第138話 幻影の獣道
セレスは、目の前の光景に息を呑んだ。
見慣れた屋敷。
そこから思い出す記憶はどれも良いものではなかった。
幼い頃から何度も歩いた廊下。
食事のたびに座らされた長いテーブル。
失敗をすれば、厳しい言葉を浴びせられた書斎。
間違いない。
ここは、アルヴァイン家の屋敷だった。
「……なんで、こんなところに」
山の中にあるはずのない建物が、目の前に存在している。
魔法による幻覚なのか、それとも空間そのものが変化しているのか。
セレスが警戒しながら屋敷を見つめていると、重厚な扉がゆっくりと開いた。
「セレス」
聞き慣れた声に、息が止まる。
扉の向こうに立っていたのは、父親だった。
「……父さん」
父親はいつものように背筋を伸ばし、厳しい眼差しでこちらを見つめている。
「お前は、何をしている?」
「何って……」
「魔法学園に入るなどと言い出し、私の反対を押し切った。挙げ句の果てには家を飛び出す。自分が何をしているのか、分かっているのか?」
セレスは唇を引き結んだ。
何度も聞かされた言葉だった。
魔法使いなど、馬鹿げている。
貴族には貴族の役割がある。
家を背負う人間が、くだらない夢にうつつを抜かすな。
父親は、魔法を学ぶことそのものを認めようとしなかった。
「僕は自分で決めたんだ」
「それで?」
父親の声は冷たかった。
「自分の選択に責任を持つ覚悟はあるのか?」
「……あるよ」
「ならば、なぜ逃げる?」
「逃げてなんか……」
「私のいない間に出て行ったそうだな。私と向き合うこともできずに。それを逃げと言わずして、何と言う?」
反論しようとした。
いつもなら、すぐに言葉が出てくるはずだった。父親の主張の矛盾を指摘し、自分の考えを説明することもできる。
だが、今は何も言えなかった。
家を出たのは、父親と話しても理解してもらえなかったからだ。
それでも、逃げたと言われれば否定しきれない自分がいた。
「……僕は、間違っていたのかな」
思わず漏れた言葉に、父親は答えなかった。
ただ、失望したような目を向けてくる。
「魔法などに価値はない。お前が何を学ぼうと、何を望もうと、家の名を背負う者としてふさわしくなければ意味がない」
父親が一歩近づいた。
「お前は、自分が何者なのかを忘れたのか?」
「……っ」
「アルヴァイン家の人間として、これまで何を学んできた? それらをすべて捨ててまで、お前は何を得ようとしている?」
セレスは答えられなかった。
「お前に魔法使いとしての才能があるという保証はあるのか?学園に入ったところで、何者にもなれなかったらどうする?」
「それは……」
「友人と過ごす時間が楽しいか?好きなことを学べるのが嬉しいか?」
父親の目が、セレスを捉える。
「そんなもののために、これまで積み上げてきたものを捨てたのか?」
違う。
そう言い返したかった。
だが、言葉が出てこない。
魔法使いとしてやっていけるのか。
この先、何を成し遂げられるのか。
そんな不安は、セレス自身も抱えていた。
「戻ってこい、セレス。今ならまだ、やり直せる」
父親が手を差し伸べる。
「お前には帰る場所がある。わざわざ苦労する必要などない。私の言うことを聞いていればいい」
セレスは差し出された手を見つめた。
戻れば、これまでと同じ生活が待っている。
父親の決めた道を歩き、期待に応え、言われたとおりに生きていく。
それは、きっと楽なのだろう。
けれど、それでは何のために学園へ来たのか分からなくなる。
友人たちと過ごす時間。
自分で考え、選び、失敗しながら学ぶ日々。
それらを手放したくはなかった。
「……僕は」
セレスは指を強く握り込んだ。
「僕は、帰らない」
父親の目が細くなる。
「その選択を、後悔することになるぞ」
「それでも……」
セレスは顔を上げた。
「僕は、自分で決めたいんだ」
父親はしばらく黙っていた。
やがて、その口元がわずかに歪む。
「……そうか」
「ならば、好きにするがいい。お前が選んだ道で、どれほど苦しもうと、私を頼るな」
父親が一歩、後ずさる。
「己の選択を後悔しても知らぁんぞぉ」
その直後、声色と共に父親の姿が揺らいだ。
「……え?」
石畳に亀裂が走り、屋敷の壁が歪む。窓の向こうの景色が黒く染まり、すべてが霧のように崩れていった。
「父さん……?」
目の前の父親の輪郭が崩れていく。
背筋の伸びた人影が歪み、顔が異形へと変わった。
「グォォォォ」
不気味な声をあげながらそこに立っていたのは、父親ではなく魔物だった。
「……そうか」
セレスは息を呑んだ。
ここは本物の屋敷ではない。
魔物が父親の姿を作り出していたのだ。
自分が恐れていた言葉。
言われたくなかった言葉。
それらを選び、突きつけてきた。
「……僕の心を読んだのか」
魔物が不気味に口元を歪める。
セレスは拳を握った。
父親の言葉は、まだ胸に残っている。
自分の選択が正しいのか、今でも分からない。
それでも。
「……僕は、自分で選ぶ」
セレスは魔物を見据えた。
もう、目の前にいるのは父親ではない。
自分の心を利用し、追い詰めようとする魔物だ。
セレスは、決して目を逸らさなかった。




