第二章 ものさしと緑(1)
――教団聖暦八百二十三年――
満月の明かりを背にオーダは冷めた茶を飲みながら領内からの報告書と対峙している。このままだと数年もすれば領民が飢える、報告書の数字はそう示していた。領館の執務室で、毎日のように目を通している報告書ではあったが、数値の違和感に気づき、精査を始めて数日が過ぎた。数値を何度見直しても結果は変わらない。何度計算しても答えは同じだった。それでも未来を変えることはできるかもしれない。
あれから数十年。領民の多くが数を数えられるようになった。町や村ごとの頭がそれをまとめ、リテアの手で報告書になってオーダの机へ積み上げるようになった。喜ばしいことだが、数字は不安も運んでくるようになった。それでも不安が見えるようになったのは大きい。
領民が不衛生で命を落とすことが減り、領内の人口はこれまでにないくらいの隆盛を誇っている。それを見越して行っていた新規農地の開拓事業は芳しくない。アペルティア領の東部には広大な荒れ地が控えているが、土が悪いのか何を植えても育たない。オーダは手詰まりを感じていた。満月を見ながら冷めた茶を飲み干し、少しだけ目を閉じることにした。
「……オーダ様、オーダ様……」
十五代目を襲名した霜髪のヴィルが遠慮がちにオーダに声をかける。どうやらすっかり眠っていたようだ。
「お目覚めになられたようですね。少々風変わりな来客を待たせておりますので、顔を洗ってから応接間へお越し下さい」
「……わかった、ありがとう。応接間だな」
まだ少し寝ぼけているため、井戸から水を汲み、冷たい水と石鹸で顔を洗う。アペルティア製石鹸は今やカリデア国内で引っ張りだこだ。当初教団は嫌な顔をしていたが、なし崩し的に普及してしまえばこっちのものだ。石鹸工房の拡張も視野に入れねばならん……そう思いながら、すっきりした面持ちで応接間へ向かう。客人と一緒に十代目リテア、ヴィルが待っていた。リテアはこの地生まれにしては珍しく黒髪黒目が特徴的だ。
「お待たせした。私が領主のオーダだ」
「東の関所で『領主に会わせて欲しい』と妙な依頼をする隊商の一員がおりましたので、私の一存で連れて参りました」
二十代目境務官アルコが耳元でささやく。
「荷も改めましたが、刃物らしい刃物は腰の小刀だけ。妙だったのは、木箱と板切れを馬より大事そうに抱えていたことです。追い返すより、まずオーダさまの目で見ておくべきと判断しました」
「オーダさん、はじめまして。ようやくこの地へ戻ってまいりました。私の先祖がこのアペルティアを旅立ってから、私で三代目になります。マキト・サカタの孫、ダリオと申します」
東方隊商の人々と同じような衣装に身を包んだ、ダリオという中年男性が自己紹介してきた。
「時間がありましたので、書庫で調べておきました。七代目リテアの記録にありました。なんでも『イセカイなのにジャガイモがない』とそれは大層憤慨なさっていたご様子です」
リテアがメガネの鎖をくるくると指で触りながら、紙縒りで綴った書類片手に補足説明した。
「ダリオといったな。よくぞ帰還してきた。我々は歓迎する。しばらくこの館に滞在するといい」
「オーダさん、私が東方隊商から離れて真っ先にここに来たのには理由があります。お屋敷の入り口にモノがありますので、それを見ながらお話させていただけませんか?」
「構わんよ。では玄関へ向かうとしよう」
一同は領館玄関へと向かった。大きな麻袋が四つと、膝くらいまでの大きさの木箱が一つ、木の板が数枚置かれていた。
「それでは、初公開といきましょう。これが『ジャガイモ』です」
ダリオはそう言いながら木箱の蓋を開けた。中にはぎっしりと土まみれのジャガイモが詰まっている。
「ほう。このゴロゴロしたものがジャガイモ……つまり何なのだ?」
「これは地中で育つ作物です。穂を実らせる麦とは違い、土の下に食える塊を作ります。煮炊きにも向いてます。うまく根づけば、痩せた土地からでも腹を満たす助けになります」
オーダは最後の『痩せた土地』『腹を満たす』に反応した。
「つまり、これは育てて食えるものなのか。実に僥倖。ダリオよ、早速これを植え付けてみないか? 土地なら多少は工面しよう。人足もだ。悪い話ではなかろう」
「ええ、私もそのつもりで、はるばる東方から、決死の覚悟でこの地へやってきたわけですから。できることならそうしたいです」
「『できることなら』と申したか。どういうことだ?」
「ええ、実は先代……私の父からは、育て方を直接教わっておりません。祖父からの『書き付け』だけが残っている状態なのです」
