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「わ……」
春代夫人が、声を震わせる。
「わたくしだって心を痛めてるの。あなたたちに、こんなことをしたくない。教祖が苦しむのも見たくない。でも、安東さんの傷も、知っているから」
溶けかけのアイシャドウにぐるっと囲まれた、小さな瞳が揺れる。
「安東さんは、自由のために必要なものは、心のゆとりだと考えているの」
銀色の部屋の中、派手な外見の人物が、それに不似合いな訥々とした話し方で切り出す。
「彼ね、幼い頃にお母様を亡くしてるの。ご実家が貧しかったそうで、お母様が病床に臥しても手術費を用意できなかったの。幼い安東さんは、寒い中、街頭に立って募金を募った。でも結局、間に合わなくて」
色の剥げてきた唇が、ひとり言のように語る。
「その後、中学に進学して、わたくしと沓谷弘幸……のちの教祖と出会った。彼を知るたび、安東さんは驚きの連続だったそうよ。生まれついてのお金持ちで、なにひとつ不自由なく育ってきていて。だから心に余裕があって、人に優しくできて、周りから慕われる。おっちょこちょいで危なっかしい人なのに、それすらも愛される。安東さんは、彼こそが本当の自由を手にしている人間だと、感じたそうよ」
金があるから自由だった教祖。金がなかったから悲劇を味わった安東の目に、その友人の姿はどう映ったことだろう。嫌がらせのひとつでもしたくなったかもしれない。でも、沓谷氏はそれすらをも包み込む器の持ち主。憧憬、劣等感、嫉妬……多感な時期の安東が、沓谷氏にいろんな感情が混ざった複雑な想いを抱えたのは、想像に難くなかった。
その友人は人徳の輪を広げていき、やがて教祖となった。そうしてさらなる富を築いていったとしたら……。
「お金の余裕は、心の余裕。『お金があったら、人生は違った』。安東さんは、そういう考えが人より強くなってしまった」
その顛末を知る春代夫人は、安東に同情したのだろうか。だから彼の計画に加担した。
「教祖は安東さんの事情を知ると、深く哀しんだわ。だから彼は、自分には思い至らないような気持ちを抱えている人を、理解したいと考えた。様々な人のいろんな思いを認め、それぞれの自由を重んじる……そういう思想に至った。そこから生まれたのが、白き自由の教団よ。教祖がいちばん救いたかったのは、安東さんだったのかもしれないわ」
教祖の思いも、知ってる。春代夫人にとっては、どちらも大切な人だと。しんみりした空気が流れた。俺は数秒の沈黙ののち、その静寂を破った。
「でも春代さん、教祖のこと裏切ろうとしましたよね?」
なんか美談っぽくして誤魔化そうとしているが、この人は金のある教祖と結婚し、金が安東に流れそうになったら教祖を捨てようとした。それは紛れもない事実である。
俺の反応に、春代夫人は不快そうに顔を顰めてから、またヒロインぶった憂い顔になった。
「安東がお金で自由を買いたいのと同じ。わたくしは、愛でお金を買いたいの」
「お金で愛を買いたいじゃなくて、愛でお金を買う……ようは金があるほうについていくってことですね」
いろいろと合点がいった。春代夫人は安東に乗り換えようとしつつも教祖をキープしておきたいのだ。だから白き自由の教団が完全に消えるのは、それはそれで都合が悪い。
教祖の大事なものであるご神体も、彼女にとっては必要なパーツなのである。
「それ、安東が知ったらどう思うでしょうね」
俺は春代夫人の化粧の崩れた顔を、真っ直ぐに見た。
「もし春代さんが安東を切り捨てて教祖につくなら、安東は訴えられてしまうかもしれないわけで……安東にとって、春代さんは邪魔な存在になる。教祖に未練があるってだけで、警戒するでしょうね」
俺がそう言うと、春代夫人はひゅっと息を吞んだ。いい反応だ。俺は彼女の、その不安定な目を覗き込む。
