第105話 痛々しい背中
「――ぐっ……」
静まり返った部屋に、男の呻き声が響いた。
次の瞬間。
「ガバッ!」
男が勢いよく起き上がった。
「この野郎ッ!」
拳を握りしめ、扉の方を睨みつける。
だが。
そこには、もう誰もいない。
「……」
男は数秒、固まった。
「……逃げた、だと?」
「先輩なら、行ってしまいました」
ミラベルが淡々と答える。
「……」
男の眉間に、深い皺が寄った。
「チッ……あいつ……」
悔しそうに舌打ちする。
それから乱れた服を直し、髪を整え、何事もなかったかのようにミラベルへ向き直った。
――ただし。
頬には、しっかりと赤い跡が残っている。
「まあ、いい」
男は咳払いを一つ。
「これより、お前の処遇を言い渡す」
淡々と言われたその言葉に、ミラベルは少しだけ目を瞬いた。
「……処遇?」
「王家の命令により、“観察対象”となる」
「……観察対象?」
ミラベルは首を傾げた。
「そうだ」
男は腕を組み、威厳たっぷりに頷く。
その頬には、先ほどセドリックに殴られた赤い跡がくっきりと残っている。
本人は気にしていない――というより、気にしていないことにしているようだった。
「お前の魔力、そしてそのペンダントについて調査する」
男はミラベルの胸元へ視線を向ける。
「こちらの施設内で管理を行う」
「……私、帰れないんですか?」
「今のところはな」
「そうですか……」
ミラベルは小さく俯いた。
男はそんなミラベルを見て、少しだけ声を落とす。
「別に、今すぐ何かするわけではない」
「……本当ですか?」
「こちらの命令に従ってもらうだけだ」
「分かりました」
ミラベルが頷く。
男は満足そうに頷き返した。
「よし」
そして、扉の方へ歩き出す。
「ついてこい」
「はい」
ミラベルも後を追う。
――そのとき。
男が一歩踏み出した瞬間。
「……っ」
顔をしかめた。
「大丈夫ですか?」
「……なんでもない」
「でも、さっきから顔が――」
「なんでもない!」
食い気味だった。
「…………」
ミラベルは黙った。
男は何事もなかったかのように歩き出す。
だが。
数歩進んだところで、ぽつり。
「……あの野郎」
「?」
「絶対、いつか……」
拳を握りしめる。
「……いや」
男は小さく首を振った。
「今は仕事だ」
そしてミラベルを見る。
「お前」
「はい」
「余計なことはするな」
「……はい」
「勝手に逃げるな」
「はい」
「施設内で見つけたものを勝手に触るな」
「分かりました」
「それから――」
男は少し考えた。
「……あいつを見かけても、近づくな」
「……先輩ですか?」
「そうだ」
即答だった。
「なんでですか?」
「……」
男は黙り込む。
そして。
「…………色々と面倒だからだ」
「そうですか」
ミラベルは素直に頷いた。
男はそれ以上何も言わず、ミラベルを連れて廊下を進んでいく。
その背中には、まだセドリックにやられた跡が残っていた。




