第一章 はためくリネン(1)
八代目リテアは領館内の自室で一日の書記仕事を締めようとしていたのだが、終われない。今日は新月の夜だ。迷子が現れるかもしれない夜。
それだけの理由で、領主は毎月、領内を秘密裏に捜索している。これまでの経験上、空振りにしかなっていない。だから日報には「今月も収穫無し」と書くだけでよい。そう、先代である七代目リテアから口ずっぱく教わってきた。
だが今夜は、その「いつも通り」を書ききることができなかった。紙の上に置いたペン先が、どうにも落ち着かない。館の中が、静かすぎる。
「……遅いですね」
独り言のように呟くと、背後で茶器の音がかすかに鳴った。
「新月の夜です。遅くもなりましょう」
家令である十三代目ヴィルが、いつもと変わらぬ声で答えた。白手袋の手つきで茶葉を扱う所作に乱れはない。だが、その動きもどこか慎重に見える。
「今夜はアルコも同行しております。多少は手が足りているかと」
「それで安心できる話でもないでしょう」
リテアは紙から顔を上げずに言った。
境務官である十八代目アルコは腕が立つ。だが、新月の夜というものは、腕の立つ立たぬでどうにかなる類のものではない。館の外は、異様なほど静まり返っている。この国では、新月の夜は出歩いてはならない。月光教団最大の禁忌。それゆえ、人は家に閉じこもり、灯りも控え、息を潜める。だが、その静けさの中に、わずかな違和感があった。
「……何か、騒がしくありませんか」
リテアが顔を上げる。ヴィルも手を止めた。確かに、静寂の底に、かすかなざわめきが混じっている。人の気配が、普段より近い。
「戻られたかもしれませんな」
ヴィルがそう言った時、廊下の奥から足音が近づいてきた。扉が開く。冷たい夜気が、館の中へ流れ込んできた。
「誰か館の者は居るか。茶を淹れろ。客人だ」
その声を聞き間違えるはずがない。この領館のあるじであるオーダ・ルーメン。リテアは椅子を蹴るように立ち上がった。
「今はヴィルと私の二人です。お時間いただきますがよろしいですか」
「構わん。君らのも含めて四人前用意して応接間へ持ってきてくれ」
四人前。リテアはその数を心の中で反芻する。
オーダと、ヴィル、自分、そして——客人。
「……承知しました」
台所へ向かいながら、リテアは初めて胸の奥に小さなざわめきを感じた。今夜は、空振りではなかった。それだけではない。理由は分からない。
だが——
いつもの新月の夜とは、どこか違っていた。リテアはお湯を沸かしながら、この夜に客が来ることが何を意味するのかを考えていた。考えている間にヴィルも台所へやってきたので、お茶汲みの段取りを手早く分ける。ヴィルが盆を整え、リテアは自室へ戻って紙とペン、携帯インク壺の入った長方形の鞄を斜めがけした。こういう夜は、どうせ記録が長くなる。
応接間へ向かうと、オーダはすでに長テーブルの奥へ腰を下ろしていた。その向かいに、奇妙な身なりの少女が座っている。
少女は肩をすくめるようにして椅子へ浅く腰かけ、落ち着きなく周囲を見回していた。年の頃はリテアとそう変わらぬように見える。だが衣服は明らかにこの地のものではない。布地も仕立ても見慣れない。泥に汚れてはいるが、もとは相当に変わった格好だったのだろう。
そして何より、その顔色が悪かった。青ざめている、というより、消耗しきっている。
「……お待たせしました。お茶をお持ちしました」
リテアがそう言うと、少女はびくりと肩を揺らした。
「こちらが一族代々私に仕えている家令のヴィルと、書記のリテアだ。挨拶なさい」
「夜分にご機嫌よう。家令のヴィル・レクスと申します。十三代目を拝命しております」
「……はじめまして。書記のリテア・ライトです。私で八代目です」
少女は一瞬ためらい、それからぎこちなく頭を下げた。
「……シズク、です」
短い名乗りだった。名だけを差し出して、それ以上は今すぐ触れてほしくない、とでも言いたげだった。ヴィルが茶を配る。シズクは湯気の立つ茶碗を前にしても、すぐには手を伸ばせなかった。指先がわずかに震えている。オーダが、その様子を見て静かに口を開く。
「シズクといったな。混乱しているだろうから、状況を説明しよう。君は《《迷子》》だ」
「……」
「私はオーダ。オーダ・ルーメン。このアペルティア領の領主だ」
「……あの」
