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第二章 ものさしと緑(2)

 ジャガイモの作付けはアペルティア領内で野火のように広がった。最初は領館周辺と東部の荒れ地。次の季節に街道筋の村へ。アペルティア領内全土で栽培されるようになるまでさほど時間はかからなかった。


 領主自ら奨励したこともあり、皆ジャガイモを育て、食べていた。様々な料理法が「発明」されていった。暖炉の残り火で蒸し焼きに。麦やカブ、タマネギ、香草と一緒に煮込んだポタージュに。蒸かして潰してペースト状にして。ジャガイモを細切りにして少量の獣脂で揚げ焼きにして塩を振って……。揚げ焼きレシピはノリコがどうしても食べたくなったと、領館の台所を借り、豚の脂で揚げたものだ。今では領館一番の人気献立だ。


 オーダは執務室で各地からの農産物報告書に目を通していた。食糧事情は緩やかではあるが改善されつつある。まだ飢えとは背中合わせであるものの、危機的状況からは免れそうな勢いだ。


 明かり取りの窓から差し込む月光。今夜は満月だ。オーダは目を細めて南天の空に輝く丸い光を眺めながら茶を啜る。胸の内もまた満ちている。ただ、月は当たり前のように欠ける。このジャガイモ頼みの現状にもいつか陰りが見えてくるだろう、それまでに次の手を打たねばならない。


 ダリオはジャガイモだけでなく、いくつもの種子を持ち帰ってきていた。トウモロコシ、ダイズ、アブラナ、ヒマワリ、ラッカセイ、アルファルファ。どれも袋の中で土にまみれている。運ぶ途中で雑に扱われたのか、それとも敢えて土ごと持たせたのか。ともあれ、種にはそれぞれ育て方の書き付けが添えられており、ノリコの助けで翻訳も済んでいる。例によって種は東西南北の試験農場へ送られ、それぞれの土地で育てられることになった。


 結論から言えばダイズとアルファルファ、ラッカセイは芽こそ出るものの、どうにも勢いが鈍かった。葉色も冴えず、収量もイマイチである。何かが足りないのだ。それでも植え付ける畑を変えるなどして、生育試験を続けることにした。


「水もきちんとやってますし、日当たりだって良好なんですけどね……」


 ダリオはぼやいている。


 トウモロコシ、アブラナ、ヒマワリはジャガイモに劣らず優秀な作物だった。トウモロコシは乾燥させると長期保存に耐えられるし、茎は牛馬の餌にもなった。アブラナは若いうちは菜として食卓を彩り、そこから成長したら種が大量に採れる。ヒマワリもまた驚くほどよく実った。


 ダリオが持ち帰った書き付けによればアブラナとヒマワリの種からは油が絞れるとのことだったが、領内既存の技術、機械ではどうにもできず、大枚はたいて南方領から搾油機を幾つか取り寄せて、主要な村へ優先して配備した。当然利用税など取らない。


 種を砕き、軽く温め、布で包んで圧せば、黄金色の油がじわりと滲み出る。動物由来ではない植物性の油脂だ。常温でも固まらず、獣脂のような臭みもない。また、ヒマワリの絞りかすは牛がよく食いつき、乳が太くなった。ヒマワリの茎もよく乾かせば焚き付けに利用でき、まさに捨てるところがない。


 細切りジャガイモを植物油で揚げ焼きにし、領内名産の岩塩を砕いて散らすと、獣脂で揚げたときよりも口触りが軽くなる。フライドポテトの誕生である。領内では瞬く間に大人気レシピとなり、ほどなく領都と街道筋の宿ではアペルティア名物として供されはじめた。気づけば領内にジャガイモは浸透しきっていた。


 ただし植物油はまだ貴重なため、フライドポテトも今は未だハレの日の料理である。領民達も僅かながら体型がふっくらしてきた。領都の鍛冶屋では搾油機の複製品、改良品の開発に余念が無い。いずれもっと効率の良い搾油機が生み出されるだろう。


 ——そしてノリコの夜から幾度目かの新月の夜——


 オーダとアルコがまた()()を保護してきた。領館応接室でいつも通り茶を飲みながらこの世界についての説明をオーダが行う。


「そうかい……。まあ、現実として受け入れるよ」


 金髪碧眼、年の頃は三十代半ばといった青年はクレイと名乗った。首筋が妙に日焼けしており、爪には土が残っている。


 翌朝、起こされ食堂につれてこられたクレイは食卓の賑わいに少し驚いた。粗末なパン粥ではない。トウモロコシ粉が香る焼きたてのパン、ジャガイモ、塩気の利いた茹で豚肉がある。少なくとも、自分の知る「中世ヨーロッパ風異世界」よりはだいぶましだ。食後には茶まであるという。茶を飲みながらオーダたちは悩みの種であるダイズ、ラッカセイ、アルファルファを話題にした。生育状態が今一つであるらしい。


 クレイは逡巡したのち、声をあげる。


「そのマメ科の作物、根は見たのか?」


「……根?」


「瘤がついてなきゃ、そいつらはただの草だ。土を肥やす相方がいない。根も見ずに育たんと言ってたのか」


 オーダたちは顔を見合わせた。誰も、マメの根を掘って確かめようとはしていなかった。


「クレイは作物に詳しいのか。その力是非この領で発揮させてみては頂けんだろうか?」


 オーダ一行は領館そばの「試験農場」へと足を運んだ。クレイは早速ぶちぶちとダイズ、ラッカセイ、アルファルファを引っこ抜き始める。ダリオは頭を抱えている。


「ほら、見なよ。根が痩せてる。こいつらマメ科は根に瘤がないとダメなんだ」


「ではどうやれば瘤をつけることができるのだ?」


「長い話になるけどいいか? ここはアペルティアといったか。アペルティア内で野生のクローバーや野エンドウがよく育っている土地に見覚えはあるか? それとこれらの種が入ってた袋に入ってた土とか。そういう土を集めて来るんだ」


