第一章 はためくリネン(3)
——新月の夜——
いつもより静まり返った領館の客間。シズクは台所を借り、煎じたヨモギの汁が冷めるのを待っていた。この数日で、薪を使った火起こしにもようやく慣れた。移動中や領館の周りでコツコツと摘み、自室で干しておいたヨモギ。クロ婆がなんにでも効くよイヒヒ、と笑っていた、泥臭いが確実な知恵の結晶だ。シズクは、ヴィルに頼んで調達してもらった馬脂の塊を見つめる。これにヨモギの汁を練り合わせ、軟膏を作る。それが今の自分にできる、精一杯の「手当て」だった。
(……とにかく、もう限界だ…)
自分の手は、灰汁に焼かれて赤く腫れ、皮が剥けている。だが、それ以上に耐えがたかったのは、業務命令で付き合わせているリテアの手までボロボロにしてしまったことだ。リテアにとって、手は記録を司る大切な商売道具。それなのに、彼女は腫れ上がった指でペンを握り、苦痛を顔に出さず黙々と筆記仕事を続けている。そのプロ意識の高さが、何者でもない学生の自分には眩しく、残酷なほど申し訳なかった。シズクは少しずつ、慎重に煎じ汁を馬脂へ練り込んでいく。分量なんてわからない。エビデンスも、正確な配合比もここにはない。そもそもこれは、看護学生の領分をとうに超えている。
(私……何やってるんだろう。こんなの、ただの気休めかもしれないのに)
それでも、手を動かしていないと罪悪感に押し潰されそうだった。検索エンジンも、ステロイド軟膏もないこの世界で、シズクはただ祈りとともに、泥臭い緑色の脂をこね続けた。
ひとまず練りあがったヨモギ軟膏を自分の手に塗ってみる。悪くない気がする。効いているかどうかは明日の朝までおあずけだ。それでもリテアには軟膏の完成を共有したかった。《《今夜》》に備えてきっと起きているだろうと思い、リテアの部屋のドアをノックする。今、領館内に残っているのはリテアとシズクの二人きりだ。ドアが軋みながら開く。
「夜分にどうかしましたか。……うっ、なにか臭う……」
「リテアさん、連日お付き合いいただいてありがとうございます。これ、寝る前に手に塗ってみてください。毒性はありません。もう私の身体で試しましたから。クロ婆さんお墨付きの薬草を練りこんだ軟膏です」
シズクはそう言いながらリテアに軟膏が入った皿を差し出す。
「台所で何をやっているのかと思えば……シズクさん、有難うございます。大切に使わせていただきますね」
「えっと、あの、その、とんでもないです。ただ効き目は現段階ではお約束できません。あ、あとこれを手に塗るとペンが滑って握れなくなるかもです!」
改まって礼を言われたシズクはあたふたしながら受け答えし、二人で笑いあった。その時、領館の扉がゆるく軋みながら開く。館のあるじが帰ってきて良く通る声で依頼する。
「リテアは居るか。茶を淹れてくれ。客人だ」
どこかで聞き覚えのある台詞だ。リテアが静かに返事する。
「今夜は何人分ご用意すればよろしいですか。今シズクさんと居ます」
「あっ、私でよければ私が淹れます!」
「そうか、では君たちを含めて六人分頼む。応接間に持ってきてくれ」
いつの間にか領館に定着した《《衛生的》》な手順でシズクはお茶を淹れ、応接間へと向かった。
「シズク、紹介しよう。彼がこのたび領内に現れた迷子だ。迷子同士自己紹介はいかがかな」
「初めまして、私はシズクと言います。先月この世界にやってきました」
「先月だって!? どういうことだ!? いや、違うんだ、ファーストコンタクトはもっとこうビシっと!」
黒髪、黒目、短髪の男はそう言いながら咳払いし、言葉を重ねる。
「はじめまして、俺はカズオ・ハセガワです」
「ほう、カズオは姓があるのか。この国では姓を持つのは一部特権階級の氏族だけだ。さぞかし高貴な出であるのだな」
「あ、えーっと、俺は普通の家庭の生まれです。俺のいた世界…の国ではすべての人が姓を持っています」
「なるほど、そういう世界もあるのだな。シズクの世界ではどうだった?」
「そういえば名乗ったことありませんね。私の正式な名前はシズク・モチヅキです。けど今はシズクです。何でもないシズク」