シズクは絞り出すように声を出した。
「ちょっと、待ってください。私、学校の実習中に感染して、倒れて、それで……熱が出て、息が苦しくなって……」
言葉が途切れる。自分で口にした記憶に、自分で耐えきれていないようだった。
「それから、どうして森の中にいたんですか」
リテアは答えを待ちながら、すでにペンを走らせていた。シズクの服装、声音、顔色、言葉の選び方。記しておくべきものは多い。後から読み返して意味を持つことがあるかもしれない。オーダはいつもの静かな声で答えた。
「君が森の中にいた理由は、誰にも分からない。女神の導きとも、呪いとも言われている。私は新月の夜ごとに、領内を探して回っている」
「新月……」
「この国では、新月の夜は禁忌だ。人は家に籠る。だからこそ、余所から落ちてきた者は見つけやすい」
シズクはそれを聞いても、納得した顔にはならなかった。納得できる話ではないのだろう。それでも、次に出た言葉はもっと切実だった。
「……私の家族には会えますか」
応接間の空気が一瞬だけ止まる。
「私のこと、すごく心配していると思うんです。せめて、おばあちゃんにだけでも……」
オーダはすぐには答えなかった。その短い沈黙だけで、リテアには答えの中身が分かった。
「……残念ながら、この世界へ来た迷子が元いた場所へ帰れたという話は、私は知らない」
シズクの目が見開かれる。茶碗に手を伸ばしかけた手を止めた。指先だけが縁に触れている。
「そんな……そんなの、あんまりです」
それは反論というより、事実を拒むための小さな声だった。
「……すまないな」
オーダがそう言うと、シズクはとうとう俯いた。肩が小さく震えはじめる。泣き声を堪えているらしい。リテアは筆を止めなかった。ここで沈黙を美談にしてはならない。迷子が何を失い、何を知って、どんな言葉をこぼしたか。それらは後で必ず意味を持つ。シズクはしばらくして、ようやく茶を一口啜った。
「……あたたかい」
その一言だけは、やけにはっきりしていた。
「まだ、生きてるんだ……」
オーダはその言葉を受け止めるように、少しだけ目を伏せた。それから、話題を切り替えるように言う。
「シズク、君は今、とても大切なことを見落としている」
シズクが涙の残る目で顔を上げた。
「……何をですか」
「私と君は、こうして何の不自由もなく会話ができている」
「……はい」
「だが、君は異邦の者だ。ならば本来、言葉が通じるほうがおかしい」
シズクはそこで初めて、はっとした顔になった。リテアも、ほんのわずかに目を細める。迷子と会話が通じるのは、今さら不思議と思わなくなっていた。だが、それは慣れにすぎない。確かに本来なら異様なことだ。
「ではリテア。予備の紙とペンを」
「はい」
リテアは鞄から新しい紙と予備のペンを取り出し、シズクの前へ置いた。
「シズク。君のいた世界の文字で、何か書いてみてくれ」
「……文字」
「単語でもよい。名前でもよい。君にとって自然なもので構わん」
シズクは少し迷ったあと、ペンを取った。その持ち方は妙だった。だが、慣れていない手つきではない。むしろ、この地の者よりもずっと手慣れている。さらさらと音がして、紙の上に見たこともない文字が並んでいく。リテアは息を呑んだ。
「……これは」
ヴィルも静かに紙を覗き込んだが、すぐに首を横へ振った。
「東方隊商の文字でも、聖都の文字でもございませんな」
「読めますか?」
シズクが不安そうに尋ねる。
「いえ」
リテアは即答した。
「少なくとも、私は見たことがありません」
シズクは紙を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。会話は通じる。だが文字は通じない。その断絶が、今さらのように応接間へ姿を現した。オーダが低く言う。
「やはり、言葉だけが都合よく繋がっているらしいな」
「都合よく、ですか」
リテアが問い返す。
「そうだ。でなければ、私たちは今こうして話せていない」
シズクは自分で書いた紙を見つめながら、小さく言った。
「……私のいたところでは、これが普通なんです」
「ならば、その『普通』はこの地には無い、ということだ」
オーダの声は淡々としていたが、その目は紙の上の文字を静かに追っていた。リテアはその横顔を見て、オーダがもう次のことを考え始めていると分かった。シズクはただ保護された客人ではない。少なくとも今この瞬間、この少女はこの地の誰にも読めぬ記録を持つ者になったのだ。応接間に、小さな静けさが落ちる。
