第130話 見たのに、見ぬふり
「――あの、実は……」
言いかけて、レオニスは口を閉ざした。
脳裏に浮かんだのは、演習中に目にした光景だった。
ミラベルの両腕に、一瞬だけ浮かび上がった黒い紋様。
普段は見えないはずのものが、魔法を放った瞬間、確かにそこにあった。
(……あれは何だ)
彼女の魔法に関係するものなのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
正体は分からない。だが、見間違いだと片づけるには、あまりにも鮮明だった。
父なら、何か知っているかもしれない。
王家の監察を担う立場にあるのだから、古い魔法や特異な現象について、何らかの情報を持っていても不思議ではない。
報告するべきだろう。
そう考えたものの、レオニスはすぐに眉をひそめた。
(……いや)
自分が見たものの正体も分からないまま、父に判断を委ねるのか。
それでは、あまりに早計だ。
何を見たのか。どのような条件で現れたのか。そもそも、本当に報告するほどのものなのか。
何一つ整理できていない。
(まずは、自分で判断できるだけの材料を集めるべきだ)
そう結論づける。
それに、彼女が何者であろうと、今の自分の役目が変わるわけではない。
王家の選抜を受けた者として、演習で成果を示す。それが最優先だ。
余計なことに気を取られるつもりはなかった。
「どうした?」
父の声に、レオニスは顔を上げた。
「いえ。少し考え事をしていただけです」
咄嗟に笑みを取り繕い、話題を変える。
「ああ、そういえば。俺の他に選ばれたメンバーは、この学園にいた生徒なんですよね?」
「ああ。第一科から三名、第二科から一名だ」
父は淡々と答えた。
「魔力はそれなりにある。伸びしろもあるだろうが、実戦でどこまで通用するかは未知数だな」
「……なるほど」
「特に、持久力には不安がある。お前が周囲の状況を見て、適切に指示を出せ。足を引っ張られることもあるだろうが、それも含めてお前の役目だ」
「分かっています」
レオニスは迷いなく答えた。
当然だ。
自分が選ばれた以上、班を率いる責任もある。
能力に差があるのなら、その差を踏まえて動けばいい。必要なら指示を出すし、成果を出すために合理的な判断もする。
ただし、無意味に相手へ合わせるつもりはなかった。
選ばれたからには、選ばれた者としての働きを見せてもらう。
それができないのなら、本人の問題だ。
(……それでいい)
そう考えながらも、頭の片隅には、あの少女の姿が残っていた。
魔力の強さだけなら、演習で十分に見せつけられた。
だが、気になっているのはそこではない。
あの紋様は何だったのか。
なぜ、あの瞬間に現れたのか。
そして、なぜ自分は、あれほど強く印象に残っているのか。
考えても答えは出ない。
レオニスは小さく息を吐き、意識を切り替えた。
今は関係ない。
そう判断したはずだった。
「レオニス」
「はい」
再び呼ばれ、顔を上げる。
父の表情から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「今回の演習で、何か気になる生徒はいたか?」
一瞬、思考が止まる。
何を意図した質問なのか。
単なる確認か。それとも、何かを探っているのか。
監察を担う立場なら、選抜された生徒の様子を把握しておくのは当然だ。質問自体に不自然なところはない。
ならば、動揺する必要もない。
「いえ。特には」
レオニスは平然と答えた。
嘘をついたという意識はなかった。
少なくとも、今の自分には報告できるほど確かな情報はない。
目にしたものの正体も分からないまま、憶測を口にするつもりはなかった。
「そうか」
父は、それ以上追及しなかった。
だが、わずかな間を置いてから、再び口を開く。
「ただし、今後、気になることがあれば報告しろ」
「承知しました」
「どんな些細なことでも構わない。自分だけで判断せず、必要な情報は上に伝える。それを忘れるな」
「はい」
当然のことだった。
組織に属する以上、情報を共有するのは義務だ。自分の判断だけで抱え込むことが、常に正しいとは限らない。
レオニスも、それは理解している。
だからこそ、今回の件については、まだ報告する段階ではないと考えていた。
確かなものを見極めてからでも遅くはない。
「特に――」
父が言葉を切った。
「ミラベルという少女について、何か気づいたことがあればな」
「……」
ほんのわずかに、レオニスの目が細まった。
ミラベル。
父の口から、あの少女の名前が出るとは思わなかった。
偶然だろうか。
それとも、父も彼女を特別視しているのか。
すでに何かを知っているのか。
(……どういうことだ?)
疑問が浮かぶ。
だが、表情には出さなかった。
ここで問い返すのは得策ではない。
自分が彼女について何かを気にしていると、悟られる必要もなかった。
「分かりました。何かあれば報告します」
「頼んだぞ」
父は短く答えた。
それきり、話題は別のものへと移った。
レオニスもそれ以上、ミラベルについて尋ねることはしなかった。
けれど、父の言葉は、思っていた以上に頭に残った。
――特に、ミラベルという少女について。
父はなぜ、彼女の名を挙げたのだろう。
単に監察対象だからか。
それとも、自分が知らない何かがあるのか。
考えても、答えは出ない。
やがて父との話を終えた。
部屋に戻る廊下を歩きながら、レオニスはふと足を緩めた。
脳裏に浮かぶのは、やはりあの黒い紋様だった。
(……次に見れば、何か分かるかもしれない)
演習はまだ続く。
彼女を観察する機会も、きっとあるだろう。
それなら、そのときに確かめればいい。
あくまで、演習に必要な情報を把握するためだ。
それ以上の意味はない。
そう自分に言い聞かせ、レオニスは再び歩き出した。
空はゆっくりと明るさを消しながら、丸い光を待ち侘びているようだった。




