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第一章 はためくリネン(6)

 カズオは少し暖かくなった日差しの中、通い慣れた診療所へ向かう。途中、上の村の教会方面に立ち寄ってみた。教会裏の墓地は真新しい盛り土で一杯になっている。救えたはずの命も沢山あったはずだ。苦い気持ちを抱きしめたまま診療所へ向かって歩速を上げた。


 診療所では目の下に隈を作ったシズクが退院した患者を送り出していたところだ。退院した患者は見えなくなるまで何度も、振り返ってはこちらへ礼をしていた。


「おはよう、シズクさん。夜勤おつかれさま。今の患者さんで残り何人?」


「カズオさん、おはようございます。とりあえず今の方で……全員です」


「……おはようございます。カズオさん」


 リテアは診療録カルテを紙縒りで綴っている。部屋の中の暖炉には薪もなく、消し炭がほんのり暖かい。


「……終わったんでしょうか……私はまたいつ診療所のドアがノックされるのかと思うと気が気じゃなくて……」


「とりあえず俺が来たし、シズクさんは一旦屋敷に帰りなよ。目の下がひどい」


「カズオさん、男性がそういうことを言うのはどうかと思います。……今のは記録に残しません。安心してください」


 三人は少し笑いあった。診療所の軒先に山のように詰まれていた薪もあまり残っていない。もう一度感染の波が来たら、人的にも物的にも確実に耐えられない。その恐怖の中、少し笑い合った。


 シズクはふらふらした足取りで領館へ向かう。もう何かを考える余力も無い。手のことだって何も気にならない。道中、板塀教室へ向かう子ども達の集団とすれ違う。


「あっ。シズクさんだー! おはようございます!」


「おはよう。皆元気ね」


「うん。今日は算術の秘術『かけ算』を教えてくれるんだって!」


「僕らもう石鹸が無くても学校へ行くよ。算術が楽しいもん!」


 子ども達の中には最初の患者、マルクスの姿もあった。


「マルクスくん、あれからどう?何ともない?」


「うん。お母さんもお父さんも、僕もすごく元気!」


「……そう、良かった」


「じゃあ、学校に行かなきゃ! さようならー!」


「はい、さようなら」


 子どもたちと別れたあと、上の村の宿屋前に来た。看板も元通りになって、それなりに繁盛しているようだ。投宿していた行商人一行が旅立った直後だった。シズクに気づいた女将さんが、一度宿の中に引っ込んで包丁を持ったままマスクをした大将を連れてきた。


「ほらアンタ、まだお礼言えてなかっただろ! 診療所のシズクさんだよ」


「おお、一家の破滅を救ってくださったシズクさん! 我々は感謝してもしきれませんよ。是非今度晩飯を召し上がりに来て下さい」


 宿屋夫妻に深々と礼をされ、見送られながら領館へと向かう。真新しい世界での平穏な日常。何を求めていたのか、あまり思い出せないが、この日常を守れたことに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。前居た世界では何も出来なかった、何でもなかった無力な自分。看護の領分を遙かに超えた業務だけど、何人もの命を救えたという手触り。そして、手からこぼれていった命。この感触は忘れることができない。これを抱きしめたまま、この世界に根ざして生きていこう。そう思っていると領館にたどり着いた。


「ただいま戻りました……」


 ヴィルが出迎えてくれた。診療所に緊急で必用な物資は無いかと尋ねてきたが、現状思いつかないので、無しと回答した。眠くて頭が回らない。シズクは手を石鹸で洗い、自分の客間で泥のように眠った。


 翌日もその翌日も診療所のドアを叩く者は居なかった。それでもシズク達は来るべき日に備え、海藻を選り分け、石鹸を作り、薪を割り、洗濯物を干した。新月の夜もあったが何もなかったようで、オーダは少し残念そうにしていたようだ。


 ——翌月——


 眠っていたシズクが目を覚ますと、領館は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。何事か分からないが、委細を把握しているであろうオーダの部屋へ着替えて向かう。


 オーダは机に両肘をついて手を組んでいた。表情が分からない。リテア、ヴィル、カズオも居る。リテアとヴィルはかなり神妙な面持ちだ。


「おはようございます。何事ですか……?」


「実はな……明朝、この領の中央教会で公開異端審問会が開かれるというのだよ。裁かれる対象は他の誰でも無い、この私だ」


 シズクは口を手で押さえ、驚きを隠せない。と同時に膝が震え始めた。異端審問。前いた世界だと魔女狩りとセットで使われていた言葉だ。教科書に載っていたおぞましい挿絵が脳裏に浮かぶ。


