9話
屋敷の前には池があり,池の中央に垂直翼風車がある.風車の回転を使って攪拌機の回転で真下に渦を作る.攪拌機は抵抗の少ない卵型の形をしており,底と側面に6つずつ穴が開いており,それぞれがT字の穴となっている.L字をひっくり返した部分は遠心力で側面に水を押し出し,下から水を吸い上げる.T字の左端は攪拌機の中心の空洞の管と繋がっており,その空気を水に混ぜて曝気を行う.それらから少し離れた上には大きい網が6つ付いており,表面を泡だてる.渦を使って空気を溶け込ませて微生物の酸素補給を行いつつ,湧昇を起こして酸素と栄養を池全体に拡散させる.水面が揺れているので蚊の産卵を避けることができ,また,アオコを奥へ追いやり遮光を防ぐ.
マイは一室で休息中だ.
「ごめんなさい,体調が悪くて一緒に行けない」
「謝ることはないよ.急がないから,また今度元気な顔を見せてね」
「じゃ,また後で寄る.しっかり休んでくれ」
ジュードとエルサは部屋から出て隣の部屋へ行く.ヴィヴィとジェシカは冷蔵庫に補充し終わり,窓を開けて換気をしている.ジュードとエルサが戻ってきたのを確認してマイの部屋に入った後,30秒ほどして出てきた.4人は家を出た.
玄関から出る際,ジュードは頭上の木になる花に気がついた.深緑の葉に埋もれることなく,エゴノキの白い花が咲いている.
「へえ,花が咲いていたのか.今までずっと雨が多かったから気付かなかった」
少し歩いた後,ジュードとエルサの後ろでジェシカがヴィヴィに尋ねる.
「さっきのジュードの言葉はどういう意味?」
「傘を差したら上が見えないでしょ?それで頭上にあった花には気付かなかったということ」
「ああ,なるほど」
「でもそれだけじゃないと思うんだけどね」
「というと?」
「あれはきっとエルサに向けていった言葉」
ジェシカは前を見る.ジュードとエルサは,時々相手の顔を見るが,基本的に顔を見ずに話ながら歩いている.
「どんなメッセージが?」
「なんとなく想像できる…」
「ええ,まあ」
「あれはきっと,ジュードがエルサにもっと周囲を見るように言ったんだよ.復讐にとりつかれて目の前のことを見なくなった.いや,見えてはいてもそれを形作るものが見えていない.心が見えていない.傘を差して上を見上げることが無ければ,すぐ近くにある花に気付くことがない.そうであってはならない,ということ」
「(あ,そっちか)」
「(なんだか過大評価されている気がする)」
「あっちの並木道を通ろうよ.クローバーの花も綺麗.こっちの木は丸裸で太陽が眩しい」
「ねえ,今度のエルサの意味はどういう意味?」
「太陽は眩しすぎるから,大樹の緑陰のあるところを通りたい.そして,白い花は日陰でより美しく輝いて目立つ.ということは,太陽の光のように明るすぎるのは私には合わない.光に満ちた影のない世界よりも少し闇があるくらいがいい.白い花に自身を例えると,あなたは闇の中で私を見つけることはできても,光の中で私を見つけることはできない」
「へえ,難しい」
「(過大評価されている気がする…).あれ?あれはSCの…」
エルサは屋敷に入る人影を見つけた.
「ファルシオンか.奴らのアジトがあるのか?」
「一般人の家だから勝手に入ると不味いよ」
「そうだな,それじゃあ…いや,やっぱり侵入する」
ジュードたちは壊れて斜めになっている鉄製の門の間から屋敷に入る.常緑樹で外からは奥の建物がほとんど見えない.屋根が少し見える程度である.木には剪定の跡がなく,草はぼうぼうに伸びている.石の敷き詰められた道を通って奥へ進むと建物が見えた.建物はツタが覆い茂って緑に包まれている.中に入るとキイキイと床が音を鳴らし,割れた窓には巨大な蜘蛛の巣がある.
「人の住むところとは思えない.おそらく隠し通路に入るまでは人と会う機会はないだろう」
ジュードは3人の緊張をほぐすために声をかける.
