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第74話 守り神の水

――バシャァッ!!


大きな水飛沫が沢に舞い上がる。


「冷たっ……!」


激しく流されながらも、ミラベルは何とか身体を起こした。


荒い息を整えようとした、その時だった。


「あれ……?」


焼けるように痛んでいた右腕。


そこに走っていた激痛が、ゆっくりと引いていく。


恐る恐る腕を見る。


さっきまで浮かび上がっていた黒い紋様は、まるで最初からなかったかのように消えていた。


「痛く……ない」


不思議だった。


瘴気をまともに受けたはずなのに、身体まで軽くなっている。


足元を流れる沢の水が、優しく肌を撫でていく。


どこか懐かしく、温かな感覚だった。


「この水……」


その時だった。


「ミラベル! 前だ!」


セレスの叫びが沢に響く。


顔を上げた瞬間。


目の前には、瘴気をまとった魔物が巨大な腕を振り上げていた。


「っ!」


咄嗟に身をひねる。


――ドォン!!


黒い腕が水面を叩きつけ、水柱が空高く舞い上がった。


「こっちだ!」


セレスが炎の魔法を放つ。


燃え上がる炎が魔物を包み、風の刃がその身体を切り裂く。


しかし――。


裂けた身体は黒い霧となり、再び集まり始める。


「再生した!?」


セレスは思わず息を呑む。


「普通の魔物じゃない……!」


老婆は水車を見つめたまま、小さく震えていた。


「とうとう……限界が来たんじゃ……」


「限界?」


ミラベルが振り返る。


老婆はゆっくり水車へ手を伸ばした。


「もう何十年も……守り神の力は弱り続けとった」


ギィ……


ギィ……


水車は苦しそうに軋みながら回っている。


回転は今にも止まりそうだった。


「この水車が……守り神?」


老婆は静かに頷く。


「この水車を流れた水は、人を守る水になる」


「瘴気を弱め、大地を清め、村を守る……そう伝えられてきた」


「じゃが、その理由を知る者は、もう誰もおらん」


ミラベルは沢へ視線を落とす。


だから、この水に触れた瞬間――


腕の痛みが消えた。


胸元のペンダントが、淡く光る。


まるで、この場所に応えるように。


その時だった。


魔物が咆哮を上げる。


黒い瘴気がさらに膨れ上がり、沢全体を覆い尽くそうとした。


「来る!」


セレスが前へ出る。


「ミラベル! 逃げろ!」


しかし。


ミラベルは一歩、前へ踏み出した。


「セレス」


静かな声だった。


「私が守る」


「……え?」


セレスは思わず振り返る。


その声は、いつものミラベルではなかった。


優しく、それでいて揺るぎない意志を秘めた声。


ミラベル自身も戸惑っていた。


どうしてそんな言葉が出たのか。


どうして身体が自然と前へ出るのか。


分からない。


ただ一つ。


この場所だけは、守らなければならない。


その想いだけが胸いっぱいに溢れていた。


ペンダントが眩く輝く。


世界から音が消えた。


風も。


沢のせせらぎも。


魔物の咆哮さえも。


静寂の中で。


ミラベルの口が、ひとりでに開いた。


「──巡る命よ」


「穢れを祓い」


「守りの流れを、今ここに」


詠唱を覚えた記憶はない。


それでも言葉は止まらない。


金色の魔法陣が沢一面へ広がっていく。


光は水を伝い、水車へ流れ込む。


ギィ……


ギィ……


軋んでいた水車が、ゆっくりと動き始める。


やがて。


ゴォォォォッ――!


勢いよく回転を始めた。


回るたび、水車から淡い光が溢れる。


その光は沢を流れ、魔物を包み込んだ。


「ギャアアアアアッ!!」


瘴気が悲鳴を上げる。


黒い霧は引き裂かれ、光に浄化されるように崩れ去っていく。


やがて最後の瘴気が消えた。


静寂。


沢には、水車の回る心地よい音だけが残る。


セレスは呆然と立ち尽くしていた。


「……そんな」


知っている魔法ではない。


王家の魔法でも。


学園で教わる魔法でも。


古い文献で読んだ魔法でもない。


「こんな魔法……存在するのか」


ミラベルは自分の両手を見つめる。


「私……何をしたの?」


誰よりも、自分自身が分かっていなかった。


老婆は震える足で水車へ歩み寄る。


そっと木枠へ触れる。


温かな光が指先を照らした。


「動いた……」


涙が溢れる。


「守り神が……帰ってきた」


その声は、水車へ向けたものなのか。


それとも、遠い昔にこの守りを残した誰かへ向けたものなのか。


誰にも分からなかった。

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