「なるほど。逆を言えばその書き付けが読めればよいのだな。リテア、ヴィル、アルコ読めるか?」
「どれどれ……これは東方隊商が使う文字ではありませんな……」
「関所改めからの報告から上がってくる署名名簿でも見覚えはありませんね」
「……アーカイブで似た文字を見た記憶がありますが……すみません、私では読めないようです」
「……すみません、東方の戦乱に私の父が巻き込まれなければこんな事にはならなかったのですが……私が知るのは『これらを日差しに当ててはならない』だけです」
「出来ぬ事を悔いても仕方ない。ダリオも長旅で疲れているだろう。しばらくはこの屋敷でゆっくりして旅の疲れを癒やすが良い」
「ありがとうございます。路銀も使い果たしていましたので、お言葉に甘えさせていただきます」
ダリオは食客として領館に逗留することになった。その間、ヴィルは行商人を捕まえては書き付けが読める人間を探し、アルコは東西の関所で似た文字を探し、リテアはアーカイブに籠もりっきりで書き付けの解読に挑戦しているようだった。
時は過ぎ、新月の夜。深夜、人気もまばらな領館で、ダリオはふかふかなベッドで寝付けないでいた。領館の人に聞いたところによれば、今夜は宗教的禁忌で出歩かないのだそうだ。なのに用事があると明言していたオーダを少し訝かしんでいる。広間の方が少し騒がしくなった。
「誰か館の者は居るか。茶を淹れろ。客人だ。応接間に頼む」
オーダの声が響き渡る。禁忌の夜に客人? ダリオはいても立ってもいられなくなり、応接間へと向かった。
応接間には不思議な衣装を纏った黒髪黒目の女性。二十代半ばといったところか。それとオーダ、ヴィル、リテア、アルコが居た。
「すみません、お邪魔しましたかね。なんか話し声が聞こえたもんで……」
ダリオは後ずさりして応接間を後にしようとすると、オーダから予想外な声をかけられた。
「ダリオもこの場にいるべきだろう。座りたまえ」
意味も分からず着席する。ヴィルが湯気の立つお茶を持って来てくれた。
「こちらダリオ、半月ほど前にはるばる東方から帰還したばかりだ」
「……はじめまして、私はノリコと言います」
「どうも。私はダリオ・サカタと申します」
「……サカタ? ニホンから来られたのですか?」
「いえ? 私の祖父はこのアペルティア出身でして、ニホンという地は東方でも聞いたことがありませんな……」
「……そうでしたか……」
「今、『ニホン』と仰いましたか? たしか八代目の記録に……オーダ様、少し中座してよろしいですか?」
リテアが顔色を変えてオーダに訴えかける。
「構わん。それまで茶でも喫していよう。今夜は冷えるからな。それと七代目の記録も頼む」
しばらくしてリテアが紙縒りで綴った書類の束を持って来た。
「ここです、ここ。八代目の記録にあります。八代目の時代、シズクとカズオが居た世界も『ニホン』でした。そして驚かないでくださいね、ダリオさん。あなたのご先祖様、マキト・サカタも『ニホン』からでした」
「すごい巡り合わせだな。目の前にいるノリコもダリオも『ニホン』に縁のあるものか」
「ちょっとまってください。話に全く追いつけません。最初から説明してもらってよろしいですか」
ダリオが立って遮る。オーダは念のために室内を見渡し、説明する。
「……では部外者も居ないことだし、単刀直入に言おう。このカリデア国アペルティア領では新月の夜に、そこのノリコのように迷子が現れる時がある。毎月捜索しており、長年空振りだったのだが、今夜久しぶりに保護できたのがノリコなのだ」
「それが私と何の関係が?」
「ダリオよ。お前の祖先、マキト・サカタもこうして新月にこの領に現れた迷子だ」
オーダは七代目リテアの記録に目を通しながら告げる。
「そして、ノリコもマキトもニホンという同じ出身地らしいということが分かった」
「ちょ、ちょっとまってください……私は根っからのアペルティアの人間ではなかったのですか。稀人の孫だったのですか……」
「……私はその稀人になったんですね……けど、元いた世界に未練もありませんから……」
ノリコとダリオがうっすら事実に気づいて、足下が崩れ去っていくのを感じている所に、オーダがトドメを刺す。
「ノリコには気の毒だが、元いた世界に戻る術は無いと考えてもらって結構だ。しばらくこの館でゆっくりするといい」
オーダは茶を飲み終えて、二人に微笑んだ。