「クローバーとは何だね」


「そこからかよ……白い花を付ける三つ葉の草。地面に這うように広がって生えてる。春先にあちこちに生えてないか? 冬を越したらまた生えてくるしぶとい植物だ」


「それなら心当たりがあります、こういうのは子どもが詳しいですから。すみません、息子を呼んできて宜しいですか?」


 リテアが中座の承認を求めてきた。


「ああ、構わんよ。ただ急ぎで頼む」


 リテアは小走りに領館へ向かっていった。程なくしてまだ少年と言って良い黒髪黒目の若者と共に帰ってきた。


「はじめまして。十代目リテアの息子、カラム・ライトと申します。カラムとお呼びください」


 カラムはぺこりと一同に挨拶した。


「早速だがカラム、クローバーという野草を知って居るか。白い花を付ける三つ葉の草で……」


「『地面に這うように広がって生えてる』」


 クレイは二度と言わせるなと言わんばかりに言葉を継いだ。


「それなら川の土手でみたことあります。それがどうかしましたか?」


「すまないがそこへ案内して貰えるか?」


 カラムが先導して土手を駆け下りる。一面白い花畑だ。


「クローバーってきっとこれですよね。道すがらにお話を聞いた野エンドウもきっとこれ。小さいけど鞘がついてます」


 クレイはおもむろにクローバーを一株引っこ抜く。


「お、ビンゴ~。ほら、この根には瘤がついてるだろ? この瘤が生育に必要なのさ」


 一同はクローバーと野エンドウを何株か引き抜き、瘤つきのものを持ち帰った。


「クレイよ、これからどうする?」


「よし。じゃあ今からやることをよく見てろよ」


 クレイは持ち帰ったクローバーの根から瘤を取り外して、指で潰して、皆に見せる。


「……クレイよ、その指先の汁。どういう意味だ。少し説明してくれると助かるのだが……」


「めんどくせえな…… クローバーの根についてるこの瘤。この瘤の中にはクローバーの成長に欠かせない菌……つっても伝わらねーか、『見えない力』があるんだよ」


「ほう。疫病のときにも聞いたぞ。『見えない力』か」


「その見えない力は病気と一緒で移せはする。だが当たるとは限らねえ」


「なるほど。では今その見えない力がうまく乗り移れば、ダイズたちは次からよく育つ、ということだな?」


「そんな都合いい話はねぇよ。ダイズにはダイズの、ラッカセイにはラッカセイの『見えない相方』がある。それでも、ってんなら、そこのおっさん、ダリオっていったっけ。さっきのクローバーと野エンドウの場所は覚えてるな?」


「はい、まあ」


「クローバーや野エンドウが生えてた所の土を持ち帰ってきてくれ。そしてこの畑の土と混ぜてみる。まずは半分も当たれば上出来だ」


「あとはダイズやラッカセイの種を持ち運んだ袋があるだろ。あの中に土があればめっけもんだ。その土も混ぜる。あとは区画化して、組み合わせて、育ててみるしかねえな」


 オーダは溜め息をついた。


「本当に気の長い話になってきたな。これまでが順調すぎたのか……ところで、クレイよ、元居た世界では何を生業にしておったのだ?」


「あ、それ聞いちゃう? ……ただの肥料屋だよ。ただの……」


 クレイは険しい表情でそう答えた。


 ——半年後——


 領館そばの畑で試験栽培しているマメ科植物の結果が出始めた。幸いにもダイズ、ラッカセイともに有望な生育区画が誕生している。アルファルファは芽吹いてからの勢いこそ早かったが、花をつけ、さらに種を採るまでとなるとダイズやラッカセイとそう変わらなかった。少なくとも、領内で絶やさず回してゆけるだけの見込みは立った。


 クレイは、次に播くダイズとラッカセイ、アルファルファの種へ、それぞれ根の瘤をすり潰した汁をたっぷりとなすりつけていた。ここから生育の連鎖が始まるのだ。


 アルファルファは牧草として極めて優秀であることをクレイが一同に説明した。だが、生のまま牛や馬が食べると良くない、とのことで干し草として貯蔵する手筈を整えた。


 人も牛馬も肥えはじめ、飢えを追い返したかに見えたアペルティアだが、執務室で報告書に目を通していたオーダの表情が険しい。東部のジャガイモ畑の収量が下がりはじめている。オーダは一同を伴い東部開拓地へ視察に向かった。


 一同は東部開拓地の延々と広がるジャガイモ畑の前に到着した。荒れ地をここまで耕すのは大変だったに違いない。畝は整っている。だが、葉の色が浅い。株もどこか細い。クレイが畑をひと目見るなり吐き捨てた。