「モチヅキだって? あれ俺の世界と同じっぽい気がする。モチヅキって、『月を望む』って書くでしょ?」
オーダが目を見開き、速記していたリテアの手が止まる。
「シズクの姓は月を崇拝するという意味なのか? この世界で一度でも名乗れば傲岸不遜と思われるほど禁忌に近い意味だ。口外せんほうがよいだろう。ここだけの話にしておきなさい」
「わかりました。私はシズクのままが気に入ってます」
「俺もそうします。カズオです」
「カズオさんの世界の言葉と私の世界の言葉、もしかすると文字まで一緒かもしれませんね。リテアさん、すみませんがまたペンと紙を貸してください」
シズクとカズオはお互いの姓名を文字で書いて交わす。
「驚いた……君もニホンから来たのか……」
「それでしたらここひと月で私が経験したことを共有したほうが早そうですね。リテアさん、これは筆記とらなくていいですからね。長い話になると思いますが、手が辛いでしょうし。オーダさん、リテアさん、ヴィルさん、アルコさんにはとっくに知ってる内容ばかりですから……」
原因不明の迷子現象、幅を利かせる月光教団、恐るべき流行病の兆し、ほか、シズクが気づいたこの世界特有の習わし……すべてを聞いたカズオはテーブルに肘を置いて頭を抱えた。
「そんな……ステータス画面も魔法もないリアルな世界で、電気もスマホもコンビニも無い……まるで弱くてニューゲームじゃないですか…墨田区に帰りたい……けど帰れないんですよね……」
「すみません、さっきから知らない言葉だらけで。ステータスガメン、スマホ、コンビニ、ヨワクテニューゲーム、スミダクとはなんですか?」
流石に用語の筆記をした方が良いと思ったリテアが質問する。カズオとシズクはリテアとオーダ、ヴィルに「ステータス画面」と「弱くてニューゲーム」以外の言葉を説明した。
「コンビニ……。一日中常に聖なる光が灯り、あらゆる物資が揃う魔法の店、ですか。スミダクには、山より高くそびえ立つ塔が立っているなんて、素晴らしい土地なのでしょう。スマホという叡智の詰まった石版にも興味があります」
「デンキという不思議な力には大いに興味をそそられますな。身分に関わらず遍く人々が利用できるとは、さぞかし住みやすい世界なのでしょう」
「馬が牽かない馬車がある? にわかには信じられません……」
「あ、いや……うーん……凄く好意的な解釈がされているけど、まあ、いいか。……それよりシズクさん」
「? どうしました?」
「……その手。どうしたんですか。真っ赤に腫れてるし、皮が剥けて……ひどい有様じゃないですか。なんか緑色でぬめぬめしてるし」
「ああ、これ……。大丈夫。今日、リネンと木綿の布を沢山煮沸消毒してお洗濯したの。ぜんぶ手作業。灰を使って、何回も。……ちょっと、頑張りすぎちゃっただけ。そして見様見真似で手作りした軟膏を塗ったところなのよ」
シズクは慌てて手を後ろに回して隠したが遅かった。
「……それで合点がいったよ。俺、一応中学で数学の先生をやってたし、理工系大学を出てるんで何かお手伝いができるかもしれない」
「ほう。先生とはさぞや学があるのだろう。この世界では月光教団でも高位のものがなる職業だ。カズオ、また先生をやりたいか?」
「そうですね。嫌いな仕事では無かったんですが、嫌なことも色々ありました……。とりあえず今はシズクさんの仕事を手伝いできればと思います。まずは二種類の方法で。一つ目は明日から皆さんと同じ作業に従事すること。一人分は楽になるかもしれない。もう一つ目は俺なりのやり方でもっと楽をする方法の準備をすること。こっちは何十人分も楽できるかも。どっちがいい?」
横でやりとりを聞いていたオーダが堪えきれず口を挟む。
「カズオよ、後者のやり方を詳しく話して貰えないだろうか。金の話なら気にしなくて良い」
「わかりました。それでは、紙とペンをお借りできますか。ああ、リテアさんありがとうございます———」
——翌日——