「おや,どなたかな?」
婆さんが奥の暗闇の中から出てきた.
「あ,すみません.迷って入ってしまって」
「フフ…庭をなんとかしないといけないね.まあ,せっかく来たんだからお茶でも飲んでいきなさ…い…」
「?」
ジュードが婆さんの目線を辿る.どうやらエルサを見ているようだ.
「出て行け!全員!すぐに!」
「あの,何か無礼を?」
「早く!」
ジュードたちは気迫に押されて外に飛び出た.
「急にどうしたんだろう?」
「さあ?とりあえずここから離れよう.(マイが居ない以上,いつもより慎重に行かなければ,俺が慎重にならなければ)」
来た道を戻ると,若い女性が倒れている.汚い布を覆い,全身の所々がが煤で黒ずんでいる.
「どうした?大丈夫か?」
ジュードは膝を突いてゆっくりと上半身を起こす.顔や肌が見る見るうちに変色し,女性と布だったものは透明なゼリーのようなものになった.直後にジュードたちの上にうっすらと影ができ,気付いたときには遅く,4人は巨大な鮟鱇に食われた.鮟鱇は隠れる必要もなくなったので姿を現す.そのまま悠々と泳いで屋敷に入った.
「う…」
ジュードは石畳の床の上で目覚めた.高い位置に窓があり,それ以外は煉瓦で包まれた小さな塔の中に居るようだ.近くにはヴィヴィとジェシカがいる.声をかけたりゆすったりして2人の目を覚まさせる.
「どうやら捕まったみたいだ.さっきのが罠で使い魔の能力だろう,提灯鮟鱇のような奴だ.エルサはどこだ?」
「ここにはいないようだし,あの扉の向こうかな?」
ジェシカは鉄格子の扉を指差す.ジュードは奥の部屋を見たが,L字型になっていて奥が見えない.
「通路のようだ.この先に居るかもしれない」
ある部屋ではエルサは台の上で両腕と両足を手錠に掛けられて仰向けに寝かされていた.机の上には本があり,老婆がページをめくっている.
「あなたは誰?私をどうするつもり?」
「私はSRのクレイモア.とはいえ,それはもうお終い」
「何を…」
「あの子が死ぬ理由なんて何一つない,レイを返して下さい.お願いします」
老婆はエルサを見て騒ぎ出す.
「あの子はこの世界の宝,人類の宝,私の大切な娘,レイを返して下さい.お願いします.あの子は優しい子,人の苦しみを共感でき,理解し,それを他者に向けようなどと思いつかない子,相手が誰であろうとそれは変わらない.とても優しい子,レイを返して下さい.お願いします.あの子はピアノを上手に弾いて,本当に色んな音色を出すの.安心,恐れ,怒り,喜び,耽美,無邪気,酔い,生きていれば,もっと多くの経験をして,もっと多くの表現を編み出して,同じ思いを持つ人たちの希望となって世界を導いていたはず.あの子はもっと多くの世界を知って,多くの人と出会って,いい人と恋に落ちて,幸せな刻を過ごしていたでしょうね.レイを返して下さい.お願いします.あの子はリーダーという器ではないかもしれない.厳しさや容赦の無さが足りない.リーダーは少数でいいけど,それ以外ならたくさんいてもいいはず.レイを返して下さい.お願いします」
「私にお願いなんかしてどうしろっていうの?」
「あなたに言ってないわ.これは誓い」
「え?」
「神は願いを叶えてくれる存在じゃないもの.大体10年前によく分かったわ.願いを叶えるには人が自分で行動しなければならない.あなたには恨みはないんだけど…ごめんなさいね.あなたを生贄にして,アカシックレコードからレイをインストールする.レイよりちょっとだけ背が低くて,バストとヒップがちょっと大きい,目の色はちょっと濃い…だけど,後は大体同じでこの程度の差なら許容可能なはずよ」
「何を…」
「色んな動物や人で試したけどダメね.蘇らなかった.きっと体格が違うのね.あなたなら大丈夫なはず」
「動物で動物を蘇らせたりは…」
「ああ!考えたことも無かった…でももう待ちきれない.これで眠ってなさい」
クレイモアは石版のタブレットで何かを検索し,指先でエルサの頭を軽くこつんと叩く.エルサは急激な睡魔に襲われ,眠りについた.