「肥料がなっちゃいねえ。責任者はどいつだ?」


 開拓地の農業責任者である農夫が怯えながら出てくる。


「ご領主さまのお触れ通りに植え付けはいたしました。土寄せだって日がな腰が曲がりそうになりながらもやっています。それなのにまだ足りないのですか?」


「肥やしは入れたか?」


「……厩肥のことですか。東部は牛馬がまだ少のうございまして」


 クレイは大きく舌打ちした。


「取りっぱなしじゃ畑は痩せる。芋を掘れば、そのぶん土の力も持っていかれるんだ」


 オーダが問う。


「では、具体的には何を畑に撒けばよいのだ」


「この様子を見る感じ、今は灰が足りない。近隣の家からありったけの木灰を集めてくるぞ。それを篩にかけて、灰だけを取り出すんだ。それでも足りなさそうだから、いまから盛大にたき火をやろうじゃないか。開拓地したての土地だし、引っこ抜いた木や草は一杯あるだろう? だが、それで終わりじゃねえ。肥やしも回す。畑は食わせてやらなきゃ応えねえんだ」


「我々が乗ってきた馬、今も盛大に()()ひねり出しているが、これをそのまま撒くわけにはいかんのか」


「その類は直接撒くと逆効果だ。土が焼けちまう」


 東部開拓地の農夫たちは顔を見合わせた。畑に力を返す。そんな発想自体が薄かったのだ。草を刈り、土を起こし、植え付けて、収穫する。畑とはそういうものだと思っていた。


 クレイは畝の端にしゃがみ込むと、乾いた土を指でつまみ上げた。ぱらぱらと崩れて風に散る。


「見りゃ分かる。土が軽すぎる。こりゃもう、何年も食われっぱなしの顔だ」


「東部は開拓からまだ日が浅いはずだが」


 オーダが言うと、農夫が恐る恐る答えた。


「はい。ですが、ご領主さまのお触れで芋を増やせとのことで……。取れたぶん、また翌年も芋を植えました。腹は満ちましたので、誰も誤りとは思わず」


「誤りってほどでもねえさ」


 クレイは立ち上がった。


「飢えを追い払うには、それしかなかったろうよ。だが、畑には限度がある。食わせたら、食わせ返さなきゃならねえ」


 ノリコが腕を組む。


「つまり、今までアペルティアは畑から取り立てるばっかりで、賃金を払ってなかったってことね」


「おう。実に悪い領主さまだ」


 クレイが言うと、オーダは眉を寄せた。


「畑に賃金を払う、か。奇妙だが分かりやすい」


 リテアは紙にペンを走らせながら、小さく頷いた。


 クレイは畑の向こうに積まれた伐採木の山を指差す。


「まず応急処置だ。木灰を入れる。あれを焼いて灰にする。家々の竈から出る灰も、捨てずに全部集めろ。灰は雨に当てるな。せっかくの力が逃げる」


「承知した」


 オーダが即座に答える。


「東部開拓地の全戸に触れを回す。木灰は以後、勝手に捨てることを禁ずる。領が買い上げる形にしてもよいな」


「お買い上げいただけるのですか?」


 農夫が目を丸くする。


「必要なものをただで出させれば、いずれ隠し始めるだろう」


 オーダは当然のように言った。


「灰には対価を払う。持ち込んだ量に応じて銭を渡せ。ヴィル、価格はよしなに決めてくれ」


 クレイが片眉を上げた。


「話が早くて助かるね、領主さまは」


「飢えを追い払うのに比べれば、まだ分かりやすい話だ。銭で解決できる問題ほど楽なものはない」


 オーダは畑を見渡した。


「では恒久策は何だ」


「厩肥だ。牛馬の糞と藁と落ち葉を混ぜて積む。雨を避けて、時々混ぜっ返す。熱が引いて、刺すような臭いが抜けたら、それでようやく畑に入れられる。それとアブラナの油の絞りかす。あれも畑に漉き込め」


「手間がかかって面倒ですな」


 ダリオが顔をしかめる。


「面倒だからこそ効くんだ」


 クレイは即答した。


「あと、芋ばっかり植えるのはやめろ。ここでようやく、あの豆草どもの出番だ」


 そう言ってクレイは、荷に積まれていたダイズ、ラッカセイ、アルファルファの種袋を顎で示した。


「今年ぜんぶを芋にするんじゃねえ。一部は牧草と緑肥に回す。牛馬に食わせ、糞を増やし、足りないところは草そのものを土に返す。畑一枚まるごと休ませてもいいくらいだ」


 農夫は露骨に困った顔をした。


「ですが、休ませたらそのぶん収穫が減ります」


「そりゃあ減るさ」


 クレイはあっさりと答えた。


「だが今みてえに畑を痩せさせ続けりゃ、来年も再来年も減る。いつかは何も獲れなくなっちまうぞ。休ませるのは損じゃねえ。立て直しだ。木こりだって斧を研ぐ時間があるだろ。畑にもそれが必要だ」


 しばし沈黙が落ちた。東部の風が、葉色の浅いジャガイモ畑をさわさわと揺らしている。遠目には豊かに見える畑も、近くで見れば確かに弱っていた。オーダは静かに息を吐く。


「分かった。東部開拓地に、灰の回収場と厩肥積み場を作る。牛馬小屋も増やそう。冬までに各戸へ藁と落ち葉の囲い場を設ける。リテア、書いたか」


「もちろんです」


「ヴィルは各戸の竈の灰を無駄なく回収する仕組みを考えろ。宿場の灰も含めてだ」


「承知いたしました。灰の回収の段取りは私が整えます。ただ、緑肥に回す畑の割合は別途詰めねばなりません。作付けを休ませる農家への説得は、いかがなさいますか」


「そこは私がやる」


 オーダは、痩せ始めた東部の畑をまっすぐ見た。


「この領の者たちは、飢えを知っている。だからこそ、畑を生かす意味も理解できるはずだ」


 クレイは少しだけ口元を緩めた。


「なら、まだ間に合うな」


「間に合わなければ困る」


 オーダは答えた。


「この領は、ようやく立ち上がったのだから」


 畑を渡る風の匂いは、乾いた土と、弱った葉と、そして遠くで焚かれ始めた木の煙の匂いを運んできた。東部開拓地ではその日、収穫のためではなく、畑に返す力を作るための火が、あちこちで上がり始めた。