カズオの合流から一夜明け、工事が終わったはずの診療所周辺でカズオとアルコの指揮の元、大工達が総動員されている。診療所そばの小川に木製の樋が据え付けられ、人工的な支流が形成された。樋は釘を使わず木の板を嵌合して作られている。支流の行き先は小川の脇に据えられた大きな木桶。木桶はタガが外され川下側の方ほど大きく隙間が空いており、川の水が通過するだけになって桶本来の水を溜めるという仕事を果たしてない。洗濯用に誂えた桶を一つ、これのために解いたらしい。カズオが樋から木桶の内壁へ流れ落ちる水の角度を調整しながら、傍らで作業を見ていたシズクに声をかける。
「さあ、すすぎたい布をこの広がった木桶に入れてみて。一枚目が渦に乗って伸びたのを見てから、二枚目。時間差が大事……なはず」
シズクとリテアは、洗い桶から煮沸した亜麻布を一枚目だけ持ち上げた。渦に抱かれて伸びたのを見計らい、二枚目を放り込む。やはり煮沸直後の亜麻布は重たそうだ。樋の水は木桶の内壁に沿って叩き込まれ、渦の芯を作り出している。そのため木桶に投入した亜麻布が渦に巻き込まれ、ぐるぐる回ってもう片方の亜麻布と絡み合いながら木桶の内壁に打ち当てられ、また渦に回収される。木桶の隙間から抜けた水は、そのまま小川へ戻っていく。
一行は目を丸くする。ヴィルに至ってはモノクルをかけ直している。現代の機械式洗濯機を知っているシズクが真っ先に声を上げる。
「すごい!もみ洗いとすすぎが自動でされてる!!!」
カズオは得意げに答える。「これは俺たちのいた所……から遙か遠くの山奥で使われているヴァルトアレという洗濯器だ」
「凄い凄い!カズオさん物知りですね」
「えっ、いや、その……動画サイトの縦動画でたまたま見たことがあって。工学的に美しいのでよく覚えていたんだ」
カズオはシズクにそっと耳打ちした。シズクは一気にしらけた表情になるが、それでも一行は拍手を止めない。よほど洗濯作業が堪えたのだろう、リテアはうっすら涙を浮かべている。
「洗濯が終わったと判断したら、川の桶から洗濯物をこうして拾い上げて……」
カズオが布を棒で拾い上げる。川の水を吸ってびしゃびしゃの亜麻布を、これまた大工たちと組み上げた装置に入れる。
「これは布の水を絞り出す装置、マングルと言います。丸太が二本あるでしょう? 布を丸太の間で挟んで、片方の丸太に繋がった長いハンドルを回します。反対側にもハンドルをつけました。アルコさん、反対側のハンドルをお願いします。ええ、そうです、こうやって我々が向かい合って……アルコさんは右回りでお願いします、私は左回りでまわします。せーの!」
カズオとアルコが二人がかりで声を掛け合いながら丸太を回し始めると、ローラーに挟まれた亜麻布から搾り取った水分が滝のような勢いで出る。五人がかりで行った原始的な脱水作業の際、筋肉痛で腕がパンパンになっていたリテアは驚嘆の目で見守っている。
「これを何度も繰り返すと物干し場の洗濯縄にかけても大丈夫なくらい水分が絞り出ます。本当はもっと強い力で楽に押し潰せればいいんですが、直ぐには用意出来なさそうなので……。この作業は結構な腕力を使うので、出来れば男性陣がやったほうがよいですね。ちょっと!あぶない。回っていなくても二つ丸太の間に指は入れないでください。簡単にぺしゃんこになってしまいます。大けがしますよ」
マングルに興味を示し、近寄ってきた村人数人にカズオが釘を刺す。
「どれ、私もやってみよう。カズオ、交替だ」
オーダはこのマングルという装置そのものに興味があるらしく、アルコと一所懸命に回して、布一枚分の脱水を終えた。額に汗を浮かべたオーダが満足げに語る。
「このマングルという装置も素晴らしいな。これであの重労働から解放されるのかと思うと、大工達に倍の料金を払った値打ちがあるというものだ、十分に釣り合う」
「オーダ様、このカズオ殿の発明は領内の村中に展開するべきでは……? 各家庭の労働力が浮きます。年単位で数えれば相当量でしょう。もちろん村ごとに利用順番など取り決めは必要ですが……」
時々団子状になる亜麻布たちに棒をつっこんでほぐしながらヴィルが提案する。
「同じ事を考えていた。手配を頼む。利用料の徴収などは断じてやらないように触れも回せ。おーい、大工たちよ。この装置の要領はわかったな。都度料金は弾むからこれを領中の村ごとに順次設置してくれ」
