものような姿。
けれど、その瞳だけは違った。
長い年月を生きた者だけが持つ、深い色。
「久しいのぉ」
妖精はそう言った。
その瞬間。
ミラベルのペンダントが淡く光る。
妖精の目が細められた。
「……アウレリア」
知らない名前。
けれど。
胸の奥が、わずかに揺れた。
「違います」
ミラベルは首を振る。
「私はミラベルです」
妖精はしばらく彼女を見つめ、ペンダントへ視線を落とした。
「……なるほどの」
「わしも長く眠りすぎたか」
「魔力の残り香だけで見間違えるとは」
小さく笑う。
悪意はなかった。
ただ、本当に間違えたのだろう。
「あなたは……アウレリアという人を知っているんですか?」
ミラベルが尋ねる。
妖精は目を細めた。
「知っておるとも」
「変わった人間じゃった」
懐かしむ声。
「暇さえあれば、この場所の泉へ来ておった」
「最初は、なんと騒がしい娘だと思ったものじゃ」
「人間など、すぐ飽きて帰る」
「じゃが、あやつは違った」
「毎日のように来ては、一人で喋って帰る」
ミラベルは思わず微笑んだ。
「……想像できます」
「ほう?」
「いえ……」
前に見た。
精霊を通して見た、あの女性。
明るく。
真っ直ぐで。
周囲まで笑顔にする人。
「そういう人だったのかな、と」
妖精は頷く。
「そうじゃ」
「王女のくせに身分など気にせん」
「研究者と笑い、兵士と飯を食い、精霊まで友人扱いじゃ」
「退屈せん人間だった」
ミラベルは静かに聞いていた。
アウレリア。
自分の母だと聞かされても。
まだ実感はない。
顔も知らない。
声も知らない。
一緒に過ごした記憶もない。
ミラベルにとって彼女は、まだ知らない女性だった。
けれど。
少しだけ、知りたいと思った。
「ある日じゃ」
妖精が続ける。
「あやつは、わしに頼み事をした」
『もし私の娘がここへ来たら』
『少しだけ、話し相手になってあげて』
「当然、わしは断った」
「断ったんですか?」
ミラベルが驚く。
「当たり前じゃ」
妖精は鼻を鳴らす。
「精霊を何だと思っておる」
「じゃが……」
少し苦笑する。
「あやつは言った」
『今までずっと話し相手になってあげたでしょ?』
『そのお礼に、一つくらいお願い聞いてよ』
「……」
「まったく」
妖精は呆れたように笑う。
「精霊相手に、あれほど強引な人間は初めてじゃった」
「じゃが」
「最後には、断れんかった」
その声は、どこか優しかった。
「だからな」
妖精はミラベルを見る。
「来たら少しだけ相手をしてやる、と答えた」
「それだけじゃ」
「使命でもない」
「約束でもない」
「ただの……暇潰しの続きじゃ」
ミラベルは小さく笑った。
「……変な人ですね」
「そうじゃろう?」
妖精も笑う。
「本当に変わった人間だった」
「さて」
妖精は話を変えるように尋ねた。
「少し聞こう」
「お主」
「力が欲しいか?」
ミラベルは黙った。
力。
前世では何もできなかった。
助けを求めても。
手を伸ばしても。
届かなかった。
けれど今は違う。
ノア。
セレス。
エルフィナ。
ガルド。
リナ。
大切な人たちがいる。
「……はい」
妖精は目を細める。
「理由は?」
「守るためです」
妖精は静かに笑った。
「皆そう言う」
責める声ではない。
ただ、確かめる声。
「では、もう一つ」
「一人しか救えぬ時」
「お主は、どうする?」
答えは出なかった。
誰かを選ぶ。
誰かを諦める。
そんな覚悟は、まだない。
沈黙。
妖精は小さく笑った。
「それでよい」
「今、答えを作る必要などない」
「人間はな」
「追い詰められた時にこそ、本当の姿を見せる」
その瞬間。
ゴォン――。
鐘の音が響いた。
白い世界に亀裂が走る。
妖精が振り返る。
「始まったか」
「試験ですか?」
「さあな」
妖精は肩をすくめる。
「人間どもが勝手に始めたことじゃ」
そして最後に。
ミラベルを見る。
「だが」
「少し楽しみにはなった」
「お主が、本当にアウレリアの娘なのか」
その言葉と同時に。
世界が砕けた。
◇
「ミラベル!」
ノアの声が響く。
目を開く。
そこは旧魔法研究所だった。
崩れた石柱。
開き始めた巨大な扉。
王家監察官は静かに告げる。
「第二段階を開始する」
地面が震える。
扉の奥から未知の魔力が流れ込む。
ミラベルは胸元のペンダントを握った。
妖精の問いが残っている。
――一人しか救えぬ時。
――お主は、どうする。
その答えを探すように。
五人はゆっくりと、扉の奥へ進んだ。




