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『加藤さんが追いかけてた三億円、懸賞金になっちゃったみたいっす! 信者じゃない人にも気をつけてくださいね。またなにか分かったら連絡しますね』
瀬名川くんからのメッセージは、そこで終わっていた。横内の声は、壁の向こうからまだ聞こえてくる。
「なんだ、すぐに貰えるわけじゃないのか。まずはあいつらを、最寄の支部に連れて行けばいいんですね。振込みはそのあとか」
頭の中に、弁当容器をゴミ袋に突っ込む横内の姿が蘇る。なんの躊躇もなく、容赦なく、捨てる。
やめてくれ。嘘であってくれ。夢であってくれ。
真夏の蒸し暑い夜なのに、鳥肌が立っている。暑さとは関係ない、変な汗が流れた。俺は隣のまん丸の布団を揺すった。
「ハク様、ハク様、起きて」
壁の向こうに聞こえないように、声を押し殺す。白い塊が、もそもそと動いた。
「起きてるし、聞いてるよ」
ぼさぼさになったハク様の頭が、布団の端から出てきた。
「神様は耳がいいからね。……これだけ静かなら、壁の向こうの声くらい、俺じゃなくても聞こえるか」
「じゃあ分かったよな。教団の余剰金三億円は、懸賞金に使われたみたいだ」
たしかにそれなら、無礼な誘拐犯に金を出さず、どうせ余っている三億円を有効に活用できる。俺は転がっていた鞄を手繰り寄せた。
「横内ははじめから俺たちを売る気だったんだ。多分、こっちが頼る前から」
横内はきっと、本当はSNSを見ていて、俺たちの事情を知っていた。だから中原から連絡が行っても、面倒ごとだと突っぱねずに、やたらすんなり協力を受け入れた。
教団が俺たちに金を寄越すはずがないことも分かっていたから、トランクの中身が偽物でも驚かない。SNSでおもちゃにされているのは教団だと俺に嘘をついて油断させ、そして携帯を見てしまわないように誘導した。
どれも、彼の計算どおりだったのだ。
「逃げよう。このままここにいたら、教団に突き出される」
ハク様の言葉を思い出す。捕まったら、地下の懺悔室行きだ。
俺の震える拳を一瞥し、ハク様はまた、もそもそと布団にくるまってしまった。俺は彼の布団の端を引っ張る。
「なんで潜っちゃうんだよ。眠いの?」
「いや、このままだと暴れそうだから、一旦心を落ち着かせてる」
再びまん丸になった布団の塊が、答えた。ハク様ってこういう怒り方をするのか……と思っていたら、布団の中からふふふっと不敵な笑い声が洩れ出てきた。
「もう、嬉しくて嬉しくて、心を落ち着かせないと踊り出しちゃうよ」
「え……嬉しい?」
俺は耳を疑った。ハク様がぽんと、顔を出す。
「うん。だってあの大金が動いたんだ」
覗いた顔は、大層ご満悦だった。
「懸賞金ってことは、あの宙ぶらりんの余剰金が動くってことだよ。あの余剰金は、本来信者たちのための、祝福に使うためのお金だ。それが、信者が憎む誘拐犯を捕まえるために役立てられた。素晴らしい。教団が他者に三億円を支払う気になったんだ。神様のために、ね」
そうだった。ハク様は、はじめから三億円が欲しいわけではない。教団が無意味に貯めている怪しい余剰金を使わせて、信仰心を確かめたいだけだった。だから俺が三億円を受け取ろうと、逆に身ぐるみを剥がされようと、どちらでもいい。教団が金を払った、その事実さえあれば、払う相手はどこでもいい。
むしろ教団は、神様を大事に思うからこそ、神様を誘拐した不届き者ではなく、誘拐犯を捕まえた英雄に金を払う結論を出した。これは信仰心にこだわるハク様にとっての、最適解だ。
ハク様は無邪気に頬を綻ばせていた。
「きっと、教祖や他の敬虔な信者たちが、金を出し渋った一部の連中を説き伏せたんだ。身代金という形じゃなくて、懸賞金として、有意義にお金を使おうって。皆、それで納得してくれたんだ。つまり神様は、俺は、ちゃんと信仰されてる」