大工達は思わぬ臨時収入が確約されたことと、この作業が生み出した「洗濯・脱水という重労働からの解放」に気づいて大歓声を上げている。その大歓声の輪から一人はずれていくカズオがシズクの視界に入った。
「現代知識無双ってやつかな。これはハマりそうだ。衣食住と事業の予算を心配しなくていいのは本当にありがたい。けどこれから本当にどうしよう……。ここのところスマホとAIに頼りっぱなしだったから、言うほど知識はないわけで、需要にハマるとも限らないしな……それにしてもコーヒーが飲みたい。あとでヴィルって人に訊いてみるか」
カズオは診療所そばの木にもたれ掛かりながら、盛り上がる村人たちを眺めながら独りごちた。
洗濯器とマングルは仕事をし続け、ついにすべての亜麻布と木綿の消毒が終わった。冬場なので空気も乾燥しているが、今日は特に日差しが暖かい。こんな日は大量の洗濯物でも乾くのが早そうだ。診療所の裏手、物干し場で青空の下、北風に吹かれてたなびく亜麻布と木綿布。大きな仕事を一つなしとげた幸せな光景をシズクは目に焼き付けている。前いた世界では決して得られなかった達成感に、手の痛みを忘れて何かを取り戻したような気がした。
——夜——
領館食堂にてオーダたちは夕餉をとっていた。黒パンとスープといった粗末なものだ。カズオはもう少しオカズが無いものかと思ったが、一般的な領民はこの献立からパン抜きと知って、食事に関しては考えることを止めた。カズオはヴィルに尋ねた。
「あの物資に関してはいつ頃到着しそうでしょうか」
「そうですね、今朝早馬を出しました故、往復で二日、中一日で、最低でも三日くらいは頂きます。それより早く届けば僥倖だと思って頂ければ」
「……そうですか。わかりました。ありがとうございます」
「カズオさん、その話ってもしかして……アレを作ってくれるんですか?」
「うん、そのつもり。ただ物資が届かないので、今はどうにも……オーダさん、俺だけ手持ち無沙汰でただ飯食うわけにもいかないので、元いた世界でやっていたことを試したいんですけど、いいですか」
「そういえばカズオは教師と言っていたな」
「そうです。一応は。聞けばこの領内の皆さんの大半は読み書きも算術もできないとのこと。そこで俺が子ども相手に板塀教室を開こう……」
食事そっちのけで書記をしていたリテアが手を止め荒い口調で挟む。
「読み書きを教える!? それがどういうことか分かっていますか?」
「分かっていますよ。俺やシズクさんの居た世界では『教育』と呼ばれていました。誰もが分け隔て無く、空気の様に手に入るものなんです」
「それは貴方の居た世界の話でしょう。ここカリデア国では読み書きは一部の特権階級に伝わる秘術です。それを領内に広めるということはこの世界の構造そのものへ弓引く行為と捉えられかねません。権力の秩序が破壊されかねない危険な行為です!」
「リテアさん、そんな大袈裟な……」
「私は知っています。読み書きを領民に教えた咎で教団直轄になった領がある歴史を。私の祖先はその時教える側になっていたため、流浪の民となりこの領に流れ着いたと聞きました。カズオさん、貴方の考えは想像以上に恐ろしいものです!」
「わかった。では読み書きではなく、算術だけならばどうか。リテアもヴィルも納得してくれるな」
普段見せない感情を露わにしたリテアの剣幕に押されたオーダが折衷案を提示する。
「……算術、ですか。まあ、読み書きはリテアさんの領分ですしね。いいですよ、まずは数字から始めましょう。それなら世界の構造を壊すこともないでしょう?」
「私は異論ございません。算術の才だけでこのお屋敷に仕えているわけではございませんし。それに算術は継承が大変な秘術ですから……」
ヴィルはお代わりのお茶を注ぎながら涼しい顔で答える。
「そうとなれば決まりですね。診療所外の板塀で昼から夕方まで算術を教えさせて貰います。いいよね、シズクさん」
——翌日昼——
