第2話:異世界で目覚めた私
森の中を進む。
やがて——水の流れる音が、耳に届いた。
導かれるように足を動かす。意識しなくても、身体がそちらへ向かっていた。
木々の隙間を抜けると、小さな川が現れる。
澄んだ水面に、そっと顔を近づけた。
そこに映っていたのは——知らない少女だった。
淡い金色の髪。光を溶かしたような、透き通る青い瞳。
息を呑む。
恐る恐る頬に触れると、水面の中の少女も同じように触れた。
(……これが、私?)
現実が、まだ形を持たない。夢の中を歩いているみたいだった。
胸元に、かすかな温もり。
視線を落とすと、母の形見のペンダントがわずかに光っていた。
指で包み込むと、胸の奥までじんわり温かさが広がる。
(……大丈夫)
怖くないわけじゃない。
それでも——あの地獄の家に戻るくらいなら。
深く息を吸う。森の空気は驚くほど澄んでいて、胸の奥まで染み込んだ。
「……人を、探そう」
小さく呟く。声に出した瞬間、少しだけ現実が近づいた気がした。
けれど同時に、不安が胸を締めつける。
(……また、同じだったら)
誰かに頼る。それは、裏切られる前触れ。
前世で染みついた感覚が、離れない。
それでも——立ち止まるわけにはいかなかった。
私は川に沿って、歩き出した。
⸻
どれくらい歩いただろうか。
木々の向こうに、小さな民家が見えた。煙突から白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。
(……人がいる)
足が止まる。胸の奥がざわつく。鼓動がやけに大きく響いた。
——扉を叩けば、何かが変わる。
そう分かっているのに、身体が動かない。
(怖い)
拒まれるかもしれない。迷惑そうにされるかもしれない。
——あの目で、見られるかもしれない。
手を伸ばしかけて、止める。
けれど——
(ここで逃げたら……何も変わらない)
ぎゅっと拳を握る。震えを押さえ込むように、息を吐いた。
そして——
コン、コン。
控えめに、扉を叩いた。
沈黙。やけに長く感じる時間。
——やっぱり、やめればよかった。
そう思いかけた、その時。
軋む音とともに、扉がゆっくり開いた。
「……おや」
現れたのは、白髪混じりの老人だった。
穏やかな目。けれど、その奥に何かを見透かすような静けさがある。
「迷い人……かね」
間を置いて、そう言う。その“間”に、なぜか息が詰まった。
「……いや」
老人は小さく首を振る。
「帰る場所を、見失った者……かもしれんな」
どきり、と心臓が跳ねた。
「は、はい……あの、道に迷ってしまって……」
とっさに答える。しかし声が少しだけ震えていた。
老人はそれを咎めるでもなく、静かに頷いた。
「そうか……なら、まずは水でも飲むがよい」
あまりにも自然な言葉だった。疑う余地もないほど、当たり前のように差し出される。
——だからこそ、戸惑う。
(どうして……?)
こんなに簡単に、受け入れられるなんて。
警戒が消えない。
けれど——差し出された手を、振り払うこともできなかった。
⸻
家の中は質素だったが、不思議と落ち着いた。
木の香りと、かすかな暖かさ。
椅子に座るよう促され、水の入ったコップを手渡される。
「……どうぞ」
短い言葉。急かさない。
恐る恐る口をつける。一口。それだけで——
(……あたたかい)
思わず息がこぼれた。冷たいはずの水が、体の奥にやさしく染み込んでいく。
(こんな……優しくされたことがあっただろうか)
視界が少し揺れる。その時だった。
「……ん?」
老人の視線が、胸元に落ちる。
反射的にペンダントを握りしめた——母の形見。
離したくない。
老人の目が、一瞬だけ鋭くなる。すぐに、元の穏やかな色へ戻った。
「……大切なもの、のようだな」
それ以上は聞かない。踏み込まない。その距離に、逆に戸惑う。
(……聞かないの?)
普通なら、もっと詮索されるはずなのに。
⸻
しばらくして、呼吸が落ち着いてきた頃。
私は意を決して、口を開いた。
「あの……」
喉が少し詰まる。それでも絞り出す。
「帰る場所が……なくて……」
視線を落とす。怖い。拒まれるのが怖い。
それでも——言わなきゃいけない。
「もし……手伝えることがあれば、何でもします」
ぎゅっと手を握る。
「ここに……置いてもらえませんか……?」
沈黙。数秒。それだけのはずなのに、永遠みたいに長く感じる。
——やっぱり、だめだ。
胸が締めつけられる。思わず目を閉じた、その瞬間。
「……いいとも」
静かな声が、落ちてきた。ゆっくりと目を開ける。
老人は、変わらず穏やかに微笑んでいた。
「ここはな……困った者を、追い返すような場所ではない」
その言葉は優しいのに、どこか重かった。簡単に与えられたものじゃないと分かる重み。
胸の奥に、まっすぐ届く。疑う気持ちは、まだ消えない。
でも。
張り詰めていた何かが、ほんの少しだけほどけた。
喉の奥が、熱くなる。
「……ありがとうございます」
声が震える。
受け入れられることが、こんなにも怖くて。
こんなにも——温かいなんて。
⸻
その夜。
ペンダントが、再び淡く光った。
——呼応するように。
森の奥。
あの石碑もまた、静かに光を帯びていた。
⸻
私はまだ知らない。
この森に隠された秘密も。
そして——あの老人が、すべてを知った上で沈黙している理由も。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。




