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「そうか、そうだったのか。全く気がつかなかった」


 執務室の窓から、夏の日差しが差し込んでいる。教祖は額を掌で覆い、光の差す床に目を落としていた。


「いや、銀翼の会の存在は知っていたし、教徒が流れているのも分かってはいた。でも……まさか、安東くんが。私が守らなくてはならない教団だったのに、全く気がつかなかった」


 静謐な部屋の中、教祖はため息をついた。

 あのあと、教団本部に救急車が来た。信者同士押し合いへし合いになって怪我人が出たためだ。

 錯乱状態だった安東も、救急車に乗せられて運ばれていった。教祖は同乗しようとして、やめた。彼は安東の友人としてでなく、教団の教祖として、現場の混乱を収める仕事を選んだ。安東も、それを望むだろう。


 安東に懐いていた月華さんも救急車に乗り込もうとしていたが、嫌な予感がした俺は、彼女を引きとめた。中原からいらない瓶缶を引き取っていたのを思い出し、月華さんの家に置いてきたと話すと、月華さんの興味は安東のズラよりそちらに移り、ウキウキと帰っていった。


 信者たちがそれぞれ解散したのち、教祖は俺を執務室に招いた。


「私はなにをしていたのだろう。安東くんや春代のような考えの人間だっているのだと忘れて、誰も彼も見境なく信頼していた。それに、神への信仰で救えたと思っていた安東くんを、少しも救えていなかった。私は……なんて愚かなのだろう」


 生気のない目でカーペットを見つめる教祖を、俺は黙って見ていることしかできない。教祖は何度かため息を洩らし、やがてこちらに儚げな微笑を向けた。


「気づかせてくれて、ありがとう。君が現れなければ、白き自由の教団は銀翼の会に食いつぶされているところだった」


「こっちこそ、神様誘拐なんてバカなことして、教祖を苦しめて、本当にごめんなさい」


 俺は教祖に深々と頭を下げた。安東と春代夫人、それから彼らについていった銀翼の会の人々の計画は悪夢のようだったが、俺がおこなったことだって、金目当ての低俗な罪である。

 その金、三億円は、物理的にこの世から消えてしまったわけだが……。

 俺はポケットから、白い石ころを取り出した。


「沓谷さん、これ、お返しします」


 それを見るなり、教祖は目を瞠った。


「白珠様!」


 感激して声を上ずらせ、教祖は両手を胸に押し当てた。


「この石は神が宿る神聖な石だ。学生の頃、たまたま浜辺で見つけた石でね。変わった色味だと思ったら、ガラスの成分が多く含まれていることが分かったんだ」


 その辺に落ちていたもの、だったのか。


「美しく、気高く、どうにも心が惹かれる。なぜ自分がこの石を捨てられないのか考えたときに、私は気がついたのだ。これが白珠様の現世のお姿なのだと! 以来、磨いて丸くして、毎日祈りを捧げたのだ」


 朗々と語りだす教祖に、俺は頬を引きつらせて仰け反った。ハク様はこれをただの石だと言っていた。空想癖のある教祖のことだ、なんでもない石に魂を感じて、ありがたがっているのだろう。でも、そのなんでもない石の価値は、三億円でもくだらない。今の俺なら、それも分かる。

 誰かが想いを乗せて、大事にしてきたもの。それだけで、価値があるのだ。


 俺は手の中の石を見つめた。表面のつやつやした、きれいな石である。それをきゅっと指で包み、教祖の顔に目を向ける。握った右手を差し出すと、教祖は両手を広げた

 俺はそこに、石を翳した。


「身代金三億円は、受け取った、ってことにします」


 コロンと、手から石が離れる。その瞬間だけ、石がほっと熱くなったような気がした。

 教祖は両手で大切そうに石を包み込み、胸に当てて囁いた。


「お帰りなさい、白珠様」


 誘拐事件は、これで収束した。そういうことにした。


「ところで加藤くん、君の相棒は?」


 教祖に聞かれ、俺は首を傾げた。


「そうなんですよね、なんかいつの間にかいなくなっちゃって」


 祭礼がすったもんだして救急車も来る騒ぎになり、俺も教祖もばたばたしているうちに、ハク様はいなくなっていた。


「後片付けが面倒で先に帰ったんですかね。ハク様ってそういうとこあるんですよ。自由人というか、無責任というか」


 俺が肩を竦めると、教祖は石を握る手を胸から浮かせた。


「あの青年の名前は、ハク様というのか?」


「本名じゃないと思いますけど、本人はそう名乗ってて。全く、どこに行ったんだ。帰るにしても教祖に挨拶してからにしろよ」


 とはいえ奴に交通手段はないから、帰ろうとしているならまだその辺を歩いているだろう。


「連れ戻してきます。ちょっと失礼します」


 教祖に一礼して、俺は彼に背を向けた。執務室の扉を開けると、後ろで、教祖が言った。


「なんだろうか、会ったことはないはずなんだか、覚えがあるんだ」


 考えていることがそのまま口から出たみたいな、もそもそした言い方だった。俺は扉の前で立ち止まって、振り向いた。


「ひょっとして、声を聞いたことがあるとか?」


 半ば冗談っぽく投げかけたら、教祖は一秒言葉を止めてから、穏やかな声で返した。


「そうだと言ったら、信じるかい?」


 夏の光が、部屋のカーテンに透けている。口を半開きにした俺を見、教祖は考え込むように目を閉じた。


「君は信じないかもしれないし、信じなくてもいいんだけれどね。私は神のしもべ、神の声を聞く者だ。神のお告げが聞こえるときは、はっきりと、生きた肉声で聞こえている」


「……その声が、ってことですか?」


 まさか。


「あいつが神様とか……絶対ない。気のせいですよ」


 俺は笑いながら首を横に振った。認めない、絶対に見とめないぞ。教祖も、笑い返してくる。


「加藤くん、君は神話に興味はあるか。神話の中の神様は、ちょっとしたことで機嫌を損ねるし、くだらない喧嘩もする。神様って、案外身近なものなんだ。だから『神様らしくない』のも、『神様らしさ』なんじゃないか」


「いくらなんでも、ハク様が神様なわけ……」


 苦笑いして、俺は首を横に振り続けた。教祖は晴れた空の広がる窓に、歩み寄った。


「神は仰せになった。人を善か悪かで分けるのは不可能だ。どんな人間にも、それぞれの正義があるもので……。安東くんも誘拐犯の君も、己の心に従って、その結果、はみ出してしまっただけなんだ」


 教祖の言葉が、記憶の片隅に引っかかった。


『人を善か悪かで仕分けるのは難しいから、考えないほうがいいよ。そこらへんにいる普通の善良な市民だって、立場が変われば都合が変わって、なにが正義かも簡単に変わるんだから』


 ……ハク様が俺に言った言葉だ。


 白い石を握り締め、教祖は誓うように夏空を見上げた。


「善悪を決め付けるのとは別に、信用すべき人を自分の目で見極められるように……私も、変わっていかなくてはならない。なんでも神に委ねるのではなくて、自分自身の心で、真っ直ぐに立てるように」


 彼の輪郭が、夏の光に象られている。


「そうして自分を信じて、歩き出せる人を……神は、恐れずに一歩を踏み出す者を、祝福するでしょう」


 夏の午前の光が執務室に満ちる。俺は眩しくて、目を細めた。

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