 東部で起き始めた畑の異変は領内全土へ広がるのも時間の問題だ。領館に戻った一行は()()の内容を昼夜を問わず検討しはじめた。


 家庭で出た木灰の回収、厩肥置き場の設計と設置場所、牛馬小屋の増設、緑肥区画の割り振り……緑肥の件が一番の問題だった。すぐ食えるジャガイモや麦、トウモロコシを差し置いてマメを進んで育てようという気概のある農家が少ないことが拍車をかけた。


 ——ひと月後——


 今日も領館には農夫の陳情が訪れていた。休耕の触れは飲めないという旨のご意見だ。休耕といっても実際はラッカセイ、ダイズ、アルファルファの栽培である。種子も育成方法指導も無償だ。それでも飢えを知る農家は麦とジャガイモ、トウモロコシを育てたがっていた。


 顛末を見ていたノリコはダイズの利用方法を合わせて提示する方法さえあれば……と思案していた。とはいえ、ダイズに囲まれて育ったといっても豆腐の作り方も知らない。豆乳の絞り方も記憶が曖昧だ。思案しながら領館周辺を散歩すると、近くの畑で青々と育っているダイズが目に入った。都合良くこの畑は試験栽培扱いということで収穫物は領館預かりだ。オーダに一言了解をもらって、農夫に手伝ってもらいながら、青い豆を収穫する。


「こんな若い豆どうすんだ。茶色に実らないと保存もできないべ」


 と訝しがっていた。領館の台所を借りたノリコは、収穫してきた青い豆を大鍋で茹でる。ひたすら茹でる。茹でた豆の四分の一ほどは鞘から取り出し、荒く潰して、ヴィルに調達してもらった砕き黒糖で和える。残った半分は鞘付きのまま砕いた岩塩を振りかける。


「こんな忙しい時期に試食会とは何事だ。夕飯前だぞ」


 オーダは珍しく少し機嫌が悪い。日々の陳情で参っているようだ。目の前には豆を潰したペーストと、青々とした鞘付きの豆、それと滅多なことでは飲まれないエールが準備されていた。


「普段お疲れのオーダさんを労う意味も込めて私が料理させていただきました。どうぞ召し上がってください」


「ふむ……これは鞘のまま食べるのか?」


「いいえ、鞘ごと口に入れて、中身だけ召し上がって、鞘はそこのお椀に捨ててください」


「どれ……塩気が利いて、青臭いが美味いな」


「これがエールと合うんですよ。一杯どうぞ」


「どれどれ……。これは更に美味い。塩気とエールが合うじゃないか。いくらでも食える。これは冷めてるのしかないのか」


「はい、それでは、茹であがりも今からお持ちしますね」


 ノリコが台所へ向かっている間も、一同は『枝豆』とエールを堪能している。ヴィルに至ってはエールが三杯目だ。顔が赤い。無言で枝豆とエールを交互に口へ運んでいる。


「お待たせしました。茹で立ての枝豆です」


「やっと気づいたぞ。このエダマメ、姿形からして、生育途中のダイズか!」


「そうです。私の居た所ではこの状態を枝豆と呼び、硬く茶色に生育したものをダイズと呼んでいました。……あのー、聞いてます?」


 男衆は湯気を立てて熱々の枝豆とエールに言葉もなく夢中だ。今日は日差しも強く暑かった。身体が塩気を求めるのも無理はない。


「はい、しっかりと記録いたしました。この茹で立ての枝豆、美味しいですね。指先と口が火傷しそうですけど」


 リテアは上品に枝豆を食べている。さすがにエールは飲んでいないようだ。


「そしてこちらが、潰した枝豆と黒糖をあえた『ずんだ』です。私が居た所の郷土料理です。お口に合うかわかりませんが、リテアさん、どうぞ」


 ノリコは豆のペーストをスプーンで掬ってリテアに寄越した。満面の笑みを前にして、食べないわけにはいかない。恐る恐る食べてみる。鼻腔を抜ける青臭さが気になるが、豆の甘みと旨みが黒糖と相乗効果を発揮している。荒く潰した豆の歯ごたえもいい。好きな味だ。思わず笑みがこぼれた。


「本当は白砂糖が良かったんですが、黒糖も割といけますね」


 ノリコもずんだを食べ、懐かしい味に郷里を思い出し、少しだけ涙ぐみながらリテアと微笑み合った。


「ノリコも人が悪い、知っていたなら早く教えるべきだったな。こんな美味い豆の食い方が明らかになれば、農民たちは我先にと栽培するようになってしまうぞ。これまで綿密に立てた計画が崩れてしまうではないか」


 オーダは鞘を吐き出しながら、上機嫌で笑いつつも冷静な目で先を見通していた。


 ダイズ栽培による計画的な輪作に意を唱える領民は居なくなった。翌年まで持ちこたえるダイズ、生育途中でも食える枝豆の二面性が領内へ広まったのだ。あの沈着冷静な領主が我を忘れるほど食べたという枝豆は領民の噂の的となった。