翌朝。ノリコは、自分がどこで眠っていたのかを思い出すまでに少し時間がかかった。見慣れぬ天井と寝台。肌触りの良い毛布。窓の外からは鳥の声が聞こえる。夢であってくれと思ったが、夢にしては寝具が妙に重く、昨夜飲んだ茶の渋みがまだ口の中に残っていた。ゆっくり身を起こす。帰れない。昨夜、あの領主は確かにそう言った。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。お目覚めでしたら、朝餉の用意ができております」
昨晩ヴィルと呼ばれていた霜髪の紳士にそう声をかけられた。聞き慣れぬ言葉なのに、意味は不思議と分かった。昨夜からずっとそうだ。夢のくせに、嫌に丁寧で、嫌に具体的だ。ノリコは短く返事をして、身支度もそこそこに部屋を出た。
食堂はオーダに加えて、無言で書類と向き合っているリテア、行儀良く食事を待っているアルコ。昨晩ほとんど言葉を交わさなかったダリオという男が座っていた。何を話せば良いのか分からない。朝ご飯も喉を通った気もしなかった。
食後のお茶でオーダは木の板をテーブル越しに渡してきた。
「ノリコよ、この板に書かれた文字が読めるか? 我らにはどうにもできなかった代物だ……」
木の板には文字が書かれている。
「……はい、読めますが、これがどうかしましたか?」
オーダとリテア、ダリオ、皆の目の色が変わった。
「そこには何と書いてある?」
「具体的に言うと、ジャガイモの植え方ですね。私の居た世界の人間なら誰でも読めると思います」
一同が沸き立つ。
「ノリコさん、それ、端からゆっくり読み上げていただけますか?」
リテアが新しい紙を用意して、筆をインク壺に浸けながら言う。
ダリオがジャガイモと共に持ち帰った木の板には、種芋の選別方法、芽出し、切り口の処理、植え付け方法、芽かき、土寄せ……全ての手順が丁寧に網羅されていた。ダリオは先祖と対話しているような、なんとも言えない気分に浸っている。
「リテアよ、手順の書き写しは終わったか」
「はい。漏れなく記載しました。『土寄せ』をしないとジャガイモが緑色になって毒を持つなんて……これ本当に食べ物なんですか? それと幾つか意味の分からない単語がありました」
「えっ。分からない単語ってどれですか?」
「メートルとセンチです。これは何ですか?」
「!? メートルもセンチも長さの単位です。ちょっと待ってください。この世界では『長さの決まり』って何かあるんですか?」
「例えば大工には大工それぞれの『ものさし』があるそうだ。大工が複数揃う現場ではまず顔合わせのあとに、ものさしの長さを揃えるところから、と聞いたことがある。皆自分の背丈や両手を広げた時の幅、指幅などいろいろなものさしで仕事しておるよ」
ノリコは心底驚いている。この世界にはメートル法はおろか、憎むべきヤードポンド法すら無い。長さの決まりそのものが存在しないのだ。耐えがたい常識だった。
「ジャガイモのことは一旦置いておいて、『長さ』の話をしませんか? 皆さんこれからジャガイモを植えるんだと思いますが、その『手順書』通りに植えたいと思いませんか?」
「たしかにそうだな……しかし長さを定めると言ってもどうする? 木は乾くと縮むし反る。鉄も簡単に曲がる。そもそも何を基準にすればよい?」
「今までは腕の長さとか指の幅とか、人によって違うものを基準にしていたんですよね。でもそれだと、作業する人が違うたびに畑の幅も、溝の深さも変わってしまう。だから、誰が測っても同じになる長さを一つ決めましょう」
「つまり、不変なものを基準にするのか……」
一同はうーんと声を上げたきり、止まってしまった。
「長さの基準の話は一旦私が預かる。皆何か良い物があれば教えてくれ。それにしてもジャガイモというのは素晴らしいな。土が凍らない時期であれば、春先と晩夏に植えられるというのも驚きだ。とはいえ真偽の程は実際に植えてみるしか無かろう。早速農地の選定と人足の手配をしよう。ヴィルは居るな」
「はい、こちらに」
「今は春なので都合が良い。早速植える準備といこう。領の東西南北では気候が異なるから、それぞれの地域で畑と農家の手配を頼む。ジャガイモが植え付け可能になるまではこの領館で作業するとしよう」
「それと今回は種芋といったか、それと合わせて木製のものさしを配ろう」
「それなら私にお手伝いさせてくれませんか」
ノリコが割り込んでくる。
「ものさしを揃えることがいかに大切なのか、実践させてください」
翌日、近隣の大工と農夫、石工がそれぞれ数名呼び出され、領館の庭園に勢揃いした。いかにオーダの治世が良くとも、いきなりの招集に皆は何かを勘ぐっているようで戸惑っている。
「皆仕事の忙しい中呼び出してすまない。ただ皆の仕事ぶりを領主として改めて知りたくて来てもらったのだ。続きはこのノリコに従ってくれ」