カズオは石灰石を細長く割った自家製チョークを何本も抱えて診療所へと向かう。今日という日は自分の教員人生でも最もやり応えのある日になるに違いない。そういう確信があった。なにせ教えるべきなのは数字と四則演算。あまりにも簡単すぎる。こういうことであれば小学校の算数指導要領にでも目を通しておけば良かった。これで領民が家畜の数、麦の収穫高、パンの個数、税金の金額……これらをそれぞれが扱えるようになれば大革命だ。そう考えながら診療所へ到着した。外では子ども達がざっと30人は集まっている。診療所の中ではシズクとリテアが何か忙しそうに動いている。
(たった三十人か。それでも十分やり応えは感じられる数字だ)
「シズクさーん、リテアさーん、お手すきなら俺の最初の授業、見ていってくださいよ」
診療所内に声をかけて、カズオは裏手の板塀の前に立った。丸太を輪切りにした椅子——と言って良いものか——に座っている子どもは半数。残り半数は駆け回っている。
(先が思いやられるな……けど一発目が大切だ)
「みなさーん、こーんにーちわー!カズオ先生ですー!」
意を介さない子ども達。カズオは少したじろく。
(これじゃ学級崩壊じゃないか)
「今から皆さんには『算術』を教えたいと思います。算術が出来ると人生が便利になるので、是非覚えていってくださいね。それでは授業を始めます。今日は零の概念から」
カズオはそういいながら板塀に「0」を大きく書いた。
「はい、皆さん。これが何を意味するのか分かりますか?」
「せんせー、でっかい丸にしか見えません」
「うん。そう見えるかもしれない。けどこれはですね、なんと『無い』を意味するとてもとても大事な『数字』の一つです」
「せんせー、無いってのは『無い』ってことだべ。無いのに『ある』ってどういうことですか」
「そうだよ。パンが無いときは何もないよ。その丸なんてのは残らないよ。食えんのかー?」
(いきなり哲学的な話になってきた。0を持ち込んだのは失敗か……? 話を切り替えよう)
カズオは0の左隣に「3」を大きく書いた。
「いいかい、リンゴが三個あって、三個食べたら残りは0だ。それを書きとめることが必要なんだよ」
「せんせ、リンゴ三個も一度に食うわけないべ、勿体ない。だいたい、食っちまってもお腹の中にあるんだから『0』じゃねえべ?」
(カズオは視界が歪むのを感じた。だめだ。アプローチを完全に間違えた。どこでこのボタンを掛け違えた……口がひどく渇く……それでも、それでもなんとかせねば……俺は転生無双するんだろ、しっかりしろ!)
「0というのはね、位取り記数法という古代のとある国で生み出された画期的な方法で……」
「それは聖都より遠いところですかー?」
「おじいちゃんの代より昔の話ですか?」
「れ……0という空位を保持するという概念が必要で……」
「がいねん?」
「概念ってなんだ。東方の食い物か?」
診療所の中から人影が現れた。
「無いものを有ると強弁するのは、嘘つきの始まりです。カズオさん、貴方が子供たちに教えたいのは、存在しないものを数える奇術ですか?」
「違う。奇術でも詐術でもない。この0が無いと話にならないんだ……」
「話にならないのは貴方の方です。子どもの皆さん、お家の手伝いの間を縫って来てくれたのにご免なさいね。算術の学校はまた改めてやります」
「そっかー、じゃあ帰って羊追いしなきゃ」
「とうちゃんに内緒で来たから、今の時間ならバレないかな。さよならー」
蜘蛛の子を散らすように子ども達は《《持ち場》》に帰って行った。
「リテアさん、折角集まってる子ども達をどうして返したんだよ!」
「あのまま貴方が授業とやらを続けても子ども達は聞く耳を持たないでしょう。作戦を練りなおしましょう」
リテアは優しく、そして冷酷に現実をカズオに告げた。この一部始終を通りがかった教会の下働きが遠巻きに眺めていた。
それから数日、カズオは何か憑き物が落ちたように診療所の雑用を手伝い始めた。診療所は箱が用意されたものの、まだまだ患者受入体制が整ったとは言えないため、シズクもリテアも男手の新規追加に喜んでいた。いつ大流行が来てもおかしくない状況が皆を追い詰める。
——数日後の朝——
