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「加藤さん? 加藤さん!」
名前を呼ぶ声で、我に返る。気がついたら俺は、自宅アパートの近くの道路にいた。ここまでどうやって歩いてきたのか、覚えていない。手に持っていたはずの瓶缶ゴミも、いつの間にかなくなっていた。
降り注ぐ雨の中、道路が光っている。バイクのライトが乱反射して、アスファルトのボコボコを煌めかせていた。
濡れた前髪の向こうに、バイクに跨った青年が見える。
「加藤さん、どうしたんすか」
ヘルメットの中から聞こえる声は、瀬名川くんのものだった。
「あ……瀬名川くん。どうも」
「どうもじゃないっす、なにぼーっとしてるんすか。歩行者信号、赤っすよ」
「え、ごめん」
「走ってるの俺だけだったからよかったものを。マジでどうしたんですか? 傘も差さずに、ふらふらして」
瀬名川くんの快活な声を、雨の音が霞ませる。俺はぼんやりする頭で、答えた。
「ええと……河川敷から、なんか、どうにかしなきゃと思って、歩いてきた。教団に、返してもらいたくて……あれ、俺は、どうすればいいんだっけ」
どうしたらいいのか分からなくて、無意識のうちにここに帰ってきていた。帰巣本能だろうか。瀬名川くんはますます心配そうに、声のトーンを上げた。
「ちょっとちょっと、大丈夫っすか!?」
バイクを降りてきて、俺を歩道へ誘導する。彼の声を聞いていたら、だんだん頭の中の靄が薄れてきた。額に垂れる雫を濡れた腕で拭い、俺は改めて、ヘルメットの中の瀬名川くんと目を合わせた。
「ごめん、ぼーっとしてた。今やっと頭がはっきりしてきた」
「びびったっす。自我を失ったゾンビみたいでしたよ」
辺りはだいぶ暗い。雨が日を遮っているせいだろうか。今が何時なのか、分からない。
瀬名川くんはバイクを押して、俺を先導した。着いたのは、住み慣れたアパートである。
「見張りはいないっす。お隣さんの俺が教団の信者になったから、俺が見張り役なんです。あ、入信したふりしてるだけで実際は加藤さんの味方っすから、警戒しないでくださいね」
「心強いお隣さんだな。ごめんね、怖いチンピラだと誤解してて」
「いや、実際チンピラではあるんで」
瀬名川くんはそう言いつつ、俺を駐輪場の屋根の下へといざなった。彼はバイクを自分の駐輪スペースに納めると、ヘルメットを外した。
「で、どういう状況っすか。教団のSNSは俺も見てるから、ご神体を返したのは知ってるんすけど……結局身代金はどうなったのかとか、おふたりがどうなったのかまでは、末端教徒の俺は知らないんす」
「そうだよな」
「捕まってたら誘拐犯討伐団がお祭り騒ぎになってるはずだから、どっかで生きてはいるんだろうなとは思ってましたけど」
力の抜けた砕けた話し方を聞いていると、なぜか気持ちが落ち着いてくる。駐輪場の軒から垂れる雨粒が、ぽたぽたと、水溜りに落ちていく。
「ハク様が囮になる代わりに、身代金は受け取ったんだ。でも、それを隠し持ってくれてた女の子ごと、教団に奪い返された」
「む! じゃあ加藤さん、なにも得られてない上にハク様も協力者も失ったんすか? オーバーキルじゃないっすか」
「だから茫然自失のゾンビ化したんだよ」
「かわいそう」
瀬名川くんがバイクの座席にヘルメットを置く。
「俺のほうは、この間、連絡したとおりっす。香織からある程度話を聞き出せてはいるけど、香織も一般教徒だから、教団の方針とか、幹部がなにを考えてるかとかは分からないみたいです」
「うん、瀬名川くんからの連絡、すごく助かったよ。懸賞金のこと教えてくれてありがとう」
「もうちょい情報あればいいんすけどねえ。俺、まだ入信して間もないペーペー教徒だから、教団のこと殆どなにも知らなくて……。明日が初めての祭礼の日だから、そのときに香織がいろいろ教えてくれるつもりらしいです」
