第135話 星空の下の二人
「今夜をどう越すか?」
ノアが空を見上げながら呟いた。
「ひとまず、今夜は交代で見張ろう」
レオニスは周囲を見渡し、慎重に言った。
「ここが安全だと分かったわけじゃない。何が起きるか分からない以上、全員が同時に眠るのは避けるべきだ」
ノアが頷く。
「同感だ。食料も水も、寝具も持参している。今夜をしのぐくらいなら問題ない」
「ひとまず、今夜は何とかなりそうだね」
ミラベルは少しだけ安堵した。
けれど、ノアの表情から警戒が消えることはなかった。
「問題は、明日になってもここから出られなかった場合だな」
ノアの言葉に、五人の間に沈黙が落ちた。
リシェルは俯き、ぎゅっと自分の服を握っている。
「それに、さっきの魔法。あれって、俺たちを閉じ込めるためのものなのかな?」
ルークも珍しく真面目な顔で尋ねた。
「分からない。魔法を弾き返す結界があることは確かだが、目的までは判断できない」
レオニスは腕を組み、周囲の木々へ目を向けた。
「脱出する方法はあるはずだ。だが、闇雲に動いても意味はない。まずは状況を把握する必要がある。結界がどこまで広がっているのか、それすら分かっていないからな」
「このまま、出られなかったら……」
リシェルの声がかすかに震えた。
ミラベルはそっと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫。みんなで力を出し合おう」
笑顔でそう告げる。
リシェルの肩がほんのわずかに強張った。
「……早く帰りたい」
今にも泣き出しそうな声だった。
レオニスが小さく息を吐き、腕を組み直す。
「泣いてどうにかなるのか」
厳しい言葉に、リシェルはますます俯いた。
「レオニス、そんな言い方しなくても……」
ミラベルは困ったように彼を見たあと、リシェルへ向き直った。
「ほら、お腹も空いてきたし、まずは食事と休憩にしよう。今できることから、一つずつね」
そう言って、リシェルからそっと手を離した。
「……ああ。まずは野営の準備だ」
ノアが小さく息を吐いた。
五人は持参した荷物を広げ、野営の準備を始めた。
食料も水も、寝具も防寒具もある。
五日間の実地訓練に備えて、必要なものは一通りそろえてきていた。
とはいえ、予定外の場所で夜を越すことになるとは、誰も考えていなかった。
レオニスとノアが周囲の様子を確認し、ミラベルとルークが焚き火の準備を進める。
リシェルは少し離れた木の根元に座り、膝を抱えていた。
ミラベルはリシェルを見つめつつ火を起こす。
やがて、焚き火に火がついた。
ぱちぱちと薪が弾け、赤い火の粉が夜の空気に舞い上がる。
その上を、白い煙がゆっくりと昇っていった。
「……あれ?」
ミラベルは、ふと顔を上げた。
煙はほとんど揺れることなく、まっすぐ上へ昇っている。
ところが、ある高さに達すると、その流れが変わった。
煙はそこでゆっくりと横へ流れ始めたのだ。
「どうしたの、ミラベル?」
隣で薪をくべていたルークが、不思議そうに尋ねる。
「煙がね。途中から横に流れてるの」
ミラベルが指さすと、ルークも空を見上げた。
「あ、本当だ。風かな?」
「でも、地面の近くはほとんど風がないよね」
足元の草も、周囲の木の葉も、ほとんど揺れていなかった。
二人の声を聞き、レオニスとノアも近づいてきた。
「上空の気流が違うだけかもしれない。地表と同じ風が吹いているとは限らないからな」
レオニスは煙の流れを見上げながら言った。
「じゃあ、結界とは関係ないのかな?」
ルークが尋ねる。
「今の段階では、何とも言えない。これだけで異常だと決めつけるのは早いだろう」
そう答えたレオニスだったが、すぐに視線を戻すことはなかった。
煙が横へ流れ始める高さを確かめるように、しばらくその動きを追っていた。
「明日、もう少し調べてみよう」
ノアがそう提案すると、レオニスも頷いた。
「そうだな。今は情報が足りない」
それ以上、結界についての話は進まなかった。
食事を終えるころには、森はすっかり夜の色に染まっていた。
五人はあらかじめ決めておいた順番で見張りにつくことにした。
二番目の見張りを終えたルークが、次の番であるミラベルを起こす。
「ミラベル、交代の時間だよ」
「ん……ありがとう、ルーク」
ミラベルは目をこすりながら起き上がった。
ルークが寝床へ戻るのを見送り、焚き火のそばに腰を下ろす。
