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「おい、なにをしている! 早く安東様にお渡ししろ!」


 どこからか野次が飛ぶ。騒然とする礼拝堂で、信者の声が響く。


「おのれ誘拐犯! 我が教祖の命令に従え!」


「教祖? 教祖は私だが……?」


 演台の前の教祖、沓谷氏が間の抜けた顔で言う。

 安東を「教祖」と呼んだ信者は、銀翼の会の一員だろう。混乱の中で発せられた失言に、安東が顔を顰める。


 俺が投げたフサフサは安東のほうに向かってリレー式に運ばれようとしていたが、途中で別の方向に投げる者がいたり、流れを止めて横から奪う者がいたりと、上手く流れていかない。自由人ばかりの信者たちにチームワークはなく、ひとりひとりが好き勝手に動いている。

 中央通路のハク様を捕まえようとする信者もいることはいるが、ハク様は腕を捕まれてもケラケラと笑って、フサフサの行方を眺めている。

 ついに安東が痺れを切らし、ステージを降りた。


「おい、なにをしている」


 自ら奪い返しに行こうと、信者の波の中へ向かっていく。しかしステージの傍にいた月華さんが立ち上がり、きゅっと、彼のスーツの裾を握った。


「かわいいのです」


「うわ、なんだお前は! 放せ」


 目を血走らせた安東が、月華さんを突き飛ばした。細く小さな彼女は簡単に吹っ飛ばされ、他の信者にぶつかった。周辺がどよめく。


「酷い! なんてことするの!」


 有明さんの甲高い声が響いた。安東が暴力を振るったことに、流石の信者たちも引いている。安東はもはや開き直り、並んだ信者たちの襟首や肩を掴み、強引に押しのけて、他の信者に叩きつけていく。

 誰かが俺の腕を掴んだ。ハッと、自分がお尋ね者だったことを思い出し、俺はそれを振り払って礼拝堂の中央通路に飛び出した。「誘拐犯を捕まえろ」とどこかで声が上がり、俺はそれから逃げ惑って、信者たちの手をかわして走った。

 いつの間にやらステージのすぐ傍まで到達し、壇上から驚いた顔で見下ろす教祖と目が合う。


 突然現れて神聖な祭礼を引っかき回す誘拐犯、勝手気ままな信者たち、豹変する安東。壇上の教祖は演台の前でぽかんとしている。もはや祭礼は、学級崩壊した教室、教祖は手を付けられなくなって放心する先生の様相を呈していた。


 例のフサフサを、とある手がキャッチした。


「はい、オーライ」


 赤い袖口が覗く。フサフサを掲げて満足げに笑うのは、ハク様である。

 彼は身軽にステージに飛び乗ると、教祖と並んで、演台に立った。戸惑っていた教祖だったが、ハク様が持っていたものを近くで見るなり、マイクが拾う大声で、絶叫した。


「そ、それは! 安東くんのズラじゃないか!」


 キインと、マイクがハウリングした。

 ちょうどそのとき、信者を強引に突き飛ばした安東の頭から、中折れハットがぐらりと落ちた。あらわになったのは、おでこから後ろ頭までつるっと無防備な、不毛の大地だった。

 周辺の信者も、俺も、凍りついた。


 曝け出された安東の頭皮は、黒っぽいアスファルトみたいな質感の膜が斑に乗り、前髪の一部だけがにょろりと不自然に伸びていた。荒廃した地に痩せた木が倒れているかのような、不可解な頭部である。誰もが、そのへアスタイルに愕然とした。

 教祖だけは、あわあわと狼狽している。


「ああ……安東くん! 皆、これには訳があるんだ」


 マイクを握って、彼は慌てて説明した。


「安東くんは過去、教徒の君たちに尊敬される独創的で自由な髪型を目指そうとして、市販のスプレーや整髪剤を何重にも使ったんだ。しかしその結果、髪が傷んでハゲ散らかした上に、成分が落ちきらずに残って固まってしまったんだ」


 教祖が早口に話すのを、信者たちが呆然と聞いている。


「ダメージで髪が抜け落ちだしてケアしはじめたが間に合わなくて、しかし一箇所だけ残って部分的に毛が伸びてしまった」


 安東の目が死んでいく。教祖は百パーセントの善意で安東の事情を説明しているのだろうか、それはむしろ、安東の恥を晒してしまっている。

 教祖はぎゅっと、マイクを握る手に力を込めた。


「そう、これは彼が自由な髪型を追求した、努力の結果! 自由のために、頭皮を犠牲にしたのだ。病気でも遺伝でもない、恥じることでもない。誇るべきことだ!」


 教祖はそう言い放つと、安東に拍手を送った。当惑する信者たちも、教祖の音頭に従ってパチパチと拍手し出す。

 誘拐犯とか、もう誰も見ていない。特殊な事情で特殊な状態になった安東の頭に、視線が集中している。安東はもう、下を向いて屍のように佇んでいる。


 優しさが地獄を加速させる。俺はその壮絶な光景を前にして、胸を痛めた。

 安東は教団から三億を横領したし、教祖の妻と不倫していたし、最悪な奴ではあった。しかしこれは、気の毒すぎる。でも助けようがない。その頭になってしまった事情も自業自得なだけに、フォローのしようもない。