「わ、私たちのやったことは間違いだったのですか?」


「無論間違ってなどおらぬ。それはなによりシズクが知っているだろう。ただ、教団の機嫌を損なったのは事実のようだ。機嫌というより……権威を脅かした、だろうな」


「どうして今更……? 収束してから、ゆうにひと月は経ってますよ?」


「領司祭ドミニクスの上申が聖都に届き、返書と使者が戻るだけでひと月はかかる。アペルティア(ここ)はそれほど中央の目がとどかない場所のはず、だったのだがな……」


「罪状は……罪状は何ですか? 俺が算術を教えたからですか?」


「それは違う。届いた書状によれば罪状は『女神の御業の簒奪』だ、そうだ。公衆の面前でやると言う。 ……逃げ場はないが、私は逃げも隠れもしない。こうなることも含めて覚悟し、決断してきたのだから。だからシズク、カズオよ、気に病むことは無い」


 シズクはへたり込んで肩を震わせはじめた。


「……そんな……領内の皆さんを助けるために……私財を投げ打って……あんなに率先して動いていたのに……挙げ句の果てに異端審問だなんて……あんまりです! 理不尽です!」


「シズクは優しいな……。私の代わりに怒ってくれているのか。すまないな。こんなことになってしまって……」


 オーダは優しい眼差しでシズクを見つめる。カズオはずっと何か考え事をして、ヴィルとひそひそ相談をはじめた。


「……シズクとカズオの望みどおりのことができた。少なからず領民も救えた。これでも私は結構満足しているのだがね」


「そんなのダメに決まっています。まだ石鹸を名産品にする段取りが終わっておりません」


 昨日も一緒に石鹸を作っていたリテアがぴしゃりと言う。


「それもそうだな。まだまだやることも出来ることもある。最後の最後まで足掻いてみせるさ」


 オーダはにっこりと微笑んだ。


 ——翌朝——


 アペルティア領中央教会の鐘楼が朝霧を切り裂いた。普段は一回の鐘が三回鳴った。招集の合図だ。よほどの事情が無い限り領民は教会に集まることになっている。教団は迎えの馬車を領館へ寄越してきていた。オーダが迎えの馬車に身一つで乗り込む光景を領館で働く皆が見守る。全員不安そうな面持ちだ。


「では行ってくる。留守中頼むぞ、ヴィル」


「かしこまりました」


 ヴィルはいつも通りの返事をする。ちょっとその辺まで見回りに行くかのような会話だ。


 馬車の中は、思ったより揺れなかった。外の景色だけが、いつも通りに流れていく。その『いつも通り』が、今日はひどく不自然だった。道行く人々は皆中央教会へ向かっているのだろう。同じ方向へと歩いている。普段偉そうな領主が裁かれる光景は、娯楽が少ないこの田舎で最高の見世物になるだろうな……。オーダは、変に客観視してしまう自分を押し戻した。


 馬車が止まった。扉が開く前から群衆のざわめきが聞こえる。扉が開き、オーダが身を乗り出すと一瞬の静寂。その後更なるざわめきに変化した。教会前の広場には公開異端審問の準備が既に整っており、役者が揃うのを今かと待ち受けている。教会庭の端には火刑台があり、真新しい薪がうずたかく積み上がっている。さあ、主役の登場だぞ。オーダは独りごちた。


 教団傭兵に警護されながら異端審問会場へと足を運ぶ。すれ違う群衆の顔は見覚えのある顔ばかりだ。領民たちは不安そうにオーダを見つめてくる。広場の外縁では、アルコが番役衆を普段着のまま散らしていた。槍も旗も持たせていない。ただ、石を握った手と、酒に酔った足取りだけは見逃さぬよう目を配っている。ここは教団の庭だ。武を見せれば、それだけで相手に口実を与える。だから帰路だけは、誰にも悟られぬよう確保しておく――それがアルコに命じられた役目だった。