「今のは黒魔術.これができるなら,転生も成功する!」
クレイモアは声に出して発破をかけて儀式を始めた.本を片手に呪文の詠唱し,魔法陣がエルサの上空に現れる.魔法陣はゆっくりと開店し,一直線にマークが揃うように向かって動く..
「これで帰ってくる.待っているよ私の愛しい子.もう決して怖い思いはさせない!」
シェイドが扉を壊してジュードたちが儀式の部屋に入る.
「エルサ!」
エルサは壁にもたれて座り込み,髪で顔が隠れている.ジュードが引き上げる間に,ヴィヴィとジェシカと使い魔であるナインとウィンはクレイモアの前に立ちふさがる.髪を分けると頬に手形がある.
「おい婆さん,彼女に何をした?」
「違う…こんなのじゃない…レイはそんなのじゃない!」
クレイモアはナイフを取り出して走る.ナインの作り出した透明な壁に当たって跳ね返る.
「何よこれ?…ああ,あんたたちは誰?いつからそこに?」
「何を言っている…」
「お母さん,落ち着いて…」
「黙れ紛い物が!その目で,その声で,私を呼ぶな!」
「どういうことだ?」
ジュードは何がなんだか分からずに,次の指示に悩んでいる.エルサ?がジュードに離しかける.
「私はレイ.この人の体を借りて出てきた人格.あの人の娘でした」
「でした…え?どういうこと?しかし紛い物…?」
「私は記号的にはレイだけど,あの人の記憶と妄想の中にいるレイとは違う人物なのです」
「理解に必要なピースが欠けているような…俺は一体どうすればいい?」
「出て来いリードフィッシャー」
クレイモアは指輪の真珠から使い魔を呼び出す.大きな口を持ち,ぬるっとした肌を持つ巨大な鮟鱇が飛び出す.目は陥没しており,口には尖った歯が無数にある.
「次はお前達全員が生贄だ.リード,目くらましだ」
「待て,クレイモア!」
上の窓からファルシオンと使い魔のクレナイが降りてくる.
「何だ,まだいたの.邪魔をしないで」
「何をするつもりだ」
「彼らを供物にする」
「だめだ」
「引っ込んでいろ」
「なっ…」
リードが回転し,クレナイとファルシオンを後方に吹き飛ばす.
「お前,こいつらを知っているのか?ガーディアンズだぞ」
「ああそうなの.いいじゃない別に」
リードは提灯の先から強烈な光を放ち,使い魔たちの目が眩んだ隙に体当たりでナインを吹き飛ばし,エルサ目掛けて飛び跳ねる.ジュードはエルサを引き寄せ,ドアへ向かう.
「おっと,だからといって逃げられるのも困る」
ファルシオンの声でドアの前の床からクレナイが現れる.
「ジェシカ,そっちは頼む.こっちは俺が相手をする」
「シェイド一体では勝負にならないぞ.エルサ,なぜ使い魔を出さない?……まさか」
「シェイド,力を見せてやれ」
シェイドは杖で地面を突き,衝撃波を飛ばす.クレナイには当たらなかった.地面に付いていたと思われた部分は空洞だった.
「何?何が起きているの?」
「(ジェシカの使い魔がリードと戦っているならすぐに決着はつくまい)クレナイ,焦る必要は無い,確実にやれ」
クレナイの両手が光り,S字を描くように内から外へ手を動かす.軌跡上の空中に浮かぶ水球が現れる.水球同士で水滴を飛ばし合い,網のように形作っている.シェイドは腕を大きく動かし,杖を左下から頭上を通って右下に動かす.それによってクレナイがシェイドの頭上に仕掛けた透明な手を押しのける.体の重心を前に移しつつ,杖の柄に近い方を左手で持ち,右肘を曲げて右腕を前に押し出し離して前に走り出す.杖を右下から左上に振り払い,杖の先に纏った風で水を吹き飛ばし,勢いに乗せて杖を後ろへ振りつつ,地面に突き刺し,両手で掴んで蹴りを入れる.右上からの振り下ろし攻撃に構えて右手を上げたクレナイの虚を突き,クレナイは後ろに吹っ飛び壁に打たれる.シェイドを支える杖が傾き,シェイドは転がって受身を取る.
