第一章 はためくリネン(5)
——診療所最初の患者受入から三日目——
領司祭ドミニクスから釘を刺された後でも、診療所の稼働は止まらない。もう患者を八人収容している。とはいえ治療行為といってよいのは「飲む聖水」である経口補水液を与えているのみである。そんな現場を尻目に、まばらに集まったマスクをつけさせた子ども達へ、カズオは板塀教室で算術の基礎を教え始めた。まずは指折りで十まで数えさせるところから。板塀には算用数字で一から十までが石灰石チョークで書かれている。カズオが確認する。
「パンが三個ありました。そこにパンが一個ふえました。パンは全部でいくつありますか?」
「いち、にー……四個ですかー?」
「四個だべ」
「皆さん正解です」
思ってた以上に子ども達の吸収が早い。カズオは手応えを感じながらも、詰め込みすぎを危惧して授業を切り上げる。反復学習で刷り込むのがよいという判断だ。
「じゃあみんな、自分の椅子の丸太へ切り込みを入れてください。学校に来たことを数えていきましょうね」
危ないかなと思いつつも小さなナイフを渡し、十分に注意させ、各自で切り込みを入れさせる。文字通り丸太の切れ目だ。
「それでは今から石鹸を配ります。前から順に並んでください」
わあ、という歓声とともに子どもたちがカズオの前に列を形成する。
「ちゃんとこれでご飯の前に手を洗うんだよ。お父さん、お母さんにも説明してね」
石鹸の欠片を渡しながら「使う」ことを指示してゆく。貴重だからといって大事に保管されては意味がない。特に今は使ってなんぼの状況だ。口を酸っぱく言っておくに越したことはない。
「はーい、みなさん、気をつけて帰りましょう。流れる水で石鹸を使って手を洗う。人が多いところではマスクをする。いいですねー」
「わかりましたー」
「はーい」
カズオは子ども達を見送ったあと、診療所の中を覗く。乾いた咳が時々聞こえるくらいで、思った以上に平穏に見える。マスクを締め直して診療所内へ入る。
「やあ、今日の教室終わり。石鹸も配り終わったよ。手伝うことはない?」
「そうですね……毛布の洗濯をお願いしてもよいですか?」
各ベッドを周り、容態を聞き取っていたシズクが、少し疲れた表情で依頼してくる。
「シズクさん大丈夫? あんまり寝てないんでしょ? そろそろ休んだら? 君が潰れてしまうとこの診療所も潰れてしまう」
「ええ、まだ余裕はありますから! ただ洗濯の仕事は……ごめんなさい」
「いいよ、そのための洗濯器とマングルだ」
そんな会話をしていると入院一号患者のマルクス少年がベッドから起き上がってきた。
「もう寝るの飽きた。とうちゃんの所へ帰りたい」
「本当!? 少しお熱を測りましょうね」
もちろん体温計などない。シズクが手のひらでマルクス少年のおでこに手をやる。
「たしかに熱っぽさもないし……マルクスくん、咳もしてなかったよね。唇もカサカサしてない。おしっこは出た?」
「うん。ゴホゴホ言わなくなった。おしっこも出るようになった。それにあの、飲む聖水だっけ? しょっぱくてあまり美味しくなくなっちゃった……」
「じゃあ、じゃあ、病気は退治できた……と思う。おめでとうマルクスくん」
「よし、じゃあマルクスくんを家まで送っていくよ。洗濯は帰ったらやっておく」
「お願いします」
「じゃあマルクスくん、お家はどこかな? 案内してくれる?」
「うん、いいよ」
マルクスも石鹸の欠片を貰い、咳が再発しないようであれば板塀教室に参加するよう、カズオは道すがら話をした。
——四日目——
「はい、リンゴが一つ減ると三つですね。皆さん良く出来ました」