応接間に落ちた静けさを破ったのは、廊下をまっすぐこちらへ向かってくる足音だった。別動に出ていた者が戻ってきたのだ、と分かった。早くはない。だが迷いのない歩き方だった。ヴィルが扉のほうへ向き直り、リテアもペン先を止める。やがて扉が叩かれ、返事を待たずに開いた。
入ってきたのはアルコだった。夜気をまとった外套の肩には、うっすらと土埃がついている。足元にも乾いた泥がこびりついていた。領館へ戻る前に軽く払ったのだろうが、隠しきれてはいない。
「戻りました」
それだけ言って、アルコは応接間の様子をひと目で見た。オーダ、ヴィル、リテア、そして見慣れぬ少女。だが驚いた顔はしない。ただ一瞬だけ視線を止めてから、すぐに主へ向き直った。
「遅かったな」
「少し南へ寄りました」
オーダの短い問いに、アルコもまた短く返す。その声音を聞いて、リテアは胸の奥がわずかに冷えるのを感じた。無駄のない報告口調だった。つまり、持ち帰ったのは雑談ではない。
「関所から、咳き込む者が増えた知らせが増えております」
シズクが顔を上げた。アルコはその反応を気に留めることなく続ける。
「下の村も見ましたが、どの家も戸を閉めておりました。ただ——」
そこで一拍置いた。
「教会の前だけ地面が荒れていました。戸板でも運び込んだのでしょう」
茶の湯気が、応接間の真ん中で細く揺れた。誰もすぐには言葉を継がなかった。新月の夜、戸口を閉ざすのはいつものことだ。だが教会の前だけ地面が荒れているというのは、いつものことではない。しかも関所筋からも咳き込む者の知らせが増えている。別々の場所の異変が、ひとつの形を取り始めていた。
「……いつからだ」
オーダが問う。
「はっきりした始まりまでは。ですが、関所筋ではこの数日。下の村は今夜のうちにも何人か運び込まれた気配があります」
「気配、か」
「新月の夜です。戸を叩くわけにもいきませんので」
「十分だ」
オーダはそう言って、わずかに視線を落とした。思考の速さだけが、応接間の静けさの底で動いている。リテアは無意識に紙へ視線を落とし、今しがたの報告を書き留めた。
関所からの咳。
下の村。
教会前の荒れた地面。
戸板。
その単語の並びが、妙に冷たく見える。そのときだった。
「……もしや」
かすれた声が落ちた。皆の視線が、同時にシズクへ向く。シズクは自分でも口に出したことに驚いたように、少しだけ息を止めていた。だが、もう遅い。全員がその続きを待っている。
「何だ、シズク」
オーダが促す。シズクは紙の上の見知らぬ文字ではなく、今はテーブルの木目を見つめていた。そこへ必死に思考をつなぎとめているようだった。
「咳き込む人が増えていて、教会へ運び込まれているなら……人を集めているんですよね」
「おそらくはな」
「それは、良くないです」
言葉が少し早くなる。
「熱のある人、咳をしている人を一箇所へ集めたら、もっと増えます。看る人も、運ぶ人も、周りの人も……」
そこまで言って、シズクははっと口をつぐんだ。
まだ確かめてもいない。何の病かも分からない。この世界の流行り病と、自分の知るものが同じとも限らない。そういう理性と、それでも嫌な予感が形を取ってしまった直感とが、顔の上でせめぎ合っていた。
「……私のいたところでも、そういう病気がありました」
静まり返った応接間で、その一言は思いのほか重かった。アルコが初めてシズクをまっすぐ見た。拾ってきた時は、息も絶え絶えの異邦人としか見えなかった。だが今の声音には、さっきまでとは違う芯があった。オーダはシズクを見つめたまま、低く言う。
「つまりシズクは、その類の病について知っているのだな」
シズクはすぐには頷かなかった。躊躇が見えた。自分の知識がどこまで通じるのか、自分でも測りかねているのだろう。それでも、ゆっくりと答える。
「……少しだけ、です。でも、何も知らないわけではありません」
「少しで十分だ」
オーダは立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、妙にはっきり響いた。
「明朝、下の村へ向かう」
