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 相棒に背中を預けて二手に分かれる、ワンシーン。これが映画の世界だったら、俺もあいつも、それぞれ見せ場に続いたはずで。

 でも、現実なんてこんなものだ。執務室直前で、俺は厚化粧の女に追い詰められ、逃げ場を失った。


 連れてこられた場所は、全面銀色の壁に銀色の床、銀色の天井の四畳ほどの小部屋だった。その部屋に置かれた椅子に、俺は手錠で繋がれていた。


「全く、自ら侵入してきただなんて、なにをお考えかしら」


 俺をここに連れてきた厚化粧の女が、わざとらしく肩を竦めた。

 襟首を掴む女から、香水のきつい匂いがする。化粧もドぎついが、ファッションセンスも鮮やかすぎて目がチカチカする。この顔は忘れようがない。教団の祭礼の動画に登場していた、教祖の妻、春代夫人だ。

 彼女も教団本部にいたのか。まあ、翌朝に祭礼を控えているし夫である教祖も泊り込んでいるし、安東も戻ってきているようだし、春代夫人がいるのも不思議はない。


 彼女は最上階のひとつ下の階にいたらしい。俺の気配に気づいて、追ってきたのだ。春代夫人ひとりが相手なら振り切って逃げられそうなものだが、なんと彼女は、俺の両手首に手錠をかけた。こうなるともう暴れようもなく、逃げたところで別の信者に連絡が行って捕まるだけである。

 折角最上階まで階段で上りきったというのに、俺はそのひとつ下の階から動くエレベーターに乗せられ、地下室まで一気に降下させられた。

 地下室。つまりこの銀色の小部屋が、懺悔室である。


 部屋の真ん中にはこれまた銀の机が置かれ、それを挟んで両側に椅子がある。俺はこの椅子の片方に座らされ、背もたれと右手が手錠で繋がれている。左の手錠は外してもらえたと思ったら、椅子と仲良しにされてしまった。

 俺の背後で扉が開いた。


「いらっしゃい。わざわざご足労ありがとう」


 低音で発せられた声に、心臓が凍りつく感じがした。

 二回目の身代金要求の電話、それから橋での作戦の直後に聞いた、あの声だ。あの、穏やかなのに妙に平板で、どこか冷めた、ぞっとする声。

 灰色のスーツにネクタイ、白髪交じりの髪に、中折れハット。帽子の鍔の影から覗く、感情の読めない目。

 ――安東だ。


「不思議な感じだね。もう何度も会っているような気分でもあるし、初対面のようにも感じる」


 歩く彼の足に合わせて、革靴が低く鳴る。静かな足音なのに、息の仕方を忘れるほどの迫力がある。

 安東は机を挟んで、俺と向かい合って椅子に腰掛けた。彼の後ろに、春代夫人が立つ。俺は短い呼吸を繰り返しながら、傍の椅子に腰掛けた。机を挟んで向かい合った男は、帽子の鍔の影で目を細めた。

 白髪がところどころに滲む髪は、歳月が置いていった霜のようで、彼の生きてきた年月と重みを感じさせる。見た目は、至ってシンプルだ。自由を振りかざして訳の分からない変な格好をしている人たちより、ずっと無個性なはずのに、この人自身の内面を感じさせてくる。

 そしてそのオーラに触れるほど、心臓が潰れそうなくらい、動悸が激しくなる。


 安東は物腰の柔らかな口調で切り出した。


「誘拐犯の片割れ。名前は、加藤くんと言ったな」


 敵意を感じさせない優しい口調に、却ってぞっとする。俺は警戒し、慎重に返した。


「はい、安東さん」


「私のこともご存知か。よく勉強しているようだね」


 銀の壁が鏡のように、いろんな角度から俺と安東を映している。よく見たらこの色の壁紙なのではなく、銀のシートを張っているみたいだ。ぎらぎらしていて、気味が悪い、というより、不快だ。


「そう硬くならなくていい。私は君を叱責するつもりはないし、むろん、危惧されるような恐ろしいこともしない。むしろ君とは、理解し合いたい」


 安東の指先が、トンと机を叩いた。硬い天板に爪が当たって、カツ、と乾いた音がした。


「身代金や、神様誘拐のこと……話したいことは山ほどある。でもそれは、君の私への警戒心を解いてからでいい。まずは私に対する誤解を解かせてくれ」


「誤解?」


「ああ。私は君に、不安な思いをさせただろうから」


 調子こそ穏やかであるが、抑揚がなく、感情の篭らない話し方だ。


「早緑川でのこと、申し訳なかった。追いかけてしまって、怖がらせてしまったね。あれは別に、君を捕まえようとしたわけではない」


 そうだろうな。と、俺は口の中で呟いた。捕まえるつもりはなかっただろう。俺が諦める三億円にしか興味がなかったのだから。黙っている俺に、安東は続ける。


「あのときは、教祖がひとりでこそこそと行動しているのを、私と春代さんが気づいてね。彼が危険なことをしないか心配で、こっそりついていったんだ。そうしたら、彼が橋からなにか放り投げた。それを持って走っている人がいれば、声をかけて事情を聞きたくもなるだろう?」


 ああ、なるほど、たしかにそうか。俺はハッとさせられた。友人である教祖が落としたものを俺が拾えば、話を聞きたくなるのは自然だ。安東は、三億を追っていたのではなく、俺に話しかけようとしていただけ?

