1
「ん? あ!」
からっとした暑さの中で、目を覚ました。俺は早緑橋の下のダンボールハウスで、中古のトランクを枕にして、いつの間にか眠ってしまっていた。
飛び起きて辺りを見回しても、ハク様の姿はなかった。
「連れの兄ちゃんなら、あさぎ橋に行くっつって河口に下りてったよ」
声をかけてきたのは、お隣のダンボールハウスのおじいさんだった。川のせせらぎが聞こえる。俺は、はあ、と返事をした。
「そうでしたか」
あれからハク様と、逃走経路の確認は殆どしないまま、雑談をして過ごした。学生の頃の話とか、中原と横内と遊びに行った場所の話とか、そんな、他愛もない話題だった。ハク様は相変わらず自分のことを話したがらず、俺から振ってみてもはぐらかした。
そのうち早緑橋の下で俺は電池切れになった。昨晩寝ていないせいもあって、急にストンと眠ってしまったのだ。ハク様は俺を置いて持ち場に向かった。そして俺は昼寝から覚めて、今に至る。
携帯で時刻を確認すると、十一時五十分を回っていた。
「あぶねー! 寝過ごすところだった」
というか、この時間ならもう教祖は真上に来て正午を待っているのではないか。周辺に目を凝らしてみる。人の気配はない。ハク様の狙いどおり、信者はあさぎ橋に流れて、こちらにはひとりも来ていないのだろうか。
警戒する俺を見かねて、隣のおじいさんが言う。
「なーんも来てねえぞ。お前さんらの話だと、変な奴らがうじゃうじゃ来るんじゃなかったか?」
「なんも来てないならよかったです。見ててくださってありがとうございます」
あまり物音を立てないよう、俺はハウスの中に戻った。中古のトランクを抱え、待機する。携帯の画面の中で、時計が進む。十一時五十五分。
「お前さんら、一体何者なんだ」
ハウスの外から、おじいさんの眠そうな声が聞こえる。ぷわんと、蚊の羽音がした。俺は小声で答えた。
「なんでしょうね。俺はただの無職で……ハク様も、そうかなあ。自称神様ですけど」
「神様?」
「ああいや、ただの冗談かと。そういう人だから、俺もあの人のこと、殆ど知らなくて」
五十八分。緊張で心臓が早鐘を打っている。でも、おじいさんの凪いだ声が、俺を落ち着かせてくれる。
「殆ど知らない? てっきり付き合いの長い友達か、むしろ兄弟かと思ったぞ」
「違うんですよ。三日前に知り合ったばっかです」
「んなアホな」
「本当ですって」
おじいさんの呆れた声に、俺は被せ気味に返す。
また、時計に目をやる。五十九分。心臓のバクバクする音が、聞こえそうだ。ハウスの外で、草が風に吹かれている。夏の虫の声が静かに響く。一分が長い。
次の瞬間、俺の喉から、そよ風に攫われるほどの押し殺した声が洩れた。
「来る」
真っ黒なトランクが降ってきたのは、その一秒後である。
ドゴッと落ちてきたと同時に、俺もハウスから手を伸ばし、そのハンドルを掴んだ。小学生の体重ほどもあるそれは、引っ張ってもするっとは動かない。歯を食いしばって引きずり込んで、腹に抱え込む。
これが、三億円。
俺は今、三億円もの大金を抱えているのか。これが本物なら、長かった神様誘拐も、これで終わる。
心臓がうるさい。手が震えている。レバーを外したいのに、指ががくがくして上手く掴めない。
ようやく摘まんだレバーを外し、数センチだけ、トランクを開く。
「わ……」
開いた鞄の口からは、たしかに、分厚い束になった一万円札が欠片を覗かせていた。
頭がくらっとした。思わずトランクを閉める。
本物の現金、三億円だ。ついに、俺の手に渡ってきた。
胸がざわついて、背中には汗が滲んだ。トランクを抱える腕にかかる重み以上に、全身にずっしりと、なにかがのしかかってくる。三億円を手に入れたら、もっと舞い上がるだろうと思っていたのに、いざ手にしてみるとこんなに震えるものなのか。嬉しい気持ちより、緊張と恐怖のほうが大きい。
俺はカチリとトランクの蓋を閉めて、ハウスの端に寄せた。そっと、外の様子を窺う。
周りは静かだ。トランクが投げ込まれたというのに、信者の声や、足音は聞こえない。本当に、本当に信者が配備されていないのか?