 夏のあいだ、街道沿いの宿屋では揚げた芋と枝豆を添えてエールを供するようになった。じきにこれも季節の名物になるだろう。領民の多くは、煮て潰したダイズと挽きトウモロコシの粥、ジャガイモ、黒パン、わずかな家畜肉が日々の食卓の光景であった。ただしこれまでと違い、腹を膨らませるだけではなく、働ける身体を得るようになった。各種の油は夜の家々を少なからず明るく照らせるようになった。最初の搾油機の経緯からして少々揉めたが、最終的には搾油屋という商売も生まれた。


 ラッカセイは収穫後の畑に羊を追い立て、茎葉や残渣を食わせつつ糞を落とさせ、残りは畑に鋤き込んだ。トウモロコシは数年単位の備蓄を担い、ダイズは一年を目処に食べ切れる量があればよい。ラッカセイは食べてよし、油を絞ってよし、換金してもよしという三方よしの農作物として認知され、殻は家畜の敷き藁、堆肥の原料、焚き付け代わりにもなる驚くべき活用を見せた。アペルティア領内では、麦、トウモロコシ、ジャガイモを主作物とし、ダイズやラッカセイのようなマメ類を輪作に組み込む畑作が主軸になった。


 領館では次年度の作付け計画を立てていた。ノリコは毎年この会議に参加しているが、畑の単位がまちまちすぎることに据わりの悪さを覚えている。クレイはリン系肥料の当てを考えていた。物流のエキスパートであるヴィルに聞いても芳しい結果は得られない。今はまだ灰系肥料が間に合っているが、そもそもの土壌が弱い地域もあり、大量の木炭粉を用いた土壌改良が必要だ。豊かな領土にはまだ程遠い。その現実を一番よく理解していた。どうしても前いた世界の味が忘れられず、苦心の末に再現したバターピーナッツをポリポリ囓りながらクレイは考えをまとめられずにいた。


 外からカコン、カコンと心地よい薪割りの音が聞こえる。クレイは音の方を見た。大柄な男が安定したペースで薪を割り続けている。ただ者ではない。


 計画会議が終わったあと、クレイはオーダたちを連れて薪割り男のところへと向かった。まだ薪割りを続けている。


「そこの薪割りさん、あんたただ者じゃないね? そんなペースで薪を割り続けていたら普通は身体がおかしくなっちまう。けど俺たちが会議をしている間じゅうずっと薪割りを続けていた。俺にはわかる。あんた何者だ?」


「へえ、俺はフィスと申します。普段は木こりをしとりますが、ここで薪割りをすると銭が貰えますんで、時折割らせていただいております」


「木こりだって? それでも普通じゃないぞ。フィスは木の目が視えている。間違いない。天賦の才だ」


「テンブのサイが何なのかは知りませんが、俺にはこれしかありません。家族も養わねばならんので、ここで静かに銭を稼ぎたいんです」


 クレイは割られた薪を一本拾い上げ、断面を陽にかざした。年輪に沿って、恐ろしいほど素直に割れている。無駄な裂けがほとんど無い。薪として使うには上等だが、クレイの目には別の使い道が浮かんでいた。


「なあフィス。お前さん、薪を割る時、どこを見てる?」


「どこ、と言われましても……木の癖ですかね。節の出方、湿り気、重み。刃を入れる前に、どこへ逃がせば綺麗に割れるか考えます」


「やっぱりだ」


 クレイは嬉しそうに笑った。隣でノリコが嫌な予感でもしたのか半歩だけ引く。


「オーダさんよ、こいつは薪割りで終わらせちゃいけねえ。炭焼きだ。しかもただの炭焼きじゃない。良い炭を選んで焼ける男だ」


 フィスは目を丸くした。


「炭、ですか。炭焼き窯なら山の向こうにもありますが、あれは年寄り衆の仕事です。俺みたいな若いのが首を突っ込むと、だいたい怒鳴られます」


「怒鳴られるくらいで済むなら安いもんだ」


 クレイは断面を指で叩いた。


「木炭ってのはな、ただ木を焼けば出来るって代物じゃない。どの木を、どの太さで、どの乾き具合で、どう積んで、どこまで火を走らせるかで全然違う。鍛冶にも使える。薬にも使える。土にも返せる。出来のいい炭は銭になる」


 ヴィルがそこで僅かに眉を上げた。


「銭になる、と仰いましたか。木炭は元来高級品です。軽くて商材には向いております」


「売れるとも。ただし粗悪品じゃ駄目だ。軽すぎる炭は崩れるし、焼きが甘けりゃ煙ばっかり出る。けどフィスなら見分けられる」


 フィスは困ったように頭をかいた。


「俺は、木を切って割るだけです。焼きのことまでは……」


「だから試すんだよ。最初から出来る奴ぁ居ねえ。だが向き不向きはある。お前にはきっと向いてる。木がどこで鳴くか、どこで裂けるか、もう耳と目で知ってる。なら次は、木がどこで炭になるかを覚えりゃいい」


 オーダは黙ってやり取りを見ていたが、やがて静かに口を開いた。


「クレイ。その炭は、何に使うつもりだ」


「まずは燃料の革命を起こしましょう。軒先一杯まで薪を積み上げる時代は終わりだ。次に灰。今は灰肥をばらまいてどうにか繋いでますが、焼き方を揃えりゃ副産物も扱いやすくなる。あと、いずれ土に返す炭も試したい」


「土に、炭を?」


 ノリコが怪訝そうに聞き返す。


「そうだ。全部が全部じゃないが、痩せた土に混ぜると効く場合がある。水持ちと空気の通りが変わる。まあ、すぐ畑一面ってわけにはいかねえ。けど試験区画くらいならやれる」