 安東が俺の目の見て続ける。


「しかし君は足が速くて、おじさんである私には追いつけなかった。でも君が放り捨てたトランクは残っていたから、回収したまで。取り返そうとして追い回したわけじゃない」


「は、はあ」


 それも納得だ。話しかけようとした俺に逃げ切られたが、教祖が落としたらしいトランクはあったから、回収した。自然な行動だ。

 なんだ? ハク様の仮説を信じていたから、安東を危険な人間だと思い込んでいたが、そんなことはないのか? 警戒しすぎていただろうか?

 一瞬そう思ってから、我に返った。これは違う、ありえない。


『君が早い段階で金庫の中の三億がなくなっていることに気づいてくれたおかげで、教祖を追跡できた』


『困りますわね。わたくしたちの大事な門出の資金を、誘拐犯ごときに差し出してしまうんだもの』


 彼らのこの会話を、俺はたしかに聞いている。それに安東はあのあとまた河川敷に戻ってきて、月華さんごと力ずくで三億を取り返しているではないか。

 危なかった。惑わされそうになった。感覚が歪みそうな銀色の部屋、狭い空間、そして安東のこの攻撃性を感じさせない話し方と、目を真っ直ぐ見て話す誠実そうに見える所作のせいで、明らかな嘘を見落としかけた。

 鳥肌が立った。まだこの部屋に入って数分しか立っていないのに、もう騙されそうになった。ここで安東に隙を見せれば、あっという間に洗脳される。

 こいつに会話の主導権を握らせてはいけない。


「折角三億を回収したのに、どうして教団本部に戻ってきたんですか。欲しいものが手に入ったんだから、ここに戻る必要はなかったはずです」


 一秒だけ、空気が凍った。安東の微笑は変わっていない。でも、春代夫人は、目を見開いた。

 この状況は、裏を返せば安東から直接情報を引き出すチャンスだ。簡単に吐くわけがないが、どうせ捕まったならただで負けたくはない。俺はもう一度、揺さぶりをかける。


「用が済んだんだから、もう教団には近づかずに逃げ切ったものと思いました。銀翼の会の拠点を作って、まだ教団の中にいる銀翼の仲間をぶっこ抜けば、それで計画は完了したのに、なんでここに戻ってきたんですか?」


「よく知っているね、銀翼の会のことまで」


 安東が目を細める。柔らかな表情のはずなのに、俺は蛇に睨まれた蛙みたいに、全身がびりっと麻痺する感じがした。でも、怯えている場合ではない。


「三億円はどこですか。いきなり預金口座に突っ込むことはできないだろうから、現金のまま、手元に置いてるんじゃないですか」


「なぜ私が三億円を持っていると思うんだい?」


「教祖が金庫から三億円を出したのに気づいて、あなたたちは教祖を追跡した。さっきあなたが言ったように、教祖を心配したというのが本当なら、教祖に声をかけるはずだ。そして安東さんが三億円の入ったトランクを回収したのは、近隣のホームレスが見てる」


 安東は黙っている。緊張で声が震えそうになる。一旦呼吸を置いて、再び声に軸を持たせる。


「SNSの発信や本部の信者の様子を見ても、教祖や他の信者たちは、誘拐犯に金を払ったと思ってる。安東さんが回収したことを知らない。あんたは三億円を教団には持ち帰ってきてない。それってつまり、今もあなたが持ってるってことですよね」


「それと銀翼の会が、どう関係ある?」


 安東の芯の通った声が、しんと、室内に吸い込まれた。


「なんの証拠があって、私と銀翼の会の関係を疑っている?」


 俺はなにか、言おうとした。しかし喉から出たのは、ひゅ、と掠れた息だけだった。

 安東が三億円を回収したのは明らかだし、教団内部に銀翼の会が紛れているのも、有明さんの反応を見る限り間違いない。でも、銀翼の会が三億を狙っていた根拠は、ない。拠点設立のための資金ではないかというのは、ハク様が聞いた噂話でしかない。

 安東と銀翼の会を結びつける、確証がない。

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