リテアの手が、再び勢いを取り戻す。ヴィルはすでに次に要るものを考えている顔をしていた。馬か、供回りか、教会への筋か。そういう顔だ。アルコは壁際へ半歩退き、次の指示を待つ姿勢になる。シズクだけが、まだ椅子に座ったまま動けずにいた。自分が今、何の前に座っているのか。帰れないという現実よりも先に、別の現実がこちらへ迫ってきている。そのことを、ようやく飲み込み始めた顔だった。オーダはそんな彼女へ向き直る。
「シズク。今夜は休め」
「……はい」
「話の続きは、明日だ」
応接間の外では、新月の夜の静けさがまだ続いている。だが、その静けさの下で、領内のどこかではもう咳が始まっている。そしてリテアは、その夜の記録の末尾にこう書き足すことになる。
——新月の夜、迷子一名を保護。
同夜、領内に流行り病の兆しあり。
その夜の記録は、そこでいったん閉じられた。
シズクが目を覚ました時には、窓の外はすでに白みはじめていた。
寝台が柔らかすぎて、最初の数瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。昨夜の出来事があまりにも現実離れしていて、むしろ夢のほうが筋が通っているとすら思えた。だが、重たい毛布の感触も、乾いた喉も、見知らぬ部屋の静けさも、どれもあまりに具体的だった。
夢ではない。
帰れない、という言葉だけが、朝の頭に鈍く残っている。
慌てて身を起こし、身支度もそこそこに部屋を出る。廊下の先から食事の匂いがしていた。シズクはそれに導かれるように食堂へ向かった。扉を開けると、長テーブルにはすでに三人が揃っていた。オーダは落ち着いた様子で席についている。リテアは昨夜とは別の紙束を開いていた。ヴィルは湯気の立つ器を静かに配っている。
「……おはようございます」
シズクがそう言うと、三人の視線が揃って向いた。
「おはよう、シズク」
「夕べはよく眠れましたか、シズクさん」
「おはようございます」
寝坊したらしい、とその時になって気づいた。食卓にはもう朝餉が並んでいる。粗末とは言わないまでも、質素な献立だった。黒パン、麦粥、それに塩気の薄い汁物。腹を満たすための食事であり、楽しむための食事ではないのが一目で分かる。オーダが器へ視線を落としながら言った。
「気にするな。君を起こさなかったのはこちらだ。昨夜は色々ありすぎたのでな」
シズクは席につきながら、小さく頭を下げた。麦の匂いがする。食卓にあるもののほとんどが、昨日まで当たり前だった世界から見るとやけに素朴だった。だが、そんなことを考えている余裕は長く続かなかった。
オーダが食事の手を止め、話を切り出す。
「朝食を終えたら下の村へ向かう」
シズクは顔を上げた。
「昨夜の話の続きですか」
「そうだ。流行り始めた病の実態を、この目で見ておかねばならん」
リテアが静かに補足する。
「下の村は街道沿いです。人の出入りも比較的多い。最初の兆しが出るとすれば、まずあの辺りです」
シズクは昨日のアルコの報告を思い出していた。
関所から咳き込む者が増えた知らせ。
教会前の荒れた地面。
戸板。
嫌な符合だった。
「……私もご一緒してよろしいですか」
オーダは即答しなかった。
代わりに、シズクを頭から足先まで見てから言う。
「構わんが、その格好では目立ちすぎる。まずは着替えだ。リテア、見繕ってやれ。流石にヴィルやアルコに頼むわけにはいかん」
「かしこまりました」
食事を急いで終えたリテアが立ち上がる。シズクも慌てて後に続いた。
領館の衣類部屋で、リテアはためらいなく服を選びはじめた。毛織りの上着、長いスカート、紐で締める肌着。どれも見慣れぬものばかりだ。
「これを着てください。外を歩いても、まあ不審には見られないでしょう」
「……ありがとう、ございます」
「礼には及びません。着るのも手伝いましょうか」
「い、いえ! たぶん、なんとか……」
シズクは着替えながら、自分の服を名残惜しく見た。見慣れた世界の名残が、これでまた一つ消えていく気がした。だが、着替え終わってしまえば感傷に浸っている暇はなかった。再び食堂へ戻ると、すでに出立の気配が整っていた。ヴィルが外套を用意し、オーダは手袋をはめている。
「私は留守を守ります。必要なものがあれば戻り次第お申し付けください」
とヴィルは言う。
「シズクよ、念のため聞くが、馬には乗れるかね?」
――同日、下の村近郊――