 クレイの口調は軽いが、目だけは本気だった。オーダはその顔を見て、いつものように一拍置いてから頷く。


「よろしい。では試せ。ただし、領の仕事として動かす以上、薪割りの出来が良い、だけでは人は納得せぬぞ。結果も欲しい」


「わかったよ」


 クレイは待ってましたとばかりに笑い、フィスへ向き直る。


「聞いたな、フィス。まずは小さく始める。お前には木の選別を任せたい。真っ直ぐなもの、節の多いもの、乾きの甘いもの、三つに分けろ。俺が窯の段取りを組む。焼き上がりを見て、どれがどう転ぶか一緒に確かめる」


「……そんな大役、俺でいいんですか」


「いいから声を掛けたんだろうが。お前、自分の目を安く見積もりすぎだ」


 そこへ、今まで黙っていたリテアがふと口を挟んだ。


「記録は息子のカラムに取らせましょう。木の種類、太さ、乾燥日数、焼き時間…… 記録して比べていきましょう」


 クレイがにやりとし、両手の指をバキューンの形にしてリテアに向ける。


「さすが書記殿。そういうのが要る」


 フィスは話の半分も分からぬ顔をしていたが、それでも、自分が何か妙な大事業の端に触れたことだけは理解したらしい。斧の柄を握り直し、恐る恐る訊ねる。


「その……うまくいったら、どうなるんで?」


 クレイは即答した。


「お前は薪割りじゃなくなる。火と森と山を読む男になる。偉大な男だぞ」


 一陣の風が吹き、割られた薪の匂いが広がった。フィスはしばらく口を閉ざしたままだったが、やがて深く頭を下げた。


「俺でよければ、やらせてください」


「よし来た」


 クレイは満足げに頷き、割り場の脇に積まれた薪の山を見上げた。


「まずは窯だな。土を盛るか、石を組むか……いや、最初は崩れてもいい。小さく作って、小さく失敗する。そこからだ」


 オーダはその言葉を聞き、遠く北の森へ視線を向けた。山にはまだ手つかずの木々がいくらでもある。だが、ただ伐るだけでは領は豊かにならない。切り、選び、焼き、測り、記録し、次へ繋ぐ。そうして初めて、森は資産になる。領主の仕事とは、きっとそういう地味な連鎖に名を与えることなのだろう。


「ヴィル。人足を三人。力仕事に慣れた者をつけてやれ。火の番も要る。報酬はいつも通りよしなにしてくれ」


「承知しました」


「リテアはノリコに、カラムはクレイに、よろしく頼む」


「はい、オーダ様」


 オーダは静かに頷いた。


 薪割り場には、もう先ほどまでの単調な労働の音は無かった。代わりに、次の季節を少しだけ変える仕事の匂いが生まれていた。


 ——十数日後——


 北の森、斜面の一画に土釜式の炭焼場が出来上がった。土台は石工達に積み上げてもらった石積み。そこから上は領内でも数少ない左官工を集めて粘土でドーム状に固めて貰った。そのドームを貫くように鉄製の煙突が垂直に刺さっている。煙突からは細い金属管が斜め下を向いて枝分かれしている。もちろん各作業はノリコ謹製の物差しを基準に行われた。職人達が土釜を積み上げている間、フィスとクレイ、オーダは延々と薪割りをやっていたが、クレイとオーダの仕事量を足してもフィスに追いつかないほどだ。薪の質も圧倒的にフィスが割った物の方が良い。


 薪の質が良い物から土釜の中に立てて並べていく。この作業は一番小柄なクレイがさんざん悪態をつきながらも行った。言い出しっぺなので誰かを呪うわけにもいかない。小柄なノリコやカラムも炭材並べを手伝った。釜口の手前まで炭材が集まると、焚き火用のスペースを残し、粘土で土釜の入り口を塞ぐ。ノリコの肘から手先くらいまでの隙間を残して。あとは釜口の手前から雑木を入れて着火。土釜の中を乾燥させる。


 乾燥工程が始まったら交替で寝ずに火の番を行いながら、薪をくべていく。カラムは炭材の本数から、乾燥用の薪の本数までをきっちり記録している。


 数日後、煙突からの煙の色と匂いが変わり始めた。やがて煙に黄ばみが混じり、鼻を刺す匂いが立った。さらにしばらくして、甘ったるいような、酸いような、妙な香りが風に乗る。