早朝の板塀教室も終わり、切り株への切れ目も入れさせ、石鹸の欠片も配った。今日はマルクス少年も来ていた。噂が原因だろうか。日に日に参加する子どもが増えてきて、カズオのやる気も回復してきたところだ。一人大きく咳き込む子がいたので診療所へ収容しようと声をかけた。
「ちょっとこの子の熱を測って……うわ、多いな、溢れてるじゃん」
診療所のベッド十床を上回る十三人を受け入れている。ベッドからあぶれた三人は毛布を重ねて敷いた床に寝かされている。
「カズオさん、良いところに。ベッドを全体的に寄せてあぶれた患者さんの場所を作ります。手伝ってください。その子も患者さんですか? 寝かせてください」
カズオ、シズク、リテア、手伝いに来ているヴィルでベッド群を全体的に寄せて、既存ベッド以外に合計六人ぶんの場所は確保された。
新しく診ることになった子どもの名はユリアン。父親は小作人のヴィクトル。
「今からベッドを発注いたしましょうか」
ヴィルが提案する。
「そうですね……お願いします。ただもう敷いてある毛布分の六床が限界かと思いますので、それだけお願いします」
「承知しました」
ヴィルは外に繋いでいた馬で颯爽と駆けていった。
「次は容体の悪い順にベッドへ割り当てましょうか。アグネスさんはだいぶ咳が減ってきているので、申し訳ないけど毛布に移動していただきましょう」
思ったより息が早いユリアンはベッドへ、アグネスは二枚重ね毛布へ移動した。シズクらは経口補水液を与えて回った。ユリアンは美味しそうに経口補水液を飲み干した。カズオは診療所内の暖炉は火が付きっぱなしで、部屋の中が暑くなっていることに気づいた。その時、シズクが窓に指をかけ、開け放つ。冷たい風が診療所内を駆け抜ける。患者達が一斉に咳き込みはじめた。容態が落ち着いてきたアグネスがこぼす。
「折角暖まってるのに何するんだい? ほら、咳き込む人が増えたじゃないか」
「いえ、さっきまで病気の元が部屋の中に貯まっていたのです。風を取り込むことで病気の元を少しでも薄められます。もう閉めちゃいますね」
がこん、と音とともに窓が閉められる。ユリアンを含めて患者が十四人にもなるとシズク一人では回しに綻びが出はじめた。「飲む聖水が欲しい」「寒いので毛布を増やして欲しい」逆に「暑いので毛布を減らして欲しい」……シズクが目を回しそうになっていると、起き上がってきたアグネスが、なんと手伝い始めた。
「ほら、新しい毛布はどこにあるんだい? 聖水はこの妙ちくりんな鍋から注げばいいのかい?」
「アグネスさん、もう平気なんですか? ……熱もなさそうですし、咳もしてない。唇も乾いてない……大丈夫そうではありますが……」
「アタシの身体はアタシのことがいっちばん分かってるんだから。そもそも牛飼いは頑丈が取り柄だからね。迷惑かけた分少し恩返しさせとくれよ」
——六日目——
診療所の患者の入れ替わりが激しい。アグネスが戦力になったことでシズク達の負担は減ったが十六床がフル回転だ。板塀教室を終えたカズオ、オーダ、ヴィル、アルコも手伝った。男手はまず洗濯物を粛々と行い、軒下の大釜半分くらいの水で大規模な経口補水液を作りはじめた。今回のはヴィルが気を利かせて黒糖蜂蜜ブレンドだ。
ユリアンの父親ヴィクトルが子どもの様子を見に来た。ヴィクトルとしては教会に収容して欲しかったようだ。
「ところが、教会も手が回らず……こちらを頼りなさいとのことで……どうか息子をよろしくお願いします」
ヴィクトルは深々と頭を下げ、診療所を後にした。ユリアンは容態が芳しくない。咳もせず、力ない喉笛がヒューヒューと鳴っている状況だ。シズクが経口補水液を与えてみるが、昨日までは飲めていたのに、今朝から喉が動かない。吹きこぼしてしまう。熱もかなり出ているようで、井戸から汲んだばかりの冷たい水を含ませた布をおでこと両脇にあてている。