「この異端め!」


 何者かが叫び小石をオーダへ投げてきた。オーダの額に命中し、血が滲む。ひるむこと無く審問台へと歩みを進める。審問台の前で手を後ろで組んだ領司祭ドミニクスが満面の笑みで待ち受けている。傍らには真っ赤な衣装を纏い、右耳には逆半月型のイヤリングを下げた異端審問官が居る。


「ようこそ、オーダ・ルーメン殿。お久しぶりです。私もこんな大事になるとは思いませんでしたよ。あの疫病はお互い大変でしたなぁ」


 そう言いながらドミニクスは慇懃無礼にオーダへ礼をする。


「今回はこのような結果になって残念です。ただこれも本山のご意向によるもの……悪く思われませんよう……」


「……まだ結果は出ておらんよ。さあ、お互い限りある時間を持つ身だ。さっさと始めるが良い」


「……わかりました……」


 ドミニクスはその身体のどこから出るのか分からない大音声で公開異端審問会の始まりを宣言する。


「月の女神の名において、これより領主オーダ・ルーメンの公開異端審問会を、領司祭ドミニクス・クラウディウス十五世が執り行う」


 異端審問官は一歩前に出た。朝靄の中でも分かるほど、その衣装の赤は鮮烈だった。群衆のざわめきが、じわりと引いていく。見世物小屋の幕が上がる瞬間みたいな静けさが、広場に落ちた。


「被告、アペルティア領主オーダ・ルーメン」


 低くよく通る声だった。怒鳴っているわけではないのに、広場の隅まで届く。不思議と耳に残る声だ、とオーダは思った。


「汝は女神の御業を簒奪し、月の定めし試練を人の浅知恵で捻じ曲げ、さらに領民に対し、その不遜なる業を善と信じ込ませた疑いにより、ここに立たされている。弁明はあるか」


 どよめきが起こる。『簒奪』という言葉の意味を正しく理解している者など、広場の半分もいないだろう。だが響きだけで十分だった。重く、禍々しい。人を石にするには、難しい意味より、それらしい音の方が効く。オーダは額の血を手の甲で拭った。


「ある」


 その一言に、逆に広場が静まった。ドミニクスが目を細める。異端審問官は表情一つ動かさない。


「まず確認したい。私が行ったのは何だ?」


「病者を集め、隔て、洗わせ、煮沸し、布を替え、祈りではなく手順によって生死を左右した。十分に不遜だろう」


「では問おう。それで何人死に、何人助かった?」


 異端審問官の眉が、ほんのわずかに動いた。ドミニクスがすぐに口を挟む。


「命の数で女神の御心を量ることこそ、不敬である!」


「そうか。では教会は数えておらぬのか」


 その言葉に、群衆の前列がざわついた。オーダは知っている顔を見つけた。洗濯場で働いていた女。最初に診療所へ子を担ぎ込んだ父親。板塀教室へ通い始めた子どもたち。皆、息を詰めている。ドミニクスは笑みを崩さないまま答えた。


「死者を数えるのは神への冒瀆になり得ます。死は等しく、女神の御許へ還る門だ」


「便利な言葉だな」


 オーダは吐き捨てるでもなく言った。


「門を潜った者の名を知らず、数も知らず、ただ『女神の御心』で済ませるのか」


 群衆のどこかで、誰かが小さく『……名も、か……』と呟いた。


 ドミニクスの頬がわずかに引きつる。そのとき、広場の後方から一人の少年の声がした。


「マルクスです」


 子どもの声は妙によく通る。周囲の大人たちが振り返る。板塀教室の子どもたちだった。前へ出まいとしているのに、背の低さのせいで大人の隙間から顔だけ見える。


「僕は牛飼いの子、マルクスです。診療所に助けられました!」


 少年は、教室で習ったとおりに、はっきり名乗った。横にいた別の子が、震えながら続ける。


「ぼくの妹は、アンネ。診療所で助かりました」


「わ、わたしのお父さんも……」


 子どもたちの声はばらばらで、整ってなどいない。だがその拙さが、妙に真実味を持って広場を揺らした。


「静まれ!」


 教団傭兵が槍の石突きを地面に打ちつける。子どもたちはびくりと肩を跳ねさせたが、それでも何人かは退かなかった。その端で、カズオが群衆の中から一歩前へ出た。旅人風の粗末な外套を羽織っているが、その黒い瞳だけが妙に据わっている。背後にはリテアとヴィルの姿もある。ヴィルは無表情、リテアは怒りを紙のように薄く折り畳んだ顔をしていた。