そうだった。明日は日曜日、白き自由の教団の祭礼の日である。
ハク様に見せられた、祭礼の映像が頭に浮かぶ。祭壇のある礼拝堂に詰め掛ける、大量の信者。神様を讃える声。ハク様と月華さんは、その地下の懺悔室にいると思われる。明日、あの場所で吊るし上げられるのだろうか。
それに三億円は、スーツの男――安東に奪われたと考えられる。ハク様の想像どおりなら、三億円はまるまる、銀翼の会の手に渡ってしまったのだ。彼らは誘拐事件のどさくさに紛れて、狙っていた三億円をまんまと手に入れたのだ。
資金を手に入れた銀翼の会は、白き自由の教団の中に潜んでいる理由がない。このまま教祖や他の信者にバレて糾弾される前に、金を持って逃亡するだろう。
「まずい。もう安東は教団には戻らない。早く取り返さないと……いや、どうやって? 連絡先は知らないし、金を持ってどこへ行くかも分からないのに」
俺は雨に濡れた頭を抱えて、考えた。
「これじゃハク様は捕まり損だ……こうしてる間も、懺悔室でなにをされてるか。開放してもらうにはどうしたら……無理だ、交渉材料すらない」
雨が体温を奪う。
身代金の受け渡し作戦は、いつもハク様が考えていた。俺は彼に従うだけで、自分で考えていない。それでも一緒に意見を出して詳細を詰めたし、アドリブで乗り越えたところもあった。こんなとき、ハク様ならどうする? 俺は、どうする?
頭の中に浮かんだハク様が、能天気な顔で言った。
「よし、教団本部に突っ込んじゃおう!」
「……ん?」
俺は頭を抱えたまま、固まった。長時間一緒にいたせいか、あいつの言いそうなことが手に取るように分かる。
「安東以外の銀翼の会信者は、今も教団に紛れ込んでる。そこから情報を引き出すしかない。教団本部に乗り込んで、情報収集だ」
……俺の頭の中のハク様は、あははっと楽しそうに俺に指示を出してきた。
たしかに、銀翼の会は現在まだ拠点がないから、寄生先である白き自由の教団の本部に信者が紛れている。ハク様がいるのも教団本部。解放の交渉ができないなら、直接侵入して脱出の手助けをするしかない。
そんな考えが過ぎったが、俺は一旦、変な想像を振り払う。
「いやいや、正面切って突入したら、俺も捕まって終わりだろ……」
「ん? なんすか? 今から教団本部にカチコミっすか」
瀬名川くんは背すじを伸ばす。俺は慌てて首を横に振った。
「無謀すぎる。第一、あんな山の中にある本部に今から向かったら、着く頃には日が暮れてる。入れないと思う、営業時間とか知らんけど」
と言ったあとに、俺は、あ、と呟く。
「誘拐犯討伐団は、二十四時間持ち回りで対応中……誘拐犯の片割れの俺がまだ捕まってないから、今も……」
「そっすね、二十四時間、深夜もずっと、正門も裏口も開いてるっす」
瀬名川くんはそう言うと、バイクの荷台を開けた。中からフルフェイスのヘルメットが出てくる。彼はそれをぽんと、俺に向かって軽やかに投げた。
「ほい、行くっすよ」
「へ?」
俺はヘルメットを受け取って、ぽかんとした。瀬名川くんは、一度外したヘルメットを被り直す。
「行くんでしょ、本部。バイク、後ろ乗ってください」
「ま、マジで……?」
「道分かんねーから、ナビ頼むっす」
「それは営業で、何度か行ったことあるから大丈夫」
瀬名川くんは、バイクに素早く飛び乗った。
「じゃ、余裕っすね」
今こうしている間も、ハク様は地獄を見ている。月華さんもだ。尻込みしている暇は、ない。俺は瀬名川くんのバイクのシートに跨って、彼の背中にこの瞬間を預けた。
「ごめん瀬名川くん、頼んだ!」
「よっしゃ! 飛ばしてきますよ。しっかり掴まってろ!」
その一秒後には、彼のバイクは唸りを上げて、駐輪場から飛び出した。激しいエンジン音とともに、水飛沫を飛ばして、濡れたアスファルトを滑走していく。雨粒がヘルメットにバチバチ当たっては、風に吹き飛ばされていく。俺は思わず悲鳴を上げた。
「おわあああ! 法定速度! 法定速度!」
「てか雨やばくないすか? バイトの帰りに急に雨が降ってきたんすよ、レインコートとか持ってきてねえのに。あ、だから加藤さんも傘持ってなかったのか」
瀬名川くんが喋りながらこちらに一瞥をくれる。バイクのタイヤが水溜りを轢き、ぐらっとスリップしかける。
「前見て! いや乗せてもらっといてなんだけど!」
この調子で雨の中の山道を登ると思うと、今から生きた心地がしなかった。
*
「この通りを右。山道に入る細い道路が見えてくるから、そこに入って」
雨とバイクの轟音の中、俺は半ば叫ぶように、瀬名川くんに道案内した。瀬名川くんは、道を分かっていないのにスピードを上げてガンガン飛ばしていく。
「本部って山の中にあるらしいっすね。アクセス悪くね?」
「新しい信者を誘い込むときなんかに、逃げられなくするためらしい。わざと長くドライブして疲れさせる目的もあるとか」
山奥なら、教団の外からの監視も届きにくい。なにが行われていようと、人目につきにくいのだ。
瀬名川くんのバイクが、本部のある山に差し掛かった。
ハク様の居場所は、SNSには載せられていない。彼が本部にいるかどうかは、確たる証拠はない。
でも本部の可能性が限りなく高い。教団が気に入らない奴を閉じ込めて折檻する懺悔室は、本部にしかないと、ハク様が言っていたからだ。
ハク様が言うには、懺悔室は幹部の目が届かなくてはならないため、本部の地下にあるのだという。懺悔室行きの人は本部に報告されるのだろうし、部屋の用途も特殊だから、支部にはないのだ。
それから、教団が捕まえた誘拐犯を警察に渡すとも考えにくい。彼ら自身も警察を避けているらしいし、なにより、誘拐犯を憎む彼らは法の裁きより私刑を望むだろう。いっそ警察に突き出してくれたほうがマシなくらいである。
瀬名川くんのバイクのタイヤが、上り坂でもスピードを落とさすに転がっていく。俺は、瀬名川くんに言った。
「教団本部の懺悔室、ハク様によると、そこに入れられた人は、いじめる側の気が済むまで苦痛を与えられるらしい。神様誘拐レベルの悪事を働いたならいざしらずだけど、脱会したいだけの人なんかもだよ」
山道の急カーブを、瀬名川くんがギリギリを攻めていく。俺は身を縮ませながら、雨に濡れる林を目で追った。
「どうしてそうなっちゃうんだろうな。この教団の信者って、社会生活が窮屈で、自由を求めて、この教団に行き着いた人たちなんじゃないのか。お金がなくても無理に献金しちゃったりとか、他の信者と足並み揃えようとして自由の度合いがインフレしちゃったりとか、そういうとこ見てると、根が真面目な人が多いんじゃないかと思う」
「そっすね。香織もそんなようなこと言ってました。教団の教徒は殆どの人が真面目でお行儀が良くて、幸せになる権利がある。だから教徒を全員、やばい奴らだと偏見を持たないでほしいって」
瀬名川くんは、どこか悟ったようにそう言った。
ひと握り変な奴がいれば、それが全体に見えてしまう。実際そういう危ない思想の人が蔓延っていて、それが是正されていかないのだから、全体の感覚が麻痺しているのだと感じる。
瀬名川くんは首を捻った。
「この教団、本当にそんな怖い団体なんすかね? 俺、香織が懺悔室で拷問じみた攻撃に加担してるかもしれないなんて、想像できないっす」
「ふんわりした優しい雰囲気だもんな。でも誘拐犯討伐団に入るような過激派なんだよな」
また、瀬名川くんは急ハンドルを切った。ギャンッとタイヤが唸り、水飛沫が翼のように伸びる。
「あれ、瀬名川くん、俺をこのまま教団に突き出すつもりで連れて行こうとしてないよな?」
「あはは。たしかにこの構図、自宅に戻ってきた誘拐犯を本部に突き出す教徒そのものっすね」
「えっ、信用して大丈夫だよね?」
俺の声は、雨風でしなる木々とバイクのエンジン音にかき消された。