「……どうしよう……こういう状態の時、私の居た所なら身体に管を入れて水分を直接流し込むのですが……」
シズクは落ち着いているが泣きそうな表情で語る。
「その入れる管を作ることはできんのか? 予算なら気にしなくとも良い」
「オーダさん、お気持ちは分かるんですが、麦わらの六分の一くらいの細い金属の管を作れる鍛冶屋さんなんて、この領どころか国中を探しても居ないんじゃないんですかね……」
カズオは力なく返事する。
「そうだ。クロ婆さんのお薬。これの出番では!」
シズクはクロ婆さん秘伝の貴重な「熱冷まし」の秘薬を匙に入れ、ユリアンに飲ませる。
「……ゴホッ……ゴホッ……」
「あああ、ダメだ。飲み込んでくれない……どうしよう」
シズクの声がどんどん細くなる。
「……喉の鳴り方が。私の時と同じだ……胸が苦しくなって……息ができなくなって……」
リテアがシズクの背中をさする。
「シズクさん、落ち着いて……」
「そ、そうですよね。私が挫けちゃったら……ここにいる患者さんが……」
シズクは烈火のごとく熱くなっているユリアンの手と両脇に井戸水で湿らせた布を当てる。綺麗な布に経口補水液を湿らせ、ユリアンの唇を湿らせる。唇は、濡れたはずなのに乾いたままだった。舌が動かない。喉が飲み込む形を忘れている。
「……ひと口。ひと口だけ……お願い……」
シズクは匙の先で、経口補水液をほんの一滴落とした。ユリアンの喉がひくりと動きかけ、すぐに止まる。胸の上下が浅くなる。ヒューヒューという喉笛の音が、どんどん細くなっていく。
「息が……」
シズクは湿った布を替え、もう一度唇を濡らし、頬を撫でて、名前を呼んだ。
「ユリアン。聞こえる? ユリアン」
返事はない。ヒューヒューが、ふっと途切れた。音が止むと、暖炉のパチパチだけがやけに大きく聞こえた。シズクは一瞬だけ固まってから、首筋に指を当てる。次に胸元へ手を当てる。最後に手首にも。
「……ああ……だめ。……もう、戻ってこない」
言葉は小さかった。泣き声ではなく、報告だった。
リテアが布を持ってきて、シズクの手元にそっと置く。シズクは頷き、ユリアンの顔を覆った。丁寧に。布の端が震えないように。オーダが一歩前に出た。
「……名は」
「ユリアンです。父は上の村、小作人のヴィクトル」
リテアが告げながら台帳に書きつける。今までの記録とは違う、重い一行だった。
「ヴィクトルへは私が報告に行こう。亡骸も父の元へ連れて行ってやらねばならぬ。カズオ、ヴィル、手伝ってくれ」
オーダは領主という役割を病魔よりも恨みながらも気丈に振る舞った。
——それから数日——
流行病が収束する兆しは無い。診療所は十六床が常に満床で、軽症まで回復した患者には経口補水液を渡して「退院」して貰っている状況だ。今日も患者が詰めかける。空きベッドは四つ。患者候補は十人。命の選別を行わねばならない状況だ。シズクとオーダは診療所入り口で患者たちを眺める。戸板で運ばれてきて息が細く汗もかいていない老人……大工頭だ。自力で下の村から歩いてきたもの。マスクをしており咳混むもの……病態は様々だ。よく見ればヴィルの息子も息も絶え絶えで診療所の壁に寄りかかっている。宿屋の主人も牛車で運ばれてきている……具合は芳しくない。
「それでは診療所で診させていただく方を決めていきます」
シズクは覚悟した目でトリアージ方針を発表していく。
「運ばれてきた方は診療所へ。それから、ヴィルさんの息子さん、宿屋のご主人も中へ。他の方は……『飲む聖水』を沢山お渡ししますので、それを持ってご自宅で安静になさってください」
「あんたら命を値踏みしてんのか。一人は領館の身内じゃないか」
「俺ぁわざわざ下の村から歩いて来たんだぞ」
「ワシは上の村の村長じゃが診てもらえんのか……」