「馬に乗れないとは、シズクはどういう所に住んでおったのだ」
オーダが半ば呆れたように言う。
「ど、どうって……私のいた所では、ごく一部の人以外、馬なんて乗らないんです!」
「シズクさん、もう少ししっかり掴まってください。落ちますよ」
前に座るリテアの声は冷静だったが、シズクには冷静でいる余裕がない。振り落とされまいと必死で、リテアの腰へ遠慮がちにしがみついている。二頭の馬はやがて下の村へ着いた。農閑期の村はもともと静かなものなのだろうが、今日の静けさには別の重さがあった。戸口の前に立つ人影が少ない。遠巻きにこちらを見る顔にも、どこか張り詰めたものがある。
村長が駆け寄ってきて深く頭を下げた。
「オーダ様、よくぞおいで下さいました」
「村長、例の流行り病の具合はどうだ」
「……街道沿いの一家三人がまとめて熱を出しまして。今は領司祭様から派遣された祈祷師たちが様子を見てくださっております」
「教会か」
「はい」
オーダは短く頷いた。
「よかろう。案内してくれ。歩きながら話を聞く」
村長は一礼して先に立った。村の中を進みながら、シズクは注意深く周囲を見ている。窓は閉じられ、道に出ている者も少ない。空気そのものに警戒が混じっているようだった。
「村長さん、すみません」
唐突にシズクが口を開く。
「その病にかかると、どんな様子になるんですか」
村長は一瞬、オーダの顔を窺った。オーダが軽く顎を引くと、彼は答えた。
「まず咳が止まらなくなります。それから熱です。触って分かるほど身体が熱くなる。最後には汗も出なくなって……そうなると、助からぬことも多い」
「それは家族ぐるみでなったりしませんか?」
「ええ。家で一人倒れると、次には家族が、ということが多い。昔からこの領を何度か襲っております」
シズクはそれを聞きながら、考え込むように自分の服の裾へ手をやった。そして、ためらったのはほんの一瞬だった。びり、と布が裂ける。
「シズクさん!?」
リテアが声を上げる。オーダも村長も振り返った。シズクは木綿の肌着の裾を裂き、人数分に分けているところだった。
「構いません」
彼女はきっぱり言った。
「お願いです。病人に会う時は、これを鼻と口に当ててください」
「その布が何になる」
オーダが問う。
「すぐ全部を防げるわけじゃありません。でも、咳や息の飛沫がまっすぐ届くのを少し弱められます。何もしないよりずっといいです」
リテアは破られた布を見て眉を寄せた。
「木綿の肌着は貴重なのですよ」
「……知ってます。でも、ここで惜しんでいい布じゃありません」
リテアは何か言い返しかけて、やめた。シズクの声が昨夜よりずっと迷っていなかったからだ。オーダは裂かれた布を受け取り、鼻と口へ当てた。
「わかった。理由はあとで聞く。村長、お前もだ」
「は、はい」
村長もおずおずと布を受け取る。そのまま一行は教会へと急いだ。扉が開かれる。
中は薄暗く、甘ったるい香が焚かれていて、空気がこもっていた。その時点でシズクは嫌な予感を覚えた。換気が悪い。人が集まっている。咳の音が響いている。通路には、患者と思しき村人一家が横たえられていた。乾いた咳があちこちから聞こえる。祭壇の前では祈祷師たちが満月の象徴へ祈りを捧げ、その傍らには水瓶が置かれていた。
祈祷師の一人が、祈りを終えると、その水瓶に手を差し入れた。シズクの心臓がどくりと鳴る。爪の間には黒い汚れが詰まっている。その手で水を掬い、寝かされた患者の唇を湿らせる。患者に触れ、そのまままた水瓶へ手を戻す。
水瓶の中へ、手が沈む。また次の患者へ。また水瓶へ。その連鎖を見た瞬間、シズクの背筋が冷えた。
自分のいた世界なら、即座に止められるべき行為だった。汚れた手が水へ入り、その水がまた別の患者へ運ばれる。ここではそれが、救いの儀式として何の疑いもなく行われている。
「……おお、聖水を……ありがたや……」
村長が小さく呟いた。その声が、シズクにはほとんど悪夢のように聞こえた。オーダとリテアは布を口に当てたまま、黙ってその光景を見ている。二人にとっては見慣れたものなのだろう。だがシズクには違った。救いではない。感染の連鎖だった。シズクはそっとリテアの袖を引いた。それから、オーダへ目配せする。オーダはわずかに頷いた。彼もまた、シズクがただならぬ反応を示していることを理解したのだろう。
三