「な、なけなしの勇気を振り絞って言うぞ……『異議あり!』、って言っても通じないだろうから普通に言うぞ」


 震えながらも張り上げるカズオの声に、オーダは一瞬だけ目を見開いた。来るなと言わなかった自分が悪いのか、それとも来るに決まっていると思っていたのか、自分でも分からない。


「死者を数えるのが冒瀆だって? ふざけるなよ。数えなきゃ、どっちが何をした結果なのか分からないだろうが」


「何者だ、貴様」


「算術を教えた余所者だよ。ついでに帳面も読める」


 ざわめきが一段深くなる。ドミニクスが初めて、はっきりとカズオを睨んだ。


「教会の帳簿と、診療所の帳簿。両方ある。ヴィルさんが揃えてくれた」


 ここで初めて、広場の視線がヴィルに集まる。ヴィルは深々と一礼しただけだった。


「流行の最中、中央教会が引き取った患者数、死者数。診療所が引き取った患者数、死者数。全部じゃないにせよ、かなり残ってる。読めるぞ」


 ドミニクスが怒鳴る。


「そのような紙切れに何の意味がある!」


「意味ならあるさ」


 リテアが進み出た。胸に抱えていた紙束を両手で持ち直す。その仕草が、祈祷書ではなく記録そのものを信じる者の手つきだった。


「これは紙切れではありません。生き延びた方、亡くなった方、その両方を、人として書き留めたものです」


 彼女の声は大きくない。だが妙に刺さった。怒鳴り声より、よほど硬い声だった。逆半月型のイヤリングを右耳にぶら下げた異端審問官が、そこで初めて口を開いた。


「……興味深い。領主オーダ・ルーメン。そなたの弁明は、すなわち成果をもって己の正しさを示す、ということか」


「違うな」


 オーダは首を振った。


「私は正しさを誇りたいのではない。ここで死んだ者たちを、都合よく『女神の御心』の一言で埋め直されたくないだけだ」


 朝の風が吹いた。鐘楼の上で布が鳴る。広場の端にいた老婆が、そっと胸元で祈る手を止めた。オーダは審問台の中央へ一歩進み出た。


「提案がある」


 ドミニクスの顔から、ついに笑みが消えた。


「診療所で死んだ者、教会で死んだ者、双方の名をここで読み上げよう。助かった者の名もだ。誰が何をした結果だったのか、領民全員の前で確かめればよい」


 群衆がうねる。


 それは歓声ではなかった。怒号でもない。もっと生っぽい、腹の底から出るざわめきだ。自分の家族の名が呼ばれるかもしれない。自分の隣人の死に、誰かの責任が混じっているかもしれない。今まで『仕方なかった』で済ませていたものが、急に重さを持ち始める。そんなざわめきだった。ドミニクスが声を張る。


「許されるはずがない! 死者を見世物にするつもりか!」


「見世物にしたのはそちらだろう」


 オーダは広場を見渡した。


「私を裁くために、これだけの領民を集めておいて今さら何を言う。今から行うのは、この疫病への私なりの鎮魂の儀式だ。それまで教団は邪魔立てするのかね?」


 誰かが吹き出しかけ、すぐに呑み込んだ。しかし空気は変わった。ほんの少し確かに。そしてカズオが、悪魔みたいに静かな声で追い打ちをかけた。


「読み上げながら俺が数える。子どもでも分かるように、どっちがどれだけ死なせたか、この場でな」


 その一言で、広場の空気がひっくり返りかけた。ドミニクスは一瞬、言葉を失った。異端審問官だけが、興味を持った獣のような目でオーダとカズオを見ていた。


 ――審問台の上で、本当に裁かれはじめたのが誰なのか。その輪郭が、朝霧の向こうにようやく浮かび始めていた。


 リテアは紙束を持つ指先を震わせながら、最初の名を読んだ。ヴィルは一拍遅れて、中央教会の帳面に記された名を読み上げた。広場のあちこちで、小さく息を呑む音が重なった。三人目の名で口元を押さえる女がいて、五人目の名で杖をついた老人がその場に膝をついた。それでも読み上げは止まらなかった。