「まだベッドが一つ空いてるじゃないか!」
患者たちは口々に不平不安を募らせる。オーダが前に来て言い放つ。
「ヴィルの息子も……戸板に寝かせろ。じき倒れるだろう。ただし診る順番は後だ」
オーダは視線を逸らさず言った。
「こっちの大工頭が先。あまりに息が浅い」
「なっ……」と誰かが声を上げる。
「これは選別ではない。順番だ」
オーダは一歩前へ出た。
「歩いて来られた者は、帰っても生き延びる時間がある。だが戸板に寝かされている者や意識が薄い者は……いま手を施さねば明日が無い」
ざわめきが膨らむ。
「そして覚えておけ。ここでは身分で決めない……異議があるなら私に言え。この順番で死んだなら、私が殺した。責めは私が負う。そして空きベッドは今日これからやってくる重い患者用のものだ。今は未だ朝だからな」
大工頭と宿屋の主人、ヴィルの息子が運ばれ、暖かい毛布で包まれたのち、経口補水液を大量に与えられている。大工頭の奥さんと思わしき人には問診。宿屋の主人とヴィルの息子は普段の様子を知る者がいるので問診が短く済むのが幸いだった。三人とも予断が許されない状況で、両脇と額に冷たい井戸水を吸わせた布を当てられている。シズクが秘蔵の熱冷まし薬をそれぞれ投与する。三人とも咳混みながらも飲み干した。
「これで破滅的な熱が下がればいいんですが……」
「飲む聖水がもう残り少ないな。私が作ろう、黒糖入りだ」
オーダ自ら病魔との戦いの先陣を切っている。問診記録を整理していたリテアがある一点に気づく。
「これまでの患者は皆、ここ十日以内に宿屋兼食堂を利用しています。何かあるのでは?」
「人が集まりやすいところは、そのまま病気が広まりやすいのです。なんらかの対策を打ってない所では病気を貰いに行っているようなものですね……」
「となれば、今、各村の教会はとんでもないことになっているな……」
「ええ……あまりにも恐ろしくて想像もしたくありません……」
命の選別が必死に行われている裏では、カズオがこの世界を生き延びる術「算術」を教えていた。
「皆さん。そこの『診療所』では今まさに命のやりとりが行われています。そこで助かった子もいますよね。手を挙げて」
マルクスが照れくさそうに手を挙げる。
「マルクスくんは助かってどう思った?」
「あのね、『飲む聖水』が美味しかったんだ。あれを飲んで身体が熱かったのが治っていったんだよ」
「はい。『飲む聖水』これは算術ができないと作れません。それにみんなに配っている石鹸の数を数えるお仕事があるんだけど、それも算術です。皆が思っている以上に算術はあちこちで使われているんですよ」
なるほどー? ふーん? 知ってたもんねー という声が上がり始める。
「そこで皆には一つお仕事をして貰います。いいですか、村々を救うかもしれない大事なお仕事です」
「上の村の子~手を挙げて」
五人が手を挙げる。
「下の村の子~手を挙げて」
三人が手を挙げる。
この要領で全村の子どもの数は把握できた。
「じゃあ今日はここまでにします。今日は多めに石鹸を配るので、石鹸が無いご近所のお家の人に石鹸をあげてください。使い方も説明できるかな?」
できるー! 簡単だよー! という声が上がる。
「じゃあ先生との約束だ。石鹸をあげた家の入り口には消し炭でこの記号を書いていってくださいね」
カズオは板塀に大きく「-」記号を書いた。
「そしてもし、ゴホンゴホンと言って寝込んでいる人がいたらすぐに村長さんに知らせてください。これも約束できるかな?」
子ども達に少し緊張が走る。
「マスクしていれば大丈夫。そして、お家に帰ったら綺麗な水と石鹸で手を洗う。これは何度も言ってきたけど、守れてるよね」
はーい という元気な声が揃う。