見上げた空には、数えきれないほどの星が瞬いていた。
澄んだ空気の向こうに広がる星空は、思わず見入ってしまうほど美しい。
けれど、山の夜は思っていた以上に冷え込んでいた。
防寒具を用意してきたとはいえ、じっと座っていると指先から冷たさが伝わってくる。
ミラベルは肩をすくめ、外套を引き寄せた。
「……結界の中なのに、普通の山と変わらないんだね」
煙は上空で流れを変えた。
魔法は、見えない何かに弾き返された。
それなのに、空気は澄み、風は吹き、星まで見える。
この場所はいったい、どうなっているのだろう。
そもそも、結界はどこまで広がっているのか。
考えれば考えるほど、分からないことばかりだった。
「冷えるな」
不意に声がして、ミラベルは顔を上げた。
そこにはノアが立っていた。
「ノア?どうしたの?見張りは終わったよね?」
「ああ。ルークと代わった後、寝袋に入ったが、寝つけなくてな」
ノアは少し気まずそうに視線を逸らした。
「ここ、座ってもいいか?」
「うん、もちろん!」
ミラベルが隣を空けると、ノアはそこに腰を下ろした。
二人の間には、いつもより少しだけ近い距離があった。
互いに言葉を交わすこともなく、しばらく焚き火の音に耳を傾ける。
「山の夜って、こんなに寒いんだね」
ミラベルが両手をこすり合わせながら言った。
「防寒の用意はしてきたが、思ったより冷え込んでいる」
ノアも外套の襟元を整えた。
「結界の中にいるはずなのに、外と何も変わらないように見える。空気も通るし、こうして星も見える」
「ああ。さっきの煙も、途中から横に流れていたし……。どういう仕組みなんだろう」
ミラベルは再び空を見上げた。
「明日、もう少し調べてみるしかないな」
「そうだね」
ノアの声を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いた。
まだ何も解決していない。
明日になれば、もっと厳しい状況が待っているかもしれない。
それでも、今は一人ではなかった。
隣にノアがいる。
ただそれだけで、張り詰めていた気持ちが少しずつ緩んでいくのを感じた。
「なあ、ミラベル」
「何?」
ノアは一度口を開きかけ、わずかに言いよどんだ。
「この任務が終わったら――」
「おい。交代だろ?」
背後から声が飛んできた。
二人が振り返ると、レオニスが立っていた。
「……ノア。なぜお前がここにいる?」
「目が覚めて、寝つけなかったんだよ。少し話してただけだ」
「自分の見張りは終わっているはずだ。いつまでも起きていて、明日に響かせるなよ」
「分かってるって」
ノアは立ち上がり、軽く伸びをした。
ミラベルも顔を上げ、彼に笑いかける。
「ノア、話せてよかった。眠れるといいね」
「ああ。お前も、ちゃんと休めよ」
ノアはそう言って、寝床のほうへ歩き出した。
「あ、そういえば」
ミラベルは、ふと思い出したように声をかけた。
「さっき、何か言いかけてなかった?」
ノアの足が一瞬止まった。
「……いや。大したことじゃない」
「そっか?」
ミラベルは不思議そうに首を傾げた。
ノアは小さく息を吐き、再び歩き出した。
自分が何を伝えたかったのか、彼自身にもはっきりとは分からなかった。
ただ、言葉にできなかった何かが、胸の奥に残っていた。
焚き火のそばには、再びミラベルとレオニスだけが残された。
レオニスは見張りの位置につくと、周囲へ視線を巡らせた。
「じゃあ、レオニス。お願いね」
「ああ」
ミラベルは立ち上がり、寝床へ向かおうとした。
「あ、そうだ。次はリシェルの番だよね?」
ふと思い出し、レオニスを振り返る。
「……大丈夫かな。さっき、すごく不安そうだったから」
「任務だからな。自分の役割は果たしてもらわないと困る」
レオニスは淡々と答えた。
「それは……そうだけど」
ミラベルは言葉を濁した。
「……じゃあ。おやすみ、レオニス」
「ああ」
ミラベルは小さく笑って、その場を離れた。
寝床へ向かいながら、もう一度だけリシェルのほうを振り返る。
彼女は外套にくるまり、木の根元で静かに眠っているようだった。
(リシェル、本当に大丈夫かな……)
心配は消えなかった。
それでも、今は休むしかない。
ミラベルは外套を引き寄せ、目を閉じた。
焚き火の残り火が、かすかに揺れている。
その向こうでは、夜の森が静まり返っていた。
――その静けさの中で、何かが動いたことを、まだ誰も知らなかった。




