第29話 黒く染まる池
——学園・訓練場奥の池
学園の敷地の端。
訓練場のさらに奥には、
ほとんど人の来ない池があった。
静かな水面。
昼でも薄暗く、
訓練用以外では滅多に使われない場所。
「ここならバレないだろ」
他科の男子生徒が、
笑いながら地面へ魔法陣を描く。
遊び半分だった。
本来なら、
起動するほどの魔力もない簡易術式。
——だが。
描かれた陣の一部が、
微かに黒く滲んだ。
「……え?」
空気が揺れる。
小さな火の粉のような光が、
魔法陣の中央で瞬いた。
嫌な気配。
「お、おい……なんか変じゃ——」
直後。
魔法陣が、
ぐにゃりと歪む。
「やばっ……!」
慌てて消そうとする。
だが、
触れた瞬間に指先が弾かれた。
「なんだよこれ……!」
焦った生徒は、
半ば投げるように魔法陣の紙を池へ捨てる。
紙は水面へ落ち、
ゆっくり沈んでいった。
——その瞬間。
池の奥底で、
何かが“脈打った”。
だが、
誰も気づかない。
——
翌朝。
学園に悲鳴が響いた。
「きゃあああっ!?」
小型の魔物が、
校舎内を飛び回る。
廊下を走り、
教室へ入り込み、
机や窓を荒らしていく。
「落ち着け! 一般生徒は避難しろ!」
教官たちの怒号。
特別科の生徒たちが、
次々と魔物を迎撃していく。
炎。
風。
光。
魔法が飛び交い、
騒然とした空気が学園を包んでいた。
「これは……多すぎる」
セレスが眉をひそめる。
「発生源があるはずだ」
ノアは周囲を鋭く見渡した。
——
混乱は昼過ぎまで続いた。
校舎内の魔物は、
ほとんど討伐完了。
一般科の授業も、
規模を縮小しながら再開される。
だが——
原因だけが、
まだ分かっていなかった。
教官たちと特別科は、
学園内の調査を続けていた。
——
訓練場奥。
ミラベルは、
ふと足を止めた。
(……あれ?)
視線の先。
池の水が、
妙に黒い。
(あんな色、だったっけ……?)
違和感に引かれるように、
人気のない池へ近づいていく。
足を止めた。
「……っ」
違和感。
水面が黒い。
泡が小さく浮かび、
池の底で何かが揺れている。
胸元のペンダントへ触れる。
じんわりと熱を持った。
(……やっぱり、おかしい)
ミラベルはそっと手をかざす。
淡い光。
守護魔法が、
微かに反応した。
その瞬間。
左手首が、
じわりと熱を持つ。
「……っ」
思わず息を呑む。
袖の奥。
白い肌へ、
淡い紋様が一瞬だけ浮かび上がった。
まるで、
何かへ呼応するように。
だが。
ミラベル自身は、
その変化に気づかない。
——ボコッ。
池が揺れる。
「……え?」
黒い水面を裂き、
小さな影が飛び出した。
一体。
二体。
三体。
次々と、
魔物が姿を現す。
「っ……!」
ミラベルが後退る。
そのとき——
「歪み」
声がした。
低く。
感情のない声。
背筋が、
ぞくりと粟立つ。
“誰か”に見られている。
そんな感覚が、
突然首筋へ絡みついた。
揺れる木々。
暗い茂み。
そこには何もない。
それなのに——
確かに“視線”だけを感じる。
(……何?)
胸がざわつく。
ほんの一瞬。
意識が、
背後の気配へ引き寄せられた。
——ボコッ!
「っ!」
黒い水面が大きく弾ける。
しまった——そう思った瞬間。
魔物が一斉に飛びかかってきた。
反応が遅れる。
ミラベルは咄嗟に手をかざす。
「くっ……!」
守護魔法が弾けた。
淡い光が広がり、
目前まで迫っていた魔物を吹き飛ばす。
だが。
池の水面はなおも揺れ続けていた。
まるで、
底から何かが湧き続けているみたいに。
「嘘……まだ……!」
魔物が次々と現れる。
数が多い。
一人では押し切れない。
ミラベルはペンダントを握りしめた。
「私一人じゃ……!」
黒い水面が、
ゆっくりとうねる。
その奥で——
“何か”が、
静かに目を開いた。
——
同時刻。
別方向を調査していたノアとセレスは、
教官から新たな報告を受けていた。
「訓練場奥の池付近で魔力反応?」
「ああ。異常な濃度らしい」
ノアの目が鋭くなる。
「……ミラベル」
嫌な予感。
ノアは舌打ちし、
即座に駆け出した。
「おい、待てって!」
セレスも慌てて後を追う。
夕暮れの風が、
訓練場を吹き抜ける。
その奥で。
黒い池だけが、
不気味に脈打ち続けていた。