「じゃあ大丈夫だ。今日も丸太に切れ目を入れてねー」
板塀教室に来る子どもの顔ぶれが固定されてきた。しかし近隣の村に子どもはもっと居るはずだ。ログが一切刻まれていない丸太が何本もある。子どもに石鹸を配りながらカズオが尋ねる。
「ねえ、他にも同じくらいの子どもがいると思うんだけど、お家が忙しくて来れてないのかな?」
「羊飼いの子はみんな来てないと思うよ。いつも朝から晩まで羊を追いかけ回してるもん」
「なるほど。ありがとう、はいこれ、石鹸の欠片」
カズオは少し考え事をしたのち、大声で子ども達に呼びかける。
「明日は算術教室お休みです。周りのみんなにも教えてあげてね」
——翌日——
診療所の朝は昨日より患者が詰めかけ混乱していた。オーダがトリアージし、十六床満床となった。今はシズク、ヴィル、オーダ、助っ人のアグネスが回している。
「この忙しい中、私を連れてどこへ行こうというのですか?」
診療所に後ろ髪引かれているリテアを連れて、カズオは村の中を歩いて行く。
「ちょっと記録に残して欲しいことがあるので、申し訳ないんだけど付いてきて欲しいんだ。この埋め合わせは必ずするから!」
カズオはそう言い、目的地までリテアと歩く。
「到着。たぶんここだろう」
上の村一番の羊飼いの家の前に来た。羊の獣臭がここまで漂う。
「すみませーん。領館の使いの者ですー。どなたかいらっしゃいますか-」
中から中年の男性が現れる。
「はあ、オーダさんの使いが何の用じゃね。顔に変な布を当ててからに」
「そちら、小さなお子さんいらっしゃいませんか?ぜひ村外れの診療所でやっている算術教室に参加して欲しくって」
「バカなこと言うんじゃないよ。うちの子は立派な牧童だ。貴重な働き手で、あの子がいないと羊追いができないんだよ。それともあんたが仕事代わってやってくれるのかい?」
「私には羊追いなんて仕事はできませんが、要は放牧している羊が決まった所に戻ればいいんですよね?」
「? 変なこと聞くね。そりゃそれが理想だわな。けど羊たちは気ままな生き物だ。決まった所に帰ってくるなんてこたぁないよ」
「わかりました。ではちょっと牧場にお邪魔してもよろしいですか?」
「構わんよ。子どもを連れて行く以外、好きにすればいい」
——しばらく経って——
「驚いた。羊たちが何もしとらんのにひとところに集まりよったわ。あんた何をしたんだ?」
「これを羊を集めたいところに置いただけです」
カズオは肩から下げた大きな布袋から岩塩塊をとりだした。
「そりゃただの岩塩じゃないか。どういうことだ?」
「はい。放牧された羊は草を食べますよね。生き物ですから」
「ああそうだ。あいつらは草を食うのが仕事だ」
「実は羊は我々人と同じで、草だけだと塩気が足りなくなり、そうなると塩気を欲しがるんですよ」
「ほう?」
「そうすると、放牧場と岩塩の場所を往復します。羊は賢いので岩塩の場所を覚えます。舐めて『こりゃうメェ』って覚えるんでしょね」
「カズオさん、今のも記録しますよ。いいですね」
「……岩塩の場所を覚えた羊は遠出をしにくくなります。塩という見えない鎖で繋いでいる状態だと思ってください。これを『塩の鎖』と言います。私が居た地域の羊飼いは、こうして飼い慣らしていました」
「なるほどなぁ。これは手間かかんなくていいな」
「これならお子さんが牧童として走り回ることもなくなると思うんです。いかがですか?」
「たしかにな。一日中働かせるのは可哀想だとは思ってたんだが、背に腹はかえられず……けどこのやり方を知ったら、牧童仕事をさせなくても済むな」
「では明日から、村外れの『診療所』の裏手で算術教室に来させて貰ってよいでしょうか」
「ああ、ここらじゃ岩塩も手頃に手に入るし、子どもに学が付けられるんなら、それに越したことは無い。約束しよう」
