第1話 死者は最後に嘘をつく
人が死ぬ瞬間には、誰にも聞こえない声を残す。
少なくとも、俺には聞こえる。
「……せんせい。これ、止まりません」
「圧迫を続けろ。あと少しだ」
診療所の一室に、血の臭いが充満していた。
ベッドの上では、薪割りの途中で腕を深く切った男が苦しそうに息をしている。
俺は傷口を押さえながら、師匠のイアートロスを見る。
「縫います」
「任せる」
短い返事。
俺は針を持った。
医者見習いになって四年。
まだ一人前には遠い。それでも、目の前で死にかけている人間を助けるくらいのことはできる。
「痛かったら言ってください」
「お前、医者の卵のくせに毎回それ言うな」
「痛いものは痛いでしょう」
「そりゃそうだ」
男が笑う。
その瞬間、俺の肩から力が抜けた。
傷を縫い終える。
出血も止まった。
「今日は酒は禁止です」
「先生も?」
「俺は飲みません」
「じゃあ、お前が大人になったら飲もう」
「その頃には師匠が酒を飲めなくなってるかもしれませんよ」
「言うようになったな」
イアートロスが鼻を鳴らした。
いつもの朝だった。
ブミは王都ソレイユから遠く離れた、小さな町だ。
大きな事件なんて起こらない。
少なくとも、昨日まではそう思っていた。
診療所を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
「レオン!」
通りの向こうから声が飛んできた。
振り向くと、ヴァールハイトが走ってくる。
「朝飯食った?」
「まだ」
「じゃあ行こうぜ。パン屋の婆さんが焼きすぎたパンをくれるってさ」
「それ、俺たちが朝飯に困ってると思われてない?」
「実際困ってるだろ」
「……否定はできない」
ヴァールハイトは笑った。
くだらない話をしながら歩く。
こういう時間が、俺は嫌いじゃない。
死者の声が聞こえるようになったのは、物心ついた頃だった。
最初は誰にも言えなかった。
死んだ祖母の部屋で、一人で遊んでいたとき。
誰もいないはずの部屋から、
『寒い』
と聞こえた。
その声が祖母のものだと理解するまで、ずいぶん時間がかかった。
俺は死者と話せるわけじゃない。
質問しても答えてくれない。
聞こえるのは、死ぬ直前に強く残った感情だけ。
誰にも教えていない。
ヴァールハイトにも。
「どうした?」
「え?」
「いや、急に黙ったから」
「なんでもない」
「また難しい顔してるぞ」
「してない」
「してる」
ヴァールハイトが笑う。
そのときだった。
町の中央から、鐘の音が響いた。
一本。
二本。
三本。
教会の鐘が、何度も鳴っている。
ヴァールハイトの表情が変わった。
「……なんだ?」
町の人々が、ざわめき始める。
通りの向こうから、一人の男が駆けてきた。
「大変だ!」
「どうした?」
「商人の娘が……」
男は息を切らしながら言った。
「殺された!」
空気が凍った。
ヴァールハイトが俺を見る。
俺も同じように固まっていた。
ブミで殺人なんて、聞いたことがない。
人だかりの中を抜ける。
事件現場は、町外れの小さな屋敷だった。
庭には人が集まり、衛兵が中に入らないよう制止している。
「レオン!」
誰かが俺を呼んだ。
振り向くと、知った顔の衛兵がいた。
「お前、イアートロス先生のところの見習いだろ。中を見てくれ」
「俺が?」
「医者が来るまででいい。状態だけ確認してくれ」
俺は一瞬ためらった。
それでも中へ入った。
廊下を進む。
奥の部屋。
そこに少女は倒れていた。
十六か、十七歳くらい。
胸元に赤い染み。
床には血が広がっている。
まず呼吸。
ない。
脈。
ない。
瞳孔。
反応なし。
「……もう、亡くなってる」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
近くにナイフが落ちている。
胸部の傷。
出血量。
死後硬直。
俺はしゃがみ込み、遺体を調べる。
……妙だ。
傷の位置と血の流れが、少しおかしい。
これだけ深いなら、もっと――
その瞬間だった。
『……違う』
耳元で、女の声がした。
俺は息を止めた。
『この人じゃない……』
少女の遺体を見る。
もちろん、口は動いていない。
『違う……この人じゃない……』
もう一度、声がした。
背中に冷たい汗が流れる。
俺は知っている。
この声は――
この少女のものだ。
「……誰が?」
思わず呟いた。
返事はない。
代わりに、別の言葉だけが残った。
『白い服……』
そこで声が途切れた。
俺は顔を上げた。
部屋の隅に、白い布の切れ端が落ちている。
血が付着している。
俺はそれを拾い上げた。
そして初めて気づく。
これはただの殺人事件じゃない。
少女は死ぬ直前まで、
犯人を見ていた。
そして――
犯人は、この部屋にいた誰かではない。
俺は立ち上がった。
「……この子を殺したのは、ここにいる奴じゃない」
後ろにいた衛兵が目を見開く。
「何だって?」
俺はもう一度、遺体を見る。
少女の死者の声は、まだ耳の奥に残っている。
『白い服……』
そして、その先に続くはずだった言葉は――
聞こえなかった。
だから俺は、その続きを自分で探すしかない。
その日。
医者見習いだった俺の、初めての殺人事件が始まった。




