第5話 握られていたもの
夜のブミは静かだった。
昼間は人の声が絶えない通りも、今はほとんど人影がない。
月明かりだけが、石畳を薄く照らしている。
「本当に戻ってくるとは思わなかった」
隣を歩くヴァールハイトが小声で言った。
「俺も思ってない」
「じゃあ帰ろうぜ」
「それは無理だ」
「だと思ったよ」
ヴァールハイトがため息をつく。
俺たちは昼間の屋敷へ戻ってきていた。
目的は一つ。
あの少女の左手に握られていたものを確かめる。
昼間は衛兵や町の人間が多すぎた。
今なら誰にも邪魔されない。
「裏から入るぞ」
俺が言うと、ヴァールハイトが周囲を見回した。
「見張りはいないみたいだな」
「昼間の衛兵は?」
「交代したらしい」
「どうして知ってる?」
「聞き込み」
「いつの間に?」
「お前が師匠に怒られてる間」
「……便利だな、お前」
「もっと褒めていいぞ」
俺たちは裏口から屋敷へ入った。
廊下を抜け、少女の遺体が置かれている部屋へ向かう。
扉を開ける。
昼間と同じ光景。
ただ、夜になると部屋の静けさが妙に重く感じる。
俺は少女のそばにしゃがんだ。
左手は、まだ固く握られている。
「これ、開くのか?」
ヴァールハイトが聞く。
「死後硬直が進んでる。無理に開こうとすると骨を傷める」
「それじゃどうする?」
「温める」
「温める?」
「筋肉を少し緩める」
俺は布を濡らし、ぬるま湯を作った。
ゆっくりと少女の手に当てる。
指先を傷つけないように、少しずつ力を抜いていく。
「医者って、死体の手まで開けられるんだな」
「開けるんじゃない。戻すだけだ」
「細かいな」
「大事なことだ」
数分後。
少女の指が、ほんの少し緩んだ。
「見えた」
ヴァールハイトが覗き込む。
手の中には――
小さな銀色の輪があった。
「指輪?」
「違う」
俺はそれを慎重に取り出した。
細い金属の輪。
中央には、小さな赤い石が埋め込まれている。
「何だろうな」
ヴァールハイトが首を傾げる。
俺も分からなかった。
だが、その瞬間だった。
『逃げて……』
声がした。
俺は顔を上げた。
少女の声。
『あの人から……逃げて……』
昼間よりもはっきりしていた。
「誰だ?」
思わず尋ねる。
返事はない。
ただ、次の瞬間。
『赤い……』
それだけだった。
「赤い……?」
俺は手の中の石を見る。
赤い石。
偶然とは思えない。
「レオン」
ヴァールハイトが声を落とした。
「それ、もしかして……」
「分からない」
俺は指輪を眺める。
普通の装飾品ではない。
裏側に小さな文字が刻まれている。
古い文字。
「読めるか?」
「無理」
「俺もだ」
そのとき、外から物音がした。
ガタン。
二人とも動きを止める。
「誰かいる」
ヴァールハイトが小声で言う。
俺はランタンの火を消した。
暗闇。
足音が近づいてくる。
誰かが屋敷の中へ入ってきた。
「衛兵か?」
「違うと思う」
足音が二つ。
いや、三つ。
俺たちは急いで物陰へ隠れた。
扉が開く。
「……ここだ」
男の声。
「遺体を確認しろ」
別の男が答える。
「はい」
俺は息を殺した。
暗闇の中、男たちが少女の遺体へ近づく。
先頭にいる男が、少女の左手を見る。
「……ない」
「何がです?」
「指輪だ」
俺の心臓が跳ねた。
こいつらは――
指輪を探している。
「誰かが持ち出したのか?」
「さあな」
「神官様に報告を?」
「当然だ」
神官。
またその言葉。
俺は拳を握った。
そのとき、ヴァールハイトが俺の袖を引いた。
小さく首を横に振っている。
今は動くな。
そういう意味だ。
俺も頷く。
男たちは少女の遺体を調べると、何も見つけられずに部屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
「……行ったな」
ヴァールハイトが小さく息を吐く。
「指輪を知っていた」
「ああ」
「ってことは、その指輪には何かある」
「間違いない」
俺は指輪を見る。
すると、その赤い石の表面に、かすかな亀裂が入っていることに気づいた。
「これ……」
「何?」
「石じゃないかもしれない」
「え?」
俺は指先で触れる。
カチッ。
小さな音がした。
赤い石が少しだけ動く。
「開く」
「何それ」
爪を使って慎重に持ち上げる。
すると中から、小さく折り畳まれた紙が出てきた。
「……紙?」
広げる。
そこには一行だけ書かれていた。
古い文字ではない。
今の王国語だ。
俺は読み上げた。
「――『ソレイユへ送られる者は、すべて死んだことにしろ』」
ヴァールハイトの顔から笑顔が消えた。
「……何だよ、それ」
俺も答えられなかった。
ただ一つだけ分かる。
この少女が殺された理由は、指輪にある。
そして――
俺たちが探している「消えた死者」と、
王都ソレイユは、もう無関係ではない




