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安東のことだ。証拠になるようなものは残さない。足手まといになりそうな下っ端信者を脱会させて、信用できそうな人だけ教団の中に残していたのも、そういう計算あってのことだろう。
なにも言えない俺に、安東が満足げに微笑みかける。余裕たっぷりの表情に、俺は奥歯を噛んだ。深呼吸をして、問う。
「どうして月華さんを攫ったんですか?」
質問を変えた俺に、安東がゆっくりと首を傾げる。
「月華?」
カツッと、爪がまた、机を弾いた。
「さあ、知らないな」
知らないわけがない。俺はぎゅっと拳を握り締めた。
「俺の相棒が、あんたの車の中にいる月華さんを見てる」
「なんのことか分からないな」
しらばっくれるばかりで、話にならない。カツ、と、また安東が爪で机を叩く。安東の癖なのだろう。
「私から質問する番だ。ご神体は、どうやって盗んだ?」
「おい、月華さんのことを答えろ」
俺の反抗的な態度に、安東は一瞬無表情になった。それからまた、作り笑いを浮かべる。
「知らない、と答えただろう?」
どうしても答えないつもりだ。埒があかない。俺は小さなため息とともに、彼の質問に応じた。
「俺も、ご神体のことは知りません。俺じゃない方が盗みました」
「君の相棒だね。彼の名前は? 教団との関係は?」
「それは俺がいちばん知りたい」
「脱退した教徒か? それとも教徒の知人?」
カツカツ、カツ。繰り返し、机に爪の当たる音がする。しかしそれは一定のリズムではなくて、ところどころ乱れた打ち方だった。
「彼は何者なんだ?」
「知らないって。でも、辻褄を合わせるとしたら……」
俺は目の前の安東の、帽子の影から覗く目を見据えた。
「神様かもしれませんね」
「ははは……なかなか面白いことを言うね」
カツ、カツ、カツ、と、嫌な音が鼓膜をちくちくと刺激する。安東は冷静な素振りを見せているが、不規則な爪のリズムからは、微かな焦りが滲み出していた。
俺は椅子に繋がれた拳の中で、汗を握り締めていた。
「三億円は、どこに隠したんですか」
「ないよ」
安東が即答する。春代夫人の表情は、動かない。こちらの質問をかわそうとする安東に、俺はむっとした。
「ないわけない。月華さんのトレーラーからなくなってた」
「ないものはない」
安東はそう言い切って、また、質問を変えた。
「礼拝堂から再びご神体がなくなったと、教徒たちが困惑していた。今度も君の相棒が持っているのか?」
どきっとした。上着のポケットの中で、ご神体が数ミリ転がる。昨日まではご神体はハク様が持ち歩いていたが、今は俺が持っている。
安東は銀翼のための金だけあればいいのだから、ご神体には興味がないはずだ。これは単に形式的に質問しているだけだろう。でも、今俺が持っている事実は、安東に悟られないほうがいい気がする。
「捨てました」
きっぱりと嘘をついておく。すると、春代夫人の口が開いた。
「なんですって?」
しばらく黙っていた春代夫人が突然喋って、俺は思わず彼女の顔を見上げた。驚いたが、そのまま白々しく続けた。
「建物の外の崖の下に、放り投げました。理由は、身代金が手に入らなかったからです。金を用意しなければ神様はただではおかないと最初に言ったとおりです。あんなちっぽけな石、この雨でもう流されたでしょうね」
春代夫人は顔を顰め、無言に戻った。安東はというと、表情を変えていない。動揺していないのか、していても顔に出さないのかは、分からない。彼は机に肘を置き、指を組んだ。
「四時」
彼の口から、短く呟かれる。安東のスーツの袖口から覗く腕時計が、現在の時刻を示している。眠気が来なくて気がつかなかったが、そんなに時間が経ったか。瀬名川くんのバイクで連れられてきた時点で雨のせいで暗くて時間が分からなかったし、もう、時間経過の間隔が狂ってしまっている。
安東が帽子の影から俺を見つめる。