「カズオ殿、北方からの早馬が到着しましたぞ」
「ヴィルさんホントですか!やったーー!これでまた無双ができる!」
「カズオさんが叫んでいるムソウとはどういう意味ですか、シズクさん」
「いえ、私もよく分かりません……」
カズオは早馬から下ろされた荷物を見て愕然とした。麻袋で三つ。これが全てだった。
「えっ。これっぽっち!? マジで!?」
「カズオ殿、何を仰ってるんですか。この時期にこれだけの乾物を用意するのがどれだけ大変か。北方の村々を三つ回って、ようやく集めたんです。ご安心ください。次の便も手配しております。ただし牛で運ぶ手筈となっております」
「……わかりました。すみません、そんなに手間がかかる物だと思ってなくて。ありがとうございます。今あるぶんだけで頑張ります。引き続き物資の手配はお願いします」
「承知しました。何が出来るの私も楽しみです」
「……よし。作業開始だ。シズクさん、リテアさん、ヴィルさん、手を貸して。海藻にも色々あるけど、今日は迷わないように二択でいきましょう。赤い海藻だけ拾って麻袋三つ分。判断基準は赤いか、赤くないか。それだけ。これが俺たち……ひいては領民の皆さんを救うかもしれないから」
「この赤い海藻だけ拾い集めればいいんですね。皆でやりましょう」
四人がかりでも麻袋三個ぶんの海藻から選別するのには時間がかかった。全員体中から磯の匂いが漂う。
「……ふう。選別終わりですね。皆さんありがとうございます。この赤い海藻は水に晒してよく洗います。何度も何度も。大事な仕事なので……これは俺がやります」
カズオがシズクとリテアの手を見ながら言い切った。
「残りの海藻も……見た感じ一回は洗ってもらってるようですが、うーん……仕方ない。新しい麻袋を三つ用意していただけますか。残りの海藻も全て何度も洗って《《干します》》」
「えっ。それじゃあ完成までまだまだ時間が掛かるってことですか?」
「これだけ手伝って貰ったのに申し訳ない。そうなんだ……これからの工程で塩分は厳禁、俺だってやりたかないよ。あー、クソッ、ボタン一つで何でも届く世界に戻りたい……!」
カズオは頭を掻きむしりながら元いた世界を懐かしむ。
「できることをやりましょう。診療所に作ってくださったヴァルトアレで洗えば塩気はすぐ落ちますよ。あのマングルという絞り器も使えば水気だって減らせます」
「……そうですね、リテアさん、おっしゃる通りだ。ここでへこたれるわけにはいかない。赤い海藻とそれ以外の海藻、全部洗いに行きましょう」
それから海藻たちは麻袋ごとヴァルトアレで徹底的に塩抜きされ、マングルで水気を絞られ、診療所裏で一斉に干されることになった。
しばらくして、干した赤い海藻とそれ以外の海藻がカラカラになる頃、カズオが怪気炎を上げながら領館の客間でリテアから借りた紙とペンで何か計算を行っている。
「理論上はこれで行けるはず……行ってくれないと困るんだ……」
カズオは診療所の軒下、大鍋が据えてある竈を掃除していた。灰ひとつ残さず。気づいたリテアが声をかける。
「今から何が始まるんですか?」
「そうですね、ちょっとした錬金術ってやつをお見せしますよ。まあ見ててください」
カズオはそう言いながら竈で火を起こし、薪をくべた。すると竈の中に乾いた海藻をどんどんくべ始めた。あんなに苦労して選別・洗浄・乾燥まで行ったのに惜しげも無く燃やしている。
「へへ、これでいいんだ。さあ、たくさん灰を残してくれよ……」
山のようにあった海藻は全て燃え尽きてしまったが、灰の量としてはささやかなものであった。
「うわー、思った以上に少ない。これで足りるかな……」
カズオは海藻灰を丁寧に全てあつめると、貴重な広口の硝子瓶の中に入れ、事前に煮沸しておいた綺麗な水を少しずつ加えながら木べらでかき混ぜていく。
「記憶ではたしか……こう。これで炭酸塩の水溶液が取れた」
数日前から別の竈で焼き続けていた石灰石が程よく冷えたのを確認すると、布で包んで金槌で割り始めた。割り終わったら、花崗岩を削り出して作られたゴツゴツした乳鉢で焼き石灰を粉にしていく。石灰粉も広口の硝子瓶に入れて、綺麗な水を注いで木べらで攪拌する。
