第2話 白い布
事件現場に入った瞬間から、俺の頭は妙に冷えていた。
こういうときほど、感情を捨てた方がいい。
死んだ人間にとって、俺が取り乱すことに意味はない。
必要なのは、何が起きたのかを知ることだ。
「レオン、そこから動くな」
背後から声がした。
俺が振り返ると、イアートロスが立っていた。
「師匠」
「遺体には触れたか?」
「最低限だけです。脈、瞳孔、出血、傷の確認を」
「よし。あとは俺が見る」
イアートロスは床に膝をついた。
遺体を見る目が、診療所で患者を見るときとはまるで違う。
静かで、冷たい。
それが医者の目なのだと、俺は知っていた。
「胸部の刺創……深いな」
「はい」
「死因はこれで間違いないだろう」
「でも」
「何か気になるか?」
俺は少し迷ってから答えた。
「血の広がり方がおかしいです」
イアートロスが視線を落とす。
「俺もそう思う」
やっぱり。
「この傷が致命傷なら、倒れた場所が不自然です。出血した位置と、身体の向きが合っていない」
「つまり?」
「刺された場所は、ここじゃない可能性があります」
部屋が静かになった。
後ろにいた衛兵が息を呑む。
「……遺体を移動させたってことか?」
「たぶん」
俺は床を見る。
血痕の一部が途切れている。
その先には、かすかな擦れ跡。
「誰かが運んだ」
イアートロスが頷く。
「そうなるな」
そこで俺は、あの声を思い出した。
『白い服……』
部屋の隅に落ちていた白い布。
俺は布を拾い上げる。
薄い。
柔らかい。
普通の布とは違う。
「……これ、なんだ?」
イアートロスが眉をひそめる。
「触るな」
「でも」
「証拠かもしれん」
そう言って、師匠は布を布袋に入れた。
その直後。
「待ってくれ!」
廊下から大きな声がした。
振り返る。
衛兵が一人の青年を連れて入ってくる。
二十歳にも満たないくらいの男。
顔は真っ青だった。
「こいつが庭にいた」
「俺じゃない!」
青年が叫ぶ。
「俺は殺してない!」
俺は青年を見る。
手が震えている。
服には血がついていた。
胸元にも、袖にも。
「……血が付いてる」
衛兵が言う。
「お嬢さんとは以前から揉めていたそうです」
「だからって!」
青年が叫ぶ。
その声が部屋に響いた。
俺は遺体を見る。
そして青年を見る。
何かがおかしい。
「君」
「な、なんだよ」
「彼女と最後に会ったのはいつ?」
「……昨日の夜だ」
「何時?」
「夜の九時くらい」
「それから彼女の家に来た?」
「来てない」
「じゃあ、なんで血が付いてる?」
「……!」
青年が口を閉ざす。
衛兵が睨む。
「やはり、お前が――」
「違う!」
青年が震える声で叫ぶ。
「違うんだ! 俺が触ったのは……」
そこで言葉が止まる。
「……死体だ」
俺は眉をひそめた。
「死体?」
「俺が来たとき、もう死んでたんだ。怖くなって……」
青年は唇を噛んだ。
「助けようとして、抱き起こした」
なるほど。
それなら血が付いていても不思議じゃない。
でも、問題は別にある。
俺は少女の遺体を見る。
そして青年を見る。
少女の声は言った。
『この人じゃない……』
あれは、この青年のことだ。
俺は確信していた。
「……少なくとも、この人が犯人とは限らない」
衛兵が俺を見る。
「何?」
「血だけでは証拠になりません」
「お前は医者見習いだろ!」
「だからです」
俺は遺体を指差した。
「彼女の傷には、争った跡がほとんどない」
「……」
「もしこの人が真正面から刺したなら、手や腕に防御創があってもおかしくない。でも、ない」
青年が息を呑む。
俺は続けた。
「この人は、少なくとも彼女が刺された瞬間には、その場にいなかった可能性が高い」
衛兵が黙り込む。
そのとき、
「レオン」
ヴァールハイトの声がした。
いつの間にか廊下まで来ていたらしい。
「ちょっと来い」
「どうした?」
「外で聞いたんだけどさ」
ヴァールハイトが俺の耳元に顔を寄せた。
「この家、昨日の夜に教会の神官が来てたらしい」
俺は顔を上げる。
「……神官?」
「ああ。しかも一人じゃなかったらしい」
心臓が一度、大きく鳴った。
白い服。
教会。
死者の声。
俺はゆっくりと遺体のそばに落ちている布を見る。
白い。
そして、端に小さな金色の刺繍があった。
太陽。
ルミナス・ソル王国の教会で、よく使われる紋章。
「ヴァールハイト」
「ん?」
「教会に行くぞ」
「やっぱりそうなる?」
「話を聞きたい」
ヴァールハイトは肩をすくめた。
「分かった。じゃあ俺は神官相手に話を聞き出す担当な」
「頼む」
「お前は?」
俺は少女を見る。
死者の声は、もう聞こえない。
それでも、あの最後の言葉だけが耳に残っていた。
『白い服……』
「俺は、この子がどこで殺されたのか調べる」
そして気づいた。
部屋の隅。
血痕の途切れた床の先に、
地下へ続く扉
がある。
鍵は、かかっていなかった。