「祭礼が始まる時刻まで、あと四時間。祭礼の場には、教徒は大勢集まる。先金の出来事についての質問も飛び交うだろう。誘拐事件はどうなったのか、とかね」
声はあくまで柔らかく、丁寧で、優しい。
「彼らはとても情熱的なんだ。熱心なあまりに、少し気の荒くなってしまう人もいる。誘拐事件の犯人を目の当たりにしたら……」
安東は天気の話でもするみたいに、言った。
「もちろん私はそんなこと臨んでいないよ。君を傷つけたいわけじゃない。ただ、もしここで君が私に反発するのであれば……私は君を守りきれないかもしれない。祭礼の場で、君に、皆の前に立ってもらうことになるかもしれないね」
脅しというより、「残念なお知らせ」みたいな、そんな言い方。
「だからね、加藤くん。どうか今のうちに、分かり合えないかな。君が賢明な選択をしてくれることを、私は、心から願う」
つまり俺に、降伏しろ、と。
安東が三億を握っていることや、銀翼に関する不都合な事実……安東の計画を、教祖に話すなと。これ以上暴れるなと。
「君を守れるのは、私だけなんだ。どうか、分かってほしい」
俺は自分の状況を省みた。俺は今、安東に拘束されている。俺が彼の正体を知っているとなれば、安東は俺を解放したりはしない。教祖や他の白珠信者たちに暴露してしまう、危険因子なのだから。
「分かり合えないか」――つまり、俺が安東側につけば、身の安全は保障してやると。
どう足掻いても、三億円はもう安東から取り返すことはできない。そして俺は最悪の相手に捕まった。一生安東に飼われるか、ボコボコにされて外に捨てられ、教団を脅した脅迫罪と不法侵入罪で刑務所行きか、二択しかない。
教団の裏の顔など、追わなければ。いや、そもそも三億円になど釣られなければ。ハク様と、出会いさえしなければ。まともに働いて、友人たちと楽しく日々を送れていたものを。広野さんを、なんの後ろめたさもなく食事に誘えていたものを。
俺の人生は、今日をもって、終わった。
と、そこで、春代夫人が急に、悲鳴を上げた。
「な、なんですって! 安東さん、今しがた事務室から連絡が。緊急事態ですわ」
携帯を片手に、彼女が顔を青くする。なにかメッセージでも入ったようだ。
「安東さんの車の窓が割られているようです。車上荒らしですわ」
俺の心臓は、ばくっと跳ねた。ハク様だ。安東の車にいた月華さんを解放しに、彼は駐車場に向かった。無事に月華さんを助け出せたということか。安東が顔を強ばらせた。
「なんだと? それは困ったな。今、加藤くんと大事な話をしているのに」
「わたくしが尋問を引き継ぎます。安東さんは車の確認に行かれては?」
「ふむ……分かった。では頼むよ、春代さん」
安東が複雑な表情で立ち上がる。数かな足音を立て、俺の脇を通り、扉を開ける。
「話の途中ですまないね、加藤くん。でも私の希望するところは、伝わっただろう?」
安東が扉の前で振り向き、小さく皺の出た目尻で、笑う。
「君の回答を楽しみにしている。では、失礼するよ」
そう言って安東は、懺悔室を出て行った。一秒の静寂ののち、安東の座っていた椅子に今度は春代夫人が腰を沈めた。
「分かりますわね。安東に忠義を誓う、唯一の方法」
厚化粧のぎらぎらした顔と、真正面で向かい合う。春代夫人は、包み隠さずに言った。
「銀翼の会に入りなさい」
「……やっぱり、銀翼の会は、安東主導の団体だったんですね」
「銀翼に入会すれば、安東さんはあなたを大切な仲間として守ってくださる。でもそうでなければ、誘拐犯を許さない攻撃的な白珠信者の前にあなたを突き出す。どちらが賢い選択か、分かるわよね」
表現を曖昧にする安東とは違う。春代夫人の言葉は、率直で、俺にどうすればいいか、即刻選ばせる圧があった。
「銀翼の会は、あなたが思っているような悪徳集団ではないわ。そうね、白き自由の教団の分家とでも思ってもらおうかしら。教団の足りないところを、よりよくしたものが銀翼の会ですの」
春代夫人の胸で、ペンダントの緑の石が光る。銀色の壁の光を乱反射させて、眩しい。




