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それから街を少し彷徨って、時間を潰してから、俺はあさぎ橋にやってきた。昼下がりの橋の周辺は、先ほどとは打って変わって静まり返っている。信者の姿も、むろんハク様の姿の見当たらない。
作戦のあと、合流しようと約束したのに。ハク様とは、連絡手段がない。彼が今どうしているのかすら、俺には分からないのだ。
そのまま北上して、早緑橋に向かう。こちらもしんと静かで、ダンボールハウスの人々も留守のようだった。俺は河川敷に降りて、ハク様と作ったダンボールハウスを覗いた。隠してあったはずの三億円は――なくなっていた。
そうなるだろうと、分かりきっていた。追ってきていたあのふたりは、俺が捨てた中古のトランクをすぐに確認していた。あれに中身がないと見れば、教祖がトランクを落とした場所を確認する。そして本物を見つけて、回収するまでだ。
分かってはいたが、一度手に入れた三億円が呆気なく目の前から消えていると、無性に空しくなった。捨てる判断をしたのは、俺自身なのに。
三億は手に入らなかった。ハク様もいない。次はどうしたらいいのだろう。考えないといけないのに、今日はもう、頭が回りそうにない。
どうしようかな。もう自宅アパートに帰ってもいいかな。ふらふらと、河川敷を歩き出す。青空の半分が、入道雲に侵食されている。日は高く明るいけれど、雲の厚みがあるところだけはずっしりと、薄暗く翳っていた。
とぼとぼと歩く俺を、か細い声が俺を引きとめた。
「あ、あの」
俺は立ち止まって、辺りを見回した。河川敷の端に、打ち捨てられたトレーラーがある。そのドアに数センチの隙間を作って、女の子が遠慮がちに顔を覗かせていた。
「おはよう、ございます」
月華さんだ。俺は彼女を憮然として見つめたのち、会釈した。
「お昼です」
「挨拶の価値が時間で決まるなら、月華は、今はおはようがいいです」
どこまでも不思議な人である。茫然自失のからっぽの俺には、彼女の意味不明な言葉が、響くようで響かなかった。
「河口のほうで、大きな音がしました。月華は河口じゃないほうに逃げました。人がたくさんいるのは、怖いので」
なんの音もない河川敷では、月華さんの消え入りそうな声も、聞き取りやすかった。
「月華は、これを拾いました」
彼女はすっとトレーラーの奥に引っ込み、そしてまた、ドアの隙間を広げた。それでも隙間が狭すぎて、なにがあるのか殆ど見えない。俺は目を凝らし、近づき、月華さんのトレーラーのまん前まで来て、そしてやっと気づいた。
「え、これ……トランク?」
「はい。橋の下で、見つけました」
月華さんはトランクのレバーをスライドさせ、ぱかっと開いてみせた。中から顔を出したのは、大量の一万円の束である。
俺は口を半開きにして、数秒、固まった。
「え、え? えー!」
「拾いました」
「待って待って、どういうこと!?」
この金は、教祖を追跡してきたあの人物たちに回収されてしまったのではなかったのか? 目を白黒させる俺に、月華さんが言う。
「加藤さん、これに似てるのを持って、誰かに追いかけれてるのを、月華は見ました。前に月華のとこに来たとき、物を落としてもらって、それを拾うのをやりたいって言ってました。持ってるのが、欲しかったものなのかなって思いました」
たどたどしくも、彼女は一生懸命に話してくれた。
「そしたら橋の下に、似てるのを見つけました。加藤さんは、同じものを大事に持って逃げてるのに、ここにあるほうは捨ててあったので、いらないんだと思いました。どうして見た目が同じなのに、片方は持って走るくらい大事で、片方はダンボールハウスに捨ててしまうのか、月華には不思議でなりません」
俺は月華さんの言葉を、俺なりに整理した。
月華さんは、俺が中古のトランクで教団の追っ手の気を引きながら逃げているのを目撃した。一方で、そっくりな見た目のトランクが橋の下のダンボールハウスに置き去りになっているのを見つけ、彼女は、俺にとって必要なものが中古トランク、置き去りにして捨てたのが三億円入りトランクと認識した。
見た目がそっくりなトランクふたつのうち、片方はいらないものであることが、月華さんの価値観に刺さった。彼女は「捨てられていた」三億円を拾い、自分のトレーラーに持ち帰ったのだ。
「ま、マジか。てっきり教団に回収されたかと……」
びっくりした。三億円は、手に入っていたのだ。
これがここにあるということは、俺を追っていたふたりは、ダミーの中古トランクに気を取られているうちに、本物の三億円を回収し損ねたのだ。
月華さんが首を傾げる。
「加藤さんが今、ここを通ってくれたので、声をかけました。これ、加藤さんが捨てたものですから、見せておきたいと思いました」
これは予想だにしていなかった。月華さんが、三億円を守ってくれていたとは。
「ありがとう月華さん! おかげで教団に取り返されずに済んだ」
「ん? 月華、落ちてたから拾っただけです。なんで『ありがとう』か分かんないです」
「なんでもいいんだ。とにかく助かった」
きょとんとしている月華さんを拝み、俺は手を差し出した。
「ありがとう」
「はい」
「あの……ありがとう、ございます」
「はい」
手を伸ばす俺を、月華さんは目をぱちぱちさせて見ている。見ているだけで、足元で抱えているトランクを俺に返す気配はない。
「えっと……それ、返してくれるんじゃ……」
「返すなんて言ってないです。ただの、報告です。拾いました、っていう、報告」
「ほ、報告」
俺はまたもや衝撃を喰らった。月華さんは、文字どおり拾っただけなのだ。そのトランクが俺にとって大事なものだから、教団に見つからないうちに隠してくれたのではなく、落ちていたから拾っただけなのだ。
月華さんは怪訝な顔になり、すっとトランクを引っ込めた。
「一度捨てたものなのに、欲しがるなんて、ヘンテコです。加藤さんは、これを捨てたのに。いらないから捨てたんでしょう?」
「違う違う、たしかに身の安全と天秤にかけて、一旦はそっちは捨てたけど!」
「捨てたならいらないってことです。この世のいらないものは、なるべく月華のものにしたい」
月華さんはそう言い残し、トレーラーのドアを閉めた。俺はそのドアにしがみついたが、廃車のくせに鍵は生きているらしく、開かなかった。
「そんな! 月華さん、月華さん! 誤解だ!」
しかし月華さんはもうドアを開けない。もともと警戒心が強い彼女のことだ、しつこくしたら余計に怖がって出てこなくなるだろう。俺は仕方なく、一歩下がった。
通常ならホームレスに大金を拾われたら、そのまま持ち逃げされると考えるものだが、月華さんの場合は当てはまらない。彼女はいらないものを欲しがり、一般的に価値があるものには興味がない。誰もが欲しがる三億円も、彼女の前では価値がない。
河川敷の住人であるおじいさんの話からしても、彼女の振る舞いに嘘はない。むしろ彼女こそ、他人の金に絶対に手をつけない。
「……まあ、教団に奪い返されることを思えば、月華さんのほうがよっぽどいいな。うん、作戦は成功ってことだ」
ひとます、目的は達成だ。
残るはハク様である。