 こいつのしたことを思えば同情するのも馬鹿馬鹿しいが、そんな理屈も軽々と飛び越えてかわいそうでならない。でも、その哀れな姿を見つめることしかできない。


 ステージの下に月華さんが駆け寄り、壇上のハク様に手を伸ばす。ハク様は笑顔でしゃがみ、持っていたズラを月華さんに手渡していた。月華さんが嬉しそうに受け取るのを見て、俺は以前の彼女の言葉を思い出した。


『誰かのいらないもの……捨てたいもの、隠したいもの、そういうのが、いちばん、月華にとっては意味があるように思えます。いらないものを持ってること、他人にばれないように、もっと価値の分からないもので虚飾する。月華は、それが美しいと思うのです』


 月華さんが安東に懐いた理由が、分かった。

 彼女は「ふわふわ」なズラに隠された、安東の「秘密」を見つけた。安東にとっての捨ててしまいたい、隠してしまいたい「いらない」惨状を、「かわいい」と思った。彼女は安東を追って車の後部座席に潜み、安東のズラをそっと拾ったのだ。


 ハク様から受け取ったズラを、月華さんが上機嫌で抱きしめる。教祖がハク様の横で腰を折り曲げ、月華さんに手を差し出した。


「ちょ、ちょっと。それは安東くんの……返してくれ」


「そうだねえ。あれは安東の大切な、銀色の翼、だね」


 ハク様がそう口にした瞬間、教祖の顔色が変わった。ハク様はちらっと、彼を一瞥した。奇妙な沈黙が流れる。

 棒立ちになっていた安東が、かくっと、膝を折った。


「くそ……なぜ上手くいかない……」


 崩れ落ちた彼は、惨状の頭を掻き毟り、喚き出した。


「なぜ上手くいかない! なぜ上手くいかない! 私の人生は、なぜこうも!」


 教祖が身を縮こまらせ、信者たちがおののく。月華さんはきょとんとしている。ハク様は、横目で見ただけ。

 安東はわあっと、ざらついた声で叫んだ。


「教祖としての威厳は失われた! 折角……折角、私のための銀翼の会が、始まるはずだったのに!」


「え……安東くん、それは、どういう……」


 教祖が掠れた声を搾り出す。安東には、聞こえていない。


「あと一歩だった! 私のための銀翼の会が、なにもかも、台無しだ!」


「安東くん……銀翼の会って……」


 教祖のか細い声が、信者たちのざわめきの中に消えていく。

 そこへ、カッと、ヒールの音が響いた。


「教祖様。安東は、あなたと心清らかな教徒たちを騙していたのです」


 ステージ上に上がってきたのは、春代夫人だった。


「安東は教団の余剰金三億円を着服し、銀翼の会のための銀翼会館を設置しようとしていた。教徒たちへの祝福に使うはずだった、三億円でね」


「な……あの、三億を……」


 教祖が青い顔で春代夫人を振り向いた。春代夫人の声を、演台のマイクが拾う。


「会を大きく育てて、お守りや厄除けグッズを売る鼠講ビジネスも始めて……多くの人々を騙し、金を巻き上げる計画だったの」


「そんな、嘘だろう、安東くん。だってあれは、我が愛する教徒たちからの大切な献金だ。それを君が、そんなふうに扱うわけ……」


 教祖はカタカタ震えて、壇上から安東を見下ろした。能天気な教祖は、ここへきて初めて、彼の肚の内に気づいた。彼は恐る恐る、春代夫人にも問う。


「それに……どうして春代がそれを……?」


「わたくしは、安東に脅されて……共謀するふりをして、内情を探っていたの。いつかはあなたに話さなくてはと機会を窺っていたのだけれど、安東が恐ろしくて、言い出せなかった……」


 春代夫人がそっと教祖の腰に手を添える。しかし幹部席で、幹部の誰かが吐き捨てた。


「よく言うよ、安東と不倫してたくせに」


 途端に、春代夫人が石化し、教祖も固まった。幹部席からまた、声が聞こえた。


「安東さんが潮時と見るや、さっと寝返ったな」


「甘い汁を吸えれば、どっちでもいいんだよな」


 金の匂いを嗅ぎつけて安東の計画に乗っかり、様子を見て、教祖のもとへ戻れるルートも残して慎重に動く。そして安東の失脚が確実になった途端、この手のひらの返しようだ。彼女の行動を客観的に見ていた幹部たちも、呆れている。

 教祖に苦い顔で見つめられ、春代夫人は汗を滲ませた。


「な、なにをおっしゃるの、わたくしは教祖だけを愛していたまでですわ……だからわたくしは、その……」

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