クレナイは左手を前に突き出して手の先に氷を作り出し,氷塊を飛ばす.シェイドはジグザグに走り,杖を拾い上げ炎の渦を呼び出してクレナイに向けて動かす.シェイドは杖を水平に両手で持ち,クレナイの攻撃に構える.炎の渦は壁に当たり消える.クレナイの跡は無い.
「チッ隠れやがって.リーダーの癖にこそこそと下っ端みたいに」
「面白いことを言う.君の使い魔はリーダーらしく戦ってくれるんだね」
シェイドの足元がひび割れ,シェイドは後ろに跳ぶ.棘のついた木の幹が伸びる.跳んだ先とその周囲もひび割れ,シェイドは左手を杖から離し,柄を地面に突き立てる.黒い影が木を縛り,地面に抑えつける.シェイドは目を左に向け,左手人差し指の先から光線を飛ばす.クレナイの光線の威力を抑え,耐え抜いた後に左へ120度程回転し,杖を突き出した右腕を左手で支えつつ,杖の先から重力波を飛ばす.クレナイはオーラを纏った両腕を前方にクロスさせ,攻撃を受ける.
「やるじゃないか,だが有効打になりえない.この応酬を繰り返して君の使い魔は一体いつまで持つかな?」
「いや,間もなく終わるだろう」
エルサの体が震えだす.
「あっ小娘,何をしている!」
クレイモアはヴィヴィに近づき,本を取り上げようとするが,ナインのサイコキネシスで阻まれる.ヴィヴィは今を読み,石版に触れて虚空を眺めつつブツブツ呟いている.
「また消えるようね…さようならお母さん.そして…」
レイは胸に手を当てて目を閉じる.
「エルサ,迷惑をかけてごめんなさい.すぐに出て行くから」
エルサの震えが収まり,ふらっと倒れそうなところをジュードが支える.
「ジュード…やっと会えた…」
「全て終わりだ.エルサは帰ってきた」
「クレイモアは不愉快なようだが,ちょうどいい.どうやって元に戻そうか悩んでいたところだ」
「クレイモア,人の心身でありながらレコードに手を加えたことは許されない.レコードはあなたを裁く」
クレイモアは蒸発して消滅した.
「もうここには用は無い.脱出するぞヴィヴィ,ジェシカ」
ジュードはエルサを背負う.ウィンの羽が輝き,光線を作り出して壁を溶かして穴を開ける.シェイドがクレナイを抑えつけている間にジュードたちは脱出し,最後にシェイドをバッジに戻した.
ガーディアンズの隠れ家.エルサがベッドに座ってぼーっとしている.ジュードが別室で報告を終えて戻ってきた.
「大丈夫かエルサ?」
「うん…,少し目が回るけど,おとなしくしていれば平気…」
「ヴィヴィ,どうだ?」
「もう戻った.後は混濁したものを整理するだけ.要するに寝てればいい」
「そうか.じゃあお休みエルサ」
ジュードはエルサの肩を右腕で抱えてゆっくりと下ろす.右腕を間から引き抜いて布団を被せる.
「ヴィヴィ,マイは隣の部屋で寝ているから起きたら伝えてやってくれ」
「分かった」
「やっと会えただなんて…(時が長く感じるような辛い思いを…)」
「あ,多分ジュードの想像しているのと違う.ぼんやりとだけど,ジュードに会えない悲しみを感じた気がする.見た夢がそれだったんだと思う,多分」
「目を開ければまた会える.安心して眠ってくれ」
エルサは目を閉じて眠りに就いた.
「さて,俺とジェシカは外に出て見回りだ」
「ここで待たなくていいの?」
「ここで守るんじゃ意味がないんだ.この家を守ることが必要なんだ」
「そう言うのなら…」
ジュードとジェシカは外に出た.太陽はまだ高く昇っている.