「春代さん、俺と手を組みませんか。俺をここから解放し、教祖に会わせてください。そうすればご神体はお返ししますし、あなたの思惑を安東にも教祖にも話さない。白き自由の教団が安泰なら、金はまた貯められるし、あなたは今までどおりの暮らしができます」
春代夫人は、風向きを見てころころと立場を変える、風見鶏。言い換えれば、銀翼の全容を知っているのに完全に銀翼に染まっているわけではない、便利な人。
厚いファンデーションが、汗で崩れていく。彼女は深く押し黙って、目を泳がせていた。
*
「早く乗って。人に見つかるわ」
春代夫人が、俺をエレベーターに押し込んだ。そして銀のリングで括られた鍵を、俺に握らせる。
「これが執務室の鍵。これは私と教祖しか持っていない。他の教徒はもちろん、安東でも、鍵のかかった執務室には入れないわ」
エレベーターの中に手を入れて、扉を閉めるボタンを押し、早口に告げてくる。
「教祖はこの時間はもう、礼拝堂で祭礼の準備に入ってる。でも礼拝堂には他の教徒も集まりはじめてるから、今は会いに行ってはだめ。祭礼が終わるまで、執務室に篭城して身を隠していなさい」
風向きを見て立ち回る春代夫人は、自分の立場が脅かされることを最も恐れる。教祖からも安東からも見放されるリスクをちらつかせると、彼女は俺の手錠を外した。俺は晴れて懺悔室から解放され、地上階へと戻されるのだ。
閉まりかけるエレベーターのドアの隙間から、俺は春代夫人に言った。
「じゃ、約束どおり口裏合わせましょうね。俺は手錠を破壊してか弱い春代さんを殴り、懺悔室を脱走した。春代さんは悪くない、ってことで」
春代夫人が俺を逃がしたことを安東に知られたら、春代夫人は立場をなくす。彼女の保身も約束して、俺は取引に成功した。
このエレベーターは最上階のひとつ下に直通になっているようで、途中の階で止まらない。だから他の信者に遭遇してしまう危険もない。階段では長い道のりだった最上階は、エレベーターを使えばすぐだった。
真っ白な廊下に、再び対面する。あのぎらついた銀色の地下室のあとだと、この雪のような純白の世界が恐ろしいほど澄んで見える。
真っ直ぐに廊下を進み、春代夫人に持たされた鍵を構える。ドアノブの下の小さな溝に、その鍵を差し込んだ。カチャンと、微かな音が廊下に響く。
キイと細い音とともに、扉が開いた。そこに広がる景色に、俺はつい、え、と声を洩らした。
まろやかなクリーム色の壁に、高級感のある真紅のカーペット、奥の窓には真紅のカーテン。立派なデスクの横には長時間座っていても疲れにくそうな立派な椅子があり、その座面には真紅のクッションが置かれていた。
これまでは壁も床も天井も真っ白だったのに、ここは違う。
壁際の重厚な棚には、本や、教団のシンボルマークをかたどった置物が整然と並んでいる。デスクの上には書類の束や電話があり、事務的な印象がある一方で、赤いマグカップと赤い電気ポット、紅茶のティーバッグが入った箱もあり、快適そうな雰囲気が漂う。家具も小物も、教祖の趣味で整えられている感じがする。
扉の鍵を、内側から閉める。俺はカーペットを踏みしめてデスクに向かった。置かれているマグカップに、顔を近づける。
「この色……」
脳裏を過ぎるのは、あの赤いパーカー。この、少し暗い臙脂寄りの赤……偶然かもしれないが、同じ色だ。
俺は室内をゆっくりと歩いて見回った。踏み心地のいいカーペットに、生活感のある自然な環境。先ほどまで教祖がいたのであろう、空調の整った室温。誰も来ない、安全地帯。
俺は棚を背にして、床に座り込んだ。疲労が今になってどっと襲ってくる。あの懺悔室から脱出できた安心感もあって、一気に脱力した。
ハク様はどうなったのだろう。月華さんは、どうだろう。心配事はまだ尽きないが、それでも、一旦はここでひと息つける。
体を支える力が、ぐにゃっと抜けた。瞼がすうっと重くなって、気づいたら、俺は意識を手放していた。