オーダが安堵させるように声をかける。ノリコが少し緊張した声で依頼を始める。
「皆さんお集まりいただきありがとうございます。私は皆さんのお仕事道具に興味がありまして、今回お見せいただければと思っています。そちらの大工の方、普段はどういった方法で板の長さを割り出していますか?」
「それならこの棒を軸にやっておるよ。ワシの両手の幅ちょうどの長さの棒だ」
「お隣の大工の方は如何ですか?」
「俺も同じだな。それがどうかしたか?」
「ではお二人の棒を並べてみてください」
当然二人の腕幅は異なるので棒の長さが揃わない。同じ要領で農夫や石工が使っている縄の長さもまちまちだ。
「……なるほど。気がついたこともなかったが、皆これで同じ建物を建てたりしていたのか……」
「そういうときはだいたい最後に現場合わせですよ、領主さま」
「なるほど。わかった。それでノリコよ、これからどうする」
「これはヴィルさんによれば数年寝かせた『よく乾いた』木の棒です。なるべく同じ長さに切りそろえた紐もあります。皆さんのぶんを用意しました。当面はこの棒を基準にお仕事をしていただけますか?」
職人の皆から若干の不満が出る。やはり愛着ある道具を手放すのは是としないらしい。みかねたオーダが声をかける。
「これは私からの願いだ。これ以上不満が出るようであれば、やりたくは無いが『触れ』という形で改めて依頼することになる。ただしこれも仮だ。後日あらためて公定の元を定める」
職人たちは渋々だが納得したようだ。職能組合で同業者に展開する手筈まで整った。リテアは事の顛末を面白がって記録していた。
庭園の日当たりが良いところで、ジャガイモの芽出し作業をしていたダリオが言う。
「ジャガイモのためにこんな大ごとになってきて、何だか申し訳ないな……」
オーダはこう返した。
「必要であれば何度だってやる。いざとなれば領主という権力も存分に使う。これが私なりの『政治』だ」
これから数日後、芽出しを終えた種芋と物差しとなる紐が東西南北、それぞれの畑へ届けられ、ジャガイモの作付けが始まった。ジャガイモの生育途中、オーダらは東西南北、それぞれの試験農場に足を運び、揃えたものさしを手に、植え付け間隔や土寄せの方法を細やかに指導して回った。
——三ヶ月後——
アペルティア領東西南北地域それぞれの「ジャガイモ試験農場」から株ごとの取れ高と収穫物が届いた。収穫物の半分はそれぞれの試験農場に残し、次の季節まで冷暗所へ寝かせることになった。次回は作付け面積を倍増させて試験する手筈となっている。
領館の台所ではノリコが大量のジャガイモを前に料理の準備を行っている。ここでは唯一のジャガイモ経験者として、厨房の料理人を差し置いてオーダにご指名されてしまったのだ。
輸送の都合で青くなってしまった芋は次回の種芋に回し、食べられるものは良く洗い土を落として芽を削って、とりあえず蒸かすことにした。大量の油や酢に卵、胡椒が手に入れば話は変わっただろうが、今は蒸かして塩を振るくらいしか思いつかない。
食堂で試食が行われた。オーダが真っ先に手を付けて、あちちと言いながら頬張る。
「美味い。これがジャガイモか。皆も食うといい。……見ての通り私は元気だぞ。今のところ毒は無いようだ」
「では、私もいただきます。ご先祖さまが渇望したジャガイモか……美味いですね。これは濃い味付けが良さそうだ」
「私にとってはもう懐かしい味ですね。久しぶりのお芋は美味しいです。本当は揚げたり、潰してマヨネーズと和えたかったのですが……」
「腹にたまる感じが実に良いですね。前線の糧食になり得るかもしれません。検討せねば」
リテアは各々が食べる様子と発言を記録しながらも、懐疑的な眼差しで皆を見つめている。
「本当になんともないんですか……? 私には夫も子もおりますので、ここで死ぬわけにはいかないんですが……」
リテアも恐る恐る、小さめな芋を手に取り一口食べる。
「あら、美味しい……」
ヴィルは無言で行儀良く食べ続けている。かなり気に入ってるようだ。オーダは口元を拭いながら取れ高の報告書に目を通す。
「……なるほど……荒れ地で何も根付かなかった東部での収量がずば抜けている。逆に西部の湿地帯や北部の寒冷地帯は芳しくない。南部はまあまあと言ったところか。東部開拓の軸が決まったな」
「ジャガイモの試食結果は『大変に美味である』と記録せよ。これは領民に広めるべきだ。ただ、これまでの農業を否定しないよう、まずは空き地と東の荒れ地で奨励する。麦を捨ててはならん。そういう心づもりでいるように伝えよ」
その日から領館の食事には、ジャガイモ料理が一品追加されるようになった。




