第101話 落とされる者
ノアの来る数分前ー
誰もいなくなった研究所。
崩れた石壁の奥。
そこだけは、不思議なほど静かだった。
ミラベルは、壁画の前に立っていた。
何を見ているのか。
何を知ったのか。
それは、誰にも分からない。
ただ、その足元では四つ脚の魔物が静かに眠っていた。
ミラベルはしゃがみ込む。
そして――
そっと、その頭を撫でた。
「……ありがとう」
魔物は動かない。
穏やかな寝息だけが返ってくる。
ミラベルはもう一度、その毛並みに触れた。
それから、ゆっくりと倒れる。
ミラベルにもう力は残っていなかった。
◇
石造りの広間。
余計な装飾はない。
中央に、一段高い座がある。
そこに、王女はいた。
「――旧研究所にて、異常干渉を確認」
報告の声だけが響く。
「空間構造の変質。並びに、中枢への接続を観測」
一拍。
「対象、ミラベル――」
わずかに、声が止まる。
「既存の記録にはない、特殊な魔力反応を確認」
王女の指が止まった。
「……性質は?」
「判別不能です」
「ただし――」
報告役が言葉を選ぶ。
「守護系統との類似性が認められます」
静寂。
王女は何も言わない。
ただ、肘掛けに置いた指を――
とん。
とん。
規則正しく叩いている。
「……続けて」
「はっ」
「強制遮断を実施。空間は崩落」
報告役が一度、息を吸う。
「対象の処遇につきましては――」
「排除する」
即答だった。
「……はっ」
「旧研究所が反応した以上、これ以上の放置は認めない」
王女の声に迷いはない。
「速やかに処理を」
「承知しました」
その時。
ギィ……。
重い扉が開いた。
「呼ばれてませんけど」
軽い声。
「入ってもいいですか?」
セドリック・ヴァレンタインが入ってくる。
誰も止めない。
いや。
止められない。
「無断ね」
王女が視線だけを向ける。
「失礼します」
まったく悪びれない。
セドリックはゆっくりと歩み寄った。
「面白い報告が聞こえてきたもので」
そして。
ふと足を止める。
「……旧研究所」
薄く笑った。
「開いたんですね」
報告役が息を呑む。
王女は表情を変えない。
「排除するわ」
「排除、ですか」
セドリックが首を傾げる。
「……もったいないですね」
側近の一人が眉を寄せた。
「少し、短絡的にも見えます」
王女の視線が、セドリックへ向く。
「理由は?」
セドリックは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「彼女は――」
口元に笑みを浮かべる。
「鍵ですから」
静寂。
「鍵?」
「ええ」
一歩。
「旧研究所が反応した」
もう一歩。
「守護系統に似た魔力を持っている」
そして。
「なら、壊すより」
わずかに笑う。
「開けてもらった方がいいでしょう?」
王女の指が止まる。
「……」
「それに」
セドリックは続けた。
「鍵が、どこまで使えるのか」
一拍。
「試してみる価値はある」
誰も口を挟まない。
王女はしばらくセドリックを見つめていた。
やがて。
「……言うわね」
「不敬よ」
セドリックは笑ったまま、何も答えない。
「けれど――」
王女の目が、わずかに細くなる。
「嫌いじゃないわ」
空気が変わった。
「対象は拘束下で観察」
決定だった。
「干渉の範囲」
「再現性」
「すべて洗い出しなさい」
「はっ」
報告役が頭を下げる。
セドリックは軽く肩をすくめた。
「賢明です」
「あなたの意見を採用したわけではない」
「ええ。もちろん」
薄く笑う。
「結果が同じなら、問題ないでしょう?」
王女は答えない。
「……下がりなさい」
「ええ。言われなくても」
セドリックは踵を返す。
扉へ向かう。
そして――
「……ああ」
振り返らないまま、足を止めた。
「簡単に壊さないでほしいなぁ」
軽い声。
「“まだ”使えるんだから」
扉が閉じる。
◇
静寂。
王女は、しばらく閉じた扉を見つめていた。
やがて。
「……鍵、ね」
小さく呟く。
その瞳に浮かんだのは――
少女の姿。
けれど。
それが誰なのか。
何を思い出したのか。
王女は語らない。
ただ。
指先だけが、もう一度。
とん。
と、肘掛けを叩いた。