裏を返せば、誘拐犯討伐団をはじめとする信者たちは、ハク様に総がかりになっているというわけだ。ハク様は、無事だろうか。いや、そんな人数をひとりで引きつけるとなれば、無事なわけがない。
ドンッと、河口方面で爆発音がした。おじいさんもそちらを向く。俺はひゅっと、息を呑んだ。胸がざわざわする。やはり強引にでも、こんな作戦はやめるべきだったのではないか。
俺はハウスを這い出た。ハク様のいるあさぎ橋に、急がないと。このまま、彼を見殺しになんてできない。そう掻き立てられるのに、それだけはやってはいけないのだと、理性が引き止める。俺がこのトランクを持って、信者が集まる場所へ行ってしまったら、折角成功したのに意味がなくなる。ただの足手まといになるだけだ。
そのときだった。自分が背にしている法面の上、端の袂に、キッと車が止まった。
「全く。手を煩わせてくれる」
その声が聞こえるなり、俺は心臓が凍った気がした。
知っている声だ。これは、コインロッカー作戦のときに、電話越しに聞いた声。
続いて、いやに鼻にかかった、ねっとりした女の声も聞こえた。
「困りますわね。わたくしたちの大事な門出の資金を、誘拐犯ごときに差し出してしまうんだもの」
「まあ、君が早い段階で金庫の中の三億がなくなっていることに気づいてくれたおかげで、教祖を追跡できた。さあ、誘拐犯、出てきてもらおうか」
どっと、汗が出た。
教団の幹部だ。本当に三億があるのはこちらだと、気づかれていた。
ハク様のブラフに騙されてくれる信者ばかりではない。教祖の動向に勘づいて、彼を追跡してきた者がいる。教祖はちゃんと、約束を守ってひとりで三億を放り投げてくれたけれど、そんな彼を敢えて泳がせて、三億も誘拐犯も回収しようとしている奴がいる。
凍りつく俺を、おじいさんが冷めた目で見ている。俺は三億円を隠したダンボールハウスを振り返った。
ハク様の作戦では、この橋に教祖以外が現れてしまった場合は、からっぽの中古トランクを囮にしろとのことだった。この状況がまさにそれだ。俺は広野さんから買ったトランクを持ってここを出て、あいつらの注意を引きつけなくてはならない。
でもそうしたところで、中古のトランクを回収されれば、これがダミーであることなどすぐにバレる。そして本物の三億円も、あっという間に取り返されてしまう。
ならばいっそ、三億円を持って逃げきってしまえばいいのではないか?
いや、あの重いトランクを引きずって、逃げられるだろうか?
キャスターで引きずるにしても、河原の石が引っかかるし、そうでなくてもこの重量は足枷になる。でも、三億円もの大金を、こんなところで手放すのか?
俺はコンマ五秒で、苦渋の決断を下した。
「くっそ……!」
置き去りにするしかない。やばい教団に捕まるよりは、まだマシだ。ここで三億円を諦めても、銀翼の会に持ち出される前に、また何度だって脅迫してやる。
三億円の入っていない中古トランクをもって、橋の下から飛び出す。中身のないトランクを引きずる俺を、袂のふたりが見つけた。
「いたわ!」
女の声のあと、男の影が動き出した。俺は車が入ってこられない中州の方へと走り、追ってくる男を引きつけた。
バンッと、また、あさぎ橋の下で爆発音がした。咄嗟に音のほうを振り向く。自分も絶体絶命だが、ハク様はもっと大変な状況のはずだ。ハク様の安否を確かめたいけれど、あさぎ橋の方向にだけは向かってはいけない。
後ろから追ってくる男は、黒っぽいスーツ姿だった。ワンテンポ遅れて追ってきている女は、体のラインが出たワンピースを着ている。どちらも、河原を走るのには向かない格好だ。俺のほうがだいぶ有利である。
しかしこのふたりが援軍を呼んだら、勝ち目がない。川の水嵩は高く、生身で越えられる幅でもない。いずれは土手に上がらないと、身を隠せる場所がない。
方向転換して土手のほうに向かい、階段を駆け上がる。追ってくるふたりが上ってきて車に乗り込まれたらいよいよ逃げ切れないから、この辺で俺はトランクを放り出した。空のトランクが斜面を転がり落ち、河川敷の草むらに落ちていく。追いかけてきていた男と女は、トランクに向かっていった。
俺はそのまま土手沿いの遊歩道に逃げ込み、曲がり角の多い住宅地に入って、追ってくる彼らの視界から逃げ出した。