嬉しそうな囁き声が、俺の顔を強ばらせていく。
「そうか、よかったな」
「うん!」
俺は今まで、なにを錯覚していたのだろう。ハク様と手を組んで、一緒に三億円を目指しているような、そんな気になっていた。最終的な目的は、全く違うのだと、忘れていた。ハク様はずっと、三億円自体はどうでもいい、いらないと言っていたのに、それがなにを意味するのか、やっと理解した気がした。
俺のこの気持ちは、あっさり俺を見捨てたハク様への失望だったのか、それともハク様を過信した自分への失望だったのか。にこにこしているハク様に、怒りの言葉は出てこなかった。
「そうだよな。うん、よかった。じゃあ俺は捕まるわけにはいかないから、逃げるよ」
「あれま。じゃあ懸賞金を手に入れるのは、横内くんじゃなくなるわけね」
「うん。でも懸賞金をかけてる事実に変わりはない。いずれにせよ、誰かが俺とハク様を捕まえれば、三億円は動く」
「だね。あ、そんじゃ加藤くんが逃げて俺だけ残った場合、横内くんはいくら貰えるのかな? 半分? それともご神体を持ってる分、俺のほうが高いのかな」
「知らない」
ひそひそ声で続いた会話を、俺は素っ気なく終わらせた。鞄を肩に引っ掛けて、携帯を突っ込む。
このワンルームを脱出しなくてはならない。窓かベランダから出られるだろうか。靴は玄関だが、取りに行こうとすれば横内がいる扉の向こうへ出ないといけない。ベランダに続くカーテンを開けると、窓の向こうに白い満月が見えた。
そこへガチャリと、扉が開く音がした。振り返ると、携帯を片手に持った横内がいた。
「お、どうした加藤。寝られないのか」
横内が微笑む。俺は、息が止まった。凍りつく俺に、彼は自然体で続けた。
「枕が変わると眠れないタイプだっけ」
「あー、まあ」
自分でも驚くくらい、淡白な声が出た。ハク様はまん丸の布団の中に納まっていて、動かない。
俺はカーテンから手を離し、横内の脇を通り抜けた。
「ちょっと、夜風に当たってくる」
開きっぱなしの扉をくぐって、キッチンのついた短い廊下を越え、玄関で靴を履く。横内もゆっくりついてきた。
「わざわざ鞄を持って?」
「別にいいだろ」
踏み出した部屋の外には、べったりと湿った空気と真夏の闇が広がっていた。薄い灰色の雲がそれに張りついて、星空を霞ませる。それなのに満月だけが煌々と明るくて、眩しかった。
「なあ、加藤」
背後から、落ち着いていて、それでいて少し寂しげな声がした。じゃり、と、砂が擦れる音がする。
「俺、明日からまた仕事がないんだ。だからバイトの最終日に金を運んできてくれて、『ありがとう』って言ったんだ」
月明かりが、緑の畑を照らしている。じゃり、じゃり、と、足音が近づく。薄い雲が暗い空をじりじりと流れる。
「俺も加藤と同じなんだ。金が欲しいんだ。俺がお前にどうしてほしいか、分かるよな。加藤は俺と違って、いい奴だから」
じゃ。足音が止まった。風が、俺と彼の間を吹き抜けた。
「お人よしの加藤には、いつか教えてやらないとと思ってたんだ。いい奴って、つまり、都合のいい奴なんだよ」
俺は、足元を見下ろしていた。会社員時代に出会って、一緒に仕事をして、冗談を言い合ったり軽口を叩いたり、助け合ったり、たまに揉めたりもした。週末に飲みにいったり、休みの日に遊びにいったりもした。社会に出てからの七年の記憶の殆どに、彼の笑顔がある。
俺はやっと、声を搾り出した。
「ありがとう。おかげで少し、休めた」
遠くで虫の声が聞こえる。
「食事にありつけたのも、風呂に入れたのも、周りを警戒しないでひと息つけたのも、他にも、いろいろ。ありがとう」
「加藤」
肩に手が触れた。瞬間、俺はそれを振り払って走り出した。
「加藤!」
静かでのどかな田舎の夜に、横内の声が響く。俺はついに、後ろを振り向けないままだった。