「ありがとうございます。ところで、他にも羊飼いの方、いらっしゃったら紹介してくれませんか?」
「おういいぞ、ついてきな」
次への羊飼いへ向かう道すがら、感心したリテアがカズオに話かける。
「塩の鎖って考え方、素晴らしいですね。羊の生理現象にまで踏み込んだ見事な発想です。カズオさん、これをどこで学ばれたんですか?」
「え、うーん、それ聞いちゃう? 墨田区のハクブツカンてとこなんだけど……」
リテアが一気にしらけた顔になる。
「ま、まあ、これで板塀教室の参加率が増えるんだから、いいじゃないの。ひいては石鹸もたくさん配れるし、良いことづくめだよ」
「結果的にはそうですが、なんだか釈然としませんね……」
こうして領内の羊飼いたちに「塩の鎖」の概念が浸透する種を撒き終えた。
——上の村宿屋前——
「ここだよね、上の村の病人が皆立ち寄ってる場所……」
「ええ、例外なく皆さんこちらを利用されてます。宿屋のご主人も担ぎ込まれましたし……」
「とりあえず状況確認しよう。ごめんくださーい。領館の使いのものですー」
返事がない。嫌な予感しかない。カズオとリテアはマスクを締め直し、宿屋内を捜索する。
「はいはい、お邪魔しますよー。どなたかいらっしゃいませんか~」
「女将さん、どちらにいらっしゃいますか~」
リテアが耳を澄ますと微かに乾いた咳の音が聞こえた。
「カズオさん、こちらです。弱弱しいですが誰かが咳してますよ」
咳の主を探すとリテア曰く宿屋の女将さんが自室の床で息も絶え絶えな状況だ。額を触ってみると烈火のごとく熱い。汗をかいた痕跡もない。危険な状況だ。
「飲む聖水とまではいかないけど、お水を……うわなんだこりゃ。いつからくみ置いてる水だよ、水瓶がぬめぬめしてる……」
「井戸を探しましょう。綺麗なお水が必要ですよね」
二人は手分けして宿屋の敷地から井戸を見つけて水をくみ上げた。今度は清潔な水のようだ。女将さんの上半身を無理矢理にでも起こし、水を飲ませる。
「……ぜい……ぜい……どなたが存じませんが……ありがとうございます……今朝から急に息が……ゴホッゴホッ……」
「女将さん、喋らなくていいから。また横になってて」
カズオたちは持ち合わせていた布を冷たく絞り、女将さんの額と脇腹に添える。
「リテアさん、馬に乗れるんだっけ。裏手に繋がってる馬を拝借して診療所に戻って伝えてくれないかな。重病人がいるって。男手が二~三人欲しい。オーダさんたちに来てもらおう。俺一人じゃ運べない」
「わかりました。伝令に向かいますね」
「診療所に戻ったら、こっちには戻ってこなくていいから!」
「手間がかかりますけど仕方ありませんね。引き受けました」
カズオは女将さんに付いている。水を飲ませた影響だろうか、少しだけ息が楽そうになったように感じる。それからも定期的に身体を起こさせては水を与え、額と脇の布を水で絞り直した。
「待たせたな、カズオ」
よく通る、そして頼もしい声で誰が来たか分かった。
「オーダさん、ありがとうございます。この女将さん、結構重症です」
「リテアから詳細は聞いておる。これは優先して治療にあたらねばならんな。朝の段階でベッドを一つ空けておいて良かった。さあ、女将を連れて行こう」
「オーダさん、この宿はおそらく病気の温床です。換気のために雨戸も扉も開け放つ必要があると思います。それと、休業状態がひと目で分かるようにしないと……」
「なるほど。カズオは『換気』を頼む。ついでに戸板を一枚調達してくれ。私は看板に細工をしてこよう」
オーダは街道側に出るとベッドの絵が描かれた看板を豪快に引きちぎった。
「これでよし」
上の村、感染の通り道を一つ塞いだ。




