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中原の恋人は、まだ仕事中である。彼女が帰ってくる前に、俺と中原は中原の家に到着した。
テーブルを囲んで、椅子に腰掛ける。いつもあっけらかんとしている中原も、今回は神妙な顔で手指を組んでいた。
「そんじゃ、ハク様は……その三億円と引き換えに、教団に監禁されてるかもしれないんだな」
「どんな処遇かは分からないけど、少なくとも平和的に解放されてるとは、到底思えない」
ご神体を返して、はい、もういいよ、とはならない。作戦を決めたときから、ハク様は腹を括っていた。自分が教団に捕らえられる前提で、計画を進めていた。
でも俺はやはり、このままではいられない。
「それに、問題は他にもあって」
俺はテーブルに置いた、画面を伏せた携帯に目を向けた。
「誘拐犯討伐団。こいつらは『誘拐犯を許さない』を理念に動いてる。ご神体が戻ってきたから解決、とは思ってない。誘拐犯を裁くまで、止まらない」
「加藤もまだ捜されてるってわけか」
「うん。片割れであるハク様を捕獲して、ご神体もあるから、これまでよりは動きが鈍くはなると思うけど……まだ俺も油断できない」
許されたわけでは、ない。
「誘拐犯討伐団は、俺の自宅を張り込むだろうな。金を持って戻ってくる場所として、目をつけるはずだから」
まだ帰れない。実際は金は月華さんが持っているから、持ち帰るわけではないが。
中原は「なるほどなあ」と零して、天井を仰いだ。
「家はとりあえず、三億あればどうとでもなるんじゃないか。しばらくはホテル住まいにして、新しい家が決まったら、業者を手配して前の部屋から荷物を引き上げれば、加藤が戻らなくても完結する」
「あ、そっか。引っ越しちゃえばいいのか」
「なんなら新しい住処が決まるまで、うちにいてくれてもいいし」
三億あるのに、それを使うという発想が完全に抜け落ちていた。トランクの中から札束が覗いたあの瞬間が、脳裏に蘇る。あのとき俺は、手に入れたという気持ちよりも、とんでもないものを受け取ってしまった、という感情が先立った。
あの三億は、教祖が俺に向かって投げたものだ。でも、あれが自分のものであるという意識はまだない。心のどこかで、使ってはいけない他人のお金である気がしている。気持ちの面は、これから追いついてくるものなのだろうか。
中原の提案をきっかけに、俺はひとつ、思いついた。
「そうだ。三億円でハク様を買い戻せば……」
教団に、三億円を払うからハク様を解放してくれ、と頼むのだ。手に入れた三億円は失うことになるが、そもそも教団の金である。それがあるべきところに戻り、ハク様も解放されるなら、いいのではないか。
身代金の受け渡しと同じ方法で、立場を逆転させれば、信者の前に姿を現さずに金を渡すことは可能だ。
そこまで考えてから、だめだ、と呑み込む。
受け渡しの直後に現れた、ふたりの人物のシルエットが頭に浮かぶ。
片方は、スーツの男。顔を見ている余裕はなかったが、あの声にはたしかに聞き覚えがあった。コインロッカー作戦のときに、電話で話した声だった。教祖のすぐ傍で、教祖の行動を管理している人物だ。
そしてもうひとり。女のほうは、こちらも顔は見えなかったが、誰だか分かる。
『君が早い段階で金庫の中の三億がなくなっていることに気づいてくれたおかげで、教祖を追跡できた』――連れの男は、そう言った。となると、女は教団の金庫を管理する人物。暗証番号を把握しているのは、教祖と、妻の春代夫人だけ。
そしてその女は、こう口にした。
『困りますわね。わたくしたちの大事な門出の資金を、誘拐犯ごときに差し出してしまうんだもの』。俺にはこの言葉が、『銀翼の会の拠点作りのための資金』と聞こえた。
もう、確定ではないか。ハク様がいちばん嫌がっていた、その展開が。