「これが石灰乳を沈めた上澄み。これで準備が整ったかな……炭酸塩入りの瓶から上澄みを新しい広口の瓶へゆっくりと注ぐ。その後、石灰乳の上澄みを少しずつ注いでいく……これで上澄みとして苛性アルカリができたはず」
「あとは……気が重くなるがこれだよな……」
シズクから分けて貰った木綿でマスクを作り、診療所の軒先竈でヴィルに調達してもらった羊脂を鍋で延々と煮込む作業を行う。とんでもない悪臭で、シズクから二回、リテアから三回の苦情を頂戴した。カズオは心の中で数え切れないほどの悪態をついた。それでもやらねばならんのだ、そう言い聞かせながらカズオは手を動かす。吐き気を伴うアクとり作業もこつこつ行った。
一般的な料理用鍋いっぱいなみなみの溶けた羊脂。これに苛性アルカリを少しずつ加えながら長い木べらでよく練り合わせる。反応熱が思った以上に凄い。暑い。ただこれは本当に危険な作業なので、ヴィルから借りた手袋もしているし、手に入らないゴーグルの代わりに亜麻布の穴あき鉢巻を目に巻いて両目をガードしている。しないよりはマシなレベルだ。
「シズクさーん、前もってお願いしていた香油はありますか?」
診療所の中に声をかける。
「はいはい、ラベンダーの香油が少しだけあります」
「じゃあ僕の風上に立って。決して風下に来ないようにして……そうそう……今僕が煉っている鍋に香油を垂らしてください」
獣脂、香油、劇薬の苛性アルカリ。カズオは秤もない世界で固形石鹸を生み出そうとしている。苛性アルカリを少し入れては攪拌し、香油を垂らしては攪拌する……だんだん鍋の中身が硬くなり始めた。
「おっ、これ、もしかしたら……いけたかな?」
柔らかそうな個体が出来上がった。カズオは配合比として、苛性アルカリを余すより、油脂が多くなる選択をした。ある程度は油分で手を守れれば、という考えだ。
「そしたらここで仕上げだ」
オーダにねだり倒した「強いお酒」の瓶、蓋を抜いて惜しげもなく鍋の中に注ぐ。酒精を添加することで余分な水気が抜けてまとまりが良くなるのだ。
「あとはこれを固めたら完成だ……長かった……やり遂げたぞ……シズクさーん、リテアさーん、完成したよ、《《石鹸》》が!ちょっと手頃な木箱があったら一緒に持ってきてください」
出来上がった石鹸は恐る恐る小さな木箱に入れられ、ひっくり返してブロック状になる。酒精臭の奥にラベンダーの香りがほのかに漂う。カズオは木箱のフチに残った石鹸のかけらをつまむと、診療所の井戸へ向かう。井戸水を汲んで、石鹸で手を洗ってみせた。泡が立っている。これを待っていたといわんばかりにカズオが雄たけびを上げた。
「やったぞーー! 異世界転生モノではよくあるやつを地道に、魔法も使わずに完成させた!! リテアさんも手を洗ってみてください。インクが染みついている右手を重点的に」
「はい、分かりました……不思議ですね。インク汚れが綺麗に落ちました。完全に、とはいきませんが。それに手がラベンダーの匂いで包まれています。悪くないですね」
「私、石鹸で顔を洗ってみたかったんです……」
シズクはぬるま湯で石鹸をよく泡立出せて人目も気にせず顔を洗う。
「とてもさっぱりしました。保湿力が高くて凄いですね。前いた世界にはなかったタイプの気持ちいい石鹸です」
「これでお二人が木灰で手を焼くこともなくなるでしょう。あとはこの石鹸がカチコチに固まれば本当の完成です」
「固まるのに何日くらいかかりそうですか?」
「うーん今は乾燥してる季節だし四~五日かな? 肌当たりが良くなるのはもっと先だけど……」
そこへオーダが診療所へやってきた。
「ついに完成したそうだな。万物を洗い流す奇跡の石が」
「再現性があるので、奇跡は言い過ぎかもしれませんが、今の我々にとっては奇跡の石です」
「実に素晴らしい。カズオさえよければ石鹸工房を立ち上げて大量に製造したい。海藻にも獣脂にも元々タダみたいな物だからな」
「石鹸工房の立地にはくれぐれもご注意ください。悪臭がとてもひどいですから」
リテアが綺麗になった手のひらを眺めながらも釘を刺した。