「来たぞ」


 そこで初めて、クレイは木酢液を受ける金属製の樋に冷たい水を含ませた毛織物を被せた。褐色の液体の雫がこぼれ落ち始めた。それを貴重な硝子瓶で受け止める。


「カラム、記録だ。木酢液が出始めた。炭焼きは佳境だと」


 交替で火の番が終わって、ウトウトしていたカラムはしゃきっと目を覚まし、記録をつけた。


 木酢液の雫が細り、煙の色もまた変わり始めた頃、カラムは焚き口を粘土で狭めていった。残すのは小さな風口ひとつだけ。クレイは立ちのぼる煙をじっと睨み、鼻を鳴らした。


「まだ完全には塞ぐな。釜の中が全部炭になるまでは、息をさせる」


 煙突から昇る煙が青色から無色になった。睡眠不足で血走った目のクレイが慌てて焚き口を完全に塞いだ。眠っているカラムを小突いて記録を付けさせる。


「炭が出来上がったぞ……これでようやく休める……」


 クレイはフィスに拳骨を前に出させ、親指を立たせた。クレイもサムズアップを作りぶつけ合う。


「やったぜ。俺たちの炭の完成だ。あとは釜が冷えるのを待とう」


 ——五日後——


 オーダたちが釜開けの瞬間に立ち会いに来た。クレイとカラムからは疲労の色が濃く漂う。フィスは表情が読めない。


「さて、それじゃあ釜も冷えたことだし、炭とご対面といきましょう」


 一行は木綿の布でマスクをし、準備万端だ。クレイは、待ってる間にフィスと作った大きな木槌で焚き口の粘土を砕いていく。


「どうれ……お邪魔しますよ~…… チクショウ、失敗だ」


 クレイが這いつくばりながら釜から出てきた。


「ちょっと焼き時間が長すぎたみたいだ……クソッ!」


 窯出ししてみると、炭にはなっていた。だが出来は揃わない。いくつかは見た目こそ立派だが、手に取ると角からほろほろ崩れ、縄籠に移すだけで黒い粉が落ちた。その一方で、太い材の芯にはまだ木の色が残っている。クレイは黙ってその欠片を踏み砕き、吐き捨てるように言った。


「締めるのが遅かった。窯に空気を入れすぎた……」


 オーダはクレイに確かめる。


「もう一度やってみるか?」


「ええ、できるものなら、やらせてくれ。コツは掴んだ。次はうまくいく」


「俺もわかった」


 フィスも呟く。目が据わっている。


「わかった。まずはいったん中の炭を全部取り出して、クレイとフィスとカラムは一度屋敷に戻って湯を使え。炭で黒くなりすぎだ。前を向いているのか後ろを向いているのかも分からん」


 オーダはいつもの調子で微笑んだ。


 失敗に終わった炭焼きだが、焼いた炭は無駄にしない。全て細かく砕いて土壌改良材にする。木酢液も農薬代わりになる。そう考えると不思議と敗北感も徒労感もなかった。クレイは目の前の薪を割りながらそう考えていた。


 二度目の炭焼きが始まった。再現性のため、手順は変えない。釜口を塞ぐタイミングに原因があると考えられたからだ。前回は木酢液に気を取られすぎた。今回はオーダの変わりにカラムが薪割りをしている。最初こそ覚束なかったものの、今ではいっちょ前に薪割りを続けている。


 ——数日後——


 木酢液はもう十分に集まっている。煙突から出る煙の色だけが頼りだ。いつ釜口を閉じようか。そう思いながら粘土をぺたぺた煉っていると、フィスがそれを奪い去り、釜口を塞ぎ始めた。クレイは呆気にとられている。


「フィス、少し早くないか?」


「違う。今回は炭材の水分が前よりも少なかった。今がちょうどいい」


「わかった。今回はお前に賭けるよ。失敗しても成功してもお前のもんだ」


 土釜から伸びた煙突は何も示さない。カラムも静かに寝息を立てている。


「こいつも一晩寝ずに番できるようになったんだよな。今は寝かせておくか……」


 ——五日後——


「さあて、今度こそ上手くいってるといいんだけど……」


 クレイが木槌で釜口の粘土を割って、釜口から中を覗く。


「……成功……じゃないか? 炭材が全部原型を止めているぞ」


 クレイは一本引き抜き、端を爪で引っ掻いた。木の色はどこにも残っていない。軽い。だが脆くもない。炭と炭を打ち合わせると、乾いた高い音が返ってきた。


「これだ。今度はちゃんと炭になってる」


 クレイがサムズアップをフィスの前に出す。フィスもサムズアップで応える。遅れてオーダたちがやってきた。


「今度の首尾はどうだった」


 クレイが炭を握りしめたままサムズアップをする。


「ほら、見なよ。立派な炭だぜ」


 フィスがぼそりと呟く。


「俺、炭焼きが分かった。もう一人でもできる。木こり仕事は命懸けだけど、炭焼きはそうじゃない。楽しい」


 フィスは窯出しされた炭を一本ずつ愛おしそうにオーダたちが持って来た編み籠へ入れていく。皆も窯出しを手伝う。最終的に編み籠七つぶんの炭が出来上がった。もちろん木灰や炭片も余さず掃き集められ、麻袋にしまわれた。


 フィスは家族をつれて明日からまた炭焼き仕事を始めるらしい。その顛末を聞いたオーダはフィスに声をかける。


「フィスよ、今日からお前は木こりと薪割りではなく、炭焼きを生業とせよ。一族郎党巻き込んで、炭焼きに励むと良い。炭は薪より高く買おう」


「ありがとうございます。これで一族みんな食わせていけます」


「もう一つ。大切な話がある。フィスよ、これからは姓として『リグナ』と名乗るが良い。炭焼きは煤と灰にまみれる大変な仕事だ。いずれ蔑む人も出てくるだろう。しかしこの先、確実に領民の生活を楽にし、この領を潤すことになる。そのために一族でリグナ姓を名乗り、誇りを持って仕事に励んで欲しい」


 フィスはすぐには返事ができなかった。炭で黒くなった手を見下ろし、何かを飲み込むように喉を鳴らす。ただの木こりと薪割りだった自分に、一族の名を背負えと言われている。その重みが、すぐには現実にならなかった。


「そんな、俺には勿体ない話だ……」


「勿体なくなどない。お前の仕事は、もうただの木こりと薪割りではない。この領に新しい火を作る仕事だ。これから先のことを考えれば土地の一つでも与えてしかるべきなのだがな……今はこの森を自由にしてよい。私が持つ森林権を一部委譲する」