 リテアが診療所の名を読み、ヴィルが中央教会の名を読むたび、広場にいた者たちは、自分たちが「流行」と一言で呼んでいたものの中に、ひとりひとりの顔と暮らしが埋まっていたことを思い知らされた。すすり泣きはやがて隠しきれぬ嗚咽に変わり、朝の冷気はいつしか失せ、太陽は広場の石畳を中ほどまで照らし、暖めていた。カズオが石畳に石灰岩チョークで延々と数を記録し続けている。敢えて正の字ではなく、四本の縦線を一本の横線で貫いて五と数える(タリーマーク)方式だ。


「……以上です」


 引き取った病者の数そのものは中央教会のほうが圧倒的に多く、後半はヴィルの低い声だけが広場に響き続けた。


「それでは、生者の数はそれぞれいかほどかな?」


 ドミニクスが笑みを消してカズオに尋ねる。


「生者の数だけなら、診療所が六十、中央教会が六十八だ」


 群衆の一角がわずかにざわめいた。ドミニクスの口元に、勝ちを確信した笑みが戻りかける。


「……だが、死者は診療所が十五、中央教会が九十二」


 ざわめきが止んだ。カズオは石畳の印から目を上げ、今度は広場の隅まで届くように声を張った。


「診療所は七十五人のうち六十人を家に帰した。五人のうち四人だ。中央教会は百六十人のうち六十八人。二人に一人も家へ帰せていない」


 その場にいた誰も、すぐには言葉を継げなかった。


「……教会のほうがいっぱい死んでる……」


 子どもの声だった。それは算術の結論であると同時に、広場の誰もが目を背けていた事実そのものだった。


 ざわめきは、もはやざわめきではなかった。すすり泣きと、押し殺した嗚咽と、低い怒りが、石畳の上で重たく混ざり合っていた。


「まやかしです!」


 ドミニクスが一歩踏み出した。


「紙と算術で女神の御業を量るなど――」


「黙れ」


 異端審問官の一声は、今度こそ広場の全てを凍らせた。逆半月の耳飾りが、陽の光を一瞬だけ弾く。


「提出された帳簿は預かる。照合の要あり」


 彼は群衆ではなく、まっすぐドミニクスを見た。


「記録の不備を残したまま異端を断ずるほど、教団は軽くない」


 ドミニクスの顔から血の気が引いた。異端審問官はゆっくりと向き直り、審問台の中央へ視線を戻した。


「本日の公開異端審問会はここで閉じる。判定は後日、改めて示す」


 広場の誰もが、その言葉の意味を理解した。いまこの場で、オーダを火刑台へ送ることはできなくなったのだ。


 オーダはわずかに目を伏せた。


「今回の流行病で命を落とし、月へ還った者たちの魂に救いがあらんことを」


 それだけを言って、審問台を降りた。群衆は静かに、そして自然に左右へ割れた。誰一人として声を上げなかった。ただ、その沈黙だけが、広場の風向きが二度と元へ戻らぬことを告げていた。


 その後、中央教会は帳簿の照合と証言の再確認を理由に再審を引き延ばしたが、ついにオーダを異端と断ずることはできなかった。ただし、信仰の監督を離れたまま救護が行われていたことが問題視され、今後は教団の監督下で診療所の運営続行が許可されることとなった。


「ガイウスさん、まずは汲みたての井戸水と、この石鹸で手を洗ってきてくださいね。はいはい、飲む聖水が欲しいんですね、ちょっと待ってください……」


 シズクは診療所へ新たに着任した監督者としての下級司祭へ標準予防策スタンダードプリコーションをゼロから教え始めた。ガイウス自身は右も左も分からないためか、大人しくシズクに従っている。カズオは診療所外の板塀教室で、異端審問会以降急増した子どもたちへ、改めて算術を教えている。


 本当は設計し、組み上げる側の人間になりたかった。だが今この領では、数を教えること自体が世界を組む仕事だ。遠回りの人生だったのかもしれない。けれど、その遠回りの先で数字が人を救い、領を生かし、子どもに未来を渡しているのなら――数学教師だった日々も、そう悪いものではなかった。


 診療所の裏手ではよく洗われたリネンが春風に吹かれてはためいていた。


 ――七十三年後――


 新月の夜。カリデア国アペルティア領内どこかの森。


「えっ。ここどこ?」


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