ハク様の目的は、教団に金を使わせること。ハク様の仮説が当たっていれば、金を教団に返せば、銀翼の会に吸い取られる。金を返してしまうのは、ハク様の意志に反する。
中途半端に言いかけてやめた俺を、中原がじっと観察している。
「買い戻しは、だめなのか」
「うん……実はハク様の目的は、信仰心を確かめるだけじゃなくて……」
満月の夜に聞いたハク様の本心を、話しそうになった。でもこれも語ってはいけない。春代夫人の不倫と銀翼の会の疑惑は、ハク様にとっては、誰にも知られたくない秘密なのだ。俺にだけに話してくれたのに、俺が中原にペラペラ喋ってはいけない。
「信仰心を確かめるだけじゃなくて、教団が余分な金を持ってるのが危険だから、使わせたかったんだって」
ハク様が隠したい事実は言葉にせず、でも嘘ではない範囲で、中原に話しておく。中原は多くは詮索せず、ふうんと鼻を鳴らした。
「ともかく、必要になったときにすぐ使えるように、金は手元に持っていたいよな。なんだっけ、別の人に取られちゃったんだっけか」
「うん……教団に奪い返されそうだったところを、その人が隠しておいてくれたから、俺も助かってるんだけどね」
「なにそれ、どういう状況?」
困惑気味に言ってから、中原はテーブルに頬杖をつき、唸った。
「とはいえここまで頑張ったのに、横取りされる筋合いはない。明日にでも、取り返しに行こう」
「そうだな。また改めて交渉しよう」
月華さんは、あの三億円入りのトランクを「捨てられた物体」として気に入っているだけで、金としての価値を評価しているわけではない。むしろ彼女は、一般的に欲しがられる金品は好まないから、誰もが欲しがる大金だと説明すれば興味をなくすと考えられる。
彼女と話しに行こう。ハク様を救う方法を考えるのは、それからだ。
中原が椅子から立ち上がった。
「さて、俺は夕飯の支度でもするかな。加藤はどうする? 食ってくか?」
「お気遣いありがとう。でも自分で調達するよ。そんなに頼ってばっかじゃ、流石にな」
「なんだよ、遠慮すんなよ」
中原には世話になってばかりだ。キッキンに向かう彼の背中に、俺は言った。
「あのさ、中原。さっき、SNSをチェックしたって言ってたよな」
「うん? ああ、見たよ」
「じゃ、教団が俺を指名手配して、懸賞金かけて捜してるのも知ってるよな」
「うん。だから匿ってるんだよ。捕まったらヤベーから」
中原が振り返って、目をぱちくりさせた。
「それがどうかした?」
「あ、いや、俺を教団に突き出せば懸賞金貰えるのに、しないんだなと思って」
「懸賞金はたかだか三百万だろ。加藤に協力して三千万貰ったほうがお得だからな」
冗談っぽく笑って、彼は料理の支度を始めた。
口ではああ言うが、中原のことだから、多分損得勘定では動かない。たとえ俺が三千万を出せなくても、懸賞金のほうが高くなろうとも、彼は俺を売ったりしないのだ。今なら、そう思える。
横内が俺を売ったように、中原だって、なにを考えているのか分からない――心の隅っこにあったそんな疑念は、すっかり晴れていた。中原本人と話したら、彼の人柄を思い出して、疑っているのがバカらしくなった。
と、キッチンで中原が叫んだ。
「うわ、やべえ、忘れてた! 今朝、瓶と缶の回収日だからゴミを出しといてくれって彼女から言われてたんだった。すっかり忘れてた」
キッチンに並んだ調味料の空き瓶を掲げ、中原は悔しそうに呻く。
「くっそ、今日を逃したら次の回収日は来月だ。瓶と缶って回収日が月一しかないの不便だよなあ。常に回収してくれるスポット、この辺にあればいいのに」
ぶつぶつ文句を言いながら、キッチンに置かれた調味料の空き瓶をかき集めている。所帯じみた言動を見ていると、なんとなくほっこりする。
と、そこで俺はハッと閃いた。
「中原、その瓶と缶、いらないんだよな? じゃあそれ、俺にくれない? 一ヶ月待たずに引き取ってくれそうな宛てがある」
「え、マジで!?」
中原は目を丸くして、即行、俺に瓶缶のゴミ袋を突き出した。