「はあ、つまりどういうことですか」


「北の森のこの一画は、以後リグナ一族の炭焼き場として使え。炭材として伐る木は、お前たちを優先する」


「ほ、ほんとですか」


「ああ、本当だ。リテア、記録したな」


「はい、一連のやりとりはしっかり記録いたしました。触れとして清書しますか?」


「フィスが必要であれば触れも出そう」


「もうじゅうぶん身に余る光栄にあずかりました。一族ともに今日という日を語り継いでいきます」


 翌日、クレイとフィス渾身の新作()は領館近くの鍛冶場で火にくべられていた。いつもの薪火では赤くなるまで間のあった炉が、木炭では早かった。クレイは炭で黒くなった手を腰に当て、鍛冶場の炉を見つめた。薪を焚いた時よりも、炎の立ち方が素直だ。鉄が赤熱するまでの時間も短い。鍛冶屋はしばらく無言でふいごを踏み、それからもう一度、感心したように炭を火箸でつついた。


「火が暴れねえのがいい。薪だと太い細いだの節のあるなしで機嫌が変わるが、こいつは揃ってる。炉の言うことを聞いてくれる火だ」


 調理場でも評判は同じだった。料理人は火床の前で腕を組み、何度も頷いている。


「薪だと鍋を二つ三つ並べたあたりで火加減が難しくなるんですが、炭は長持ちしますね。煮込みを保つにも使いやすい。これは本当に助かります」


 オーダはそこで静かにリテアへ目を向けた。


「書き留めよ。鍛冶場では火力が強く安定。調理場では長く燃え、扱いやすい」


 リテアは返事変わりにさらさらと記録していく。カラムも脇から覗き込み、炭の編み籠七つ分、木灰と炭片をそれぞれ麻袋一つ分、と確認しながら頷いていた。


「こうして書いておくと、次から比べやすいですね」


「そうだ」


 オーダは短く答えた。


「成功とは、一度うまくいくことではない。次も同じように出来ることだ」


 クレイはその言葉に、思わず苦笑した。


「まったく、領主様は褒める時まで説教くさいね」


「説教ではない。事実だ」


 そう言いながらも、オーダの口調には僅かな安堵が滲んでいた。クレイは鍛冶場の炉から目を離し、北の森の方角を振り返った。


「フィスにも聞かせてやりたかったな。鍛冶場の大将の台詞」


「では伝えればよいではないですか」


 リテアが当然のように言う。


「伝えるさ。あいつ、顔に出さないけど、ああ見えて褒められるとたぶん三日は寝る前に思い出すぞ」


「四日かもしれません」


 カラムが真顔で言ったので、クレイは吹き出した。


 その日の夕刻、クレイが炭焼き場へ戻ると、フィスはもう次の炭材を選り分けていた。成功に浮かれるでもなく、節の多い木、真っ直ぐな木、乾きの甘い木を手際よく分けている。


「休まないのか」


「休みます。けど、忘れないうちに見ておきたくて」


 クレイはその横へしゃがみ込み、木片を一本拾った。


「鍛冶場も調理場も大喜びだった。火が素直だの、長く燃えるだの、べた褒めだ」


 フィスの手がぴたりと止まる。


「……そうですか」


「そうですか、じゃねえよ。もっと胸張れよ」


「いや、その……うれしいです」


 フィスはそう言って、少しだけ笑った。煤で汚れた顔の中で、その笑みだけが妙に幼く見えた。


「鍛冶屋の大将が言ってたぞ。炉の言うことを聞いてくれる火だ、ってな」


 それを聞いたフィスは、しばらく何も言わなかった。やがて足元の炭材へ視線を落とし、小さく頷く。


「じゃあ、もっと揃えます。太さも、乾きも。今度はもっと良い炭にする」


「その意気だ。まったく、職人ってのは褒めるとすぐ次を欲しがる」


 クレイは立ち上がり、背を伸ばした。森の空気には、まだほんのりと木酢液の匂いが残っている。失敗した一度目も、こうしてみれば無駄ではなかった。窯の癖も、煙の色も、塞ぐべき頃合いも、皆が少しずつ覚えた。その上で二度目がある。だから今、目の前に編み籠七つ分の黒い成果が積み上がっているのだ。


 そこへリテアとカラム、それにノリコもやってきた。ノリコは炭焼き場の脇に積まれた炭材と完成品を見比べ、すぐに眉をひそめる。


「ねえ。これ、次からどう数えるの。編み籠七つ分、って書き方だと、籠の大きさが変わったら終わりだよ」


 クレイが嫌そうな顔をした。


「出たな、測る女」


「そこ笑うとこじゃないでしょ。木炭の出来高、木酢液の量、灰の量、畑に撒いた量。比べたいなら、ちゃんと揃えないと」


 カラムもこくりと頷く。


「編み籠一つでも、ぎゅうぎゅうに詰めた時と、ふわっと入れた時で違います」


 リテアが記録帳を開いた。


「それに、北の森のこの一画と言っても、どこからどこまでを炭焼き場とするか、いずれ触れにするなら定めねばなりません」


 ノリコが露骨に顔をしかめた。


「……やっぱり来た。結局そこへ戻るのか」


 クレイは何となく嫌な予感がして、ゆっくりと振り返るとオーダが居た。オーダは少し考えるように森を見渡し、やがていつもの静かな、よく通る声で言った。


「この問題は長らく私が預かっていたな。頃合いか。ならば、元を作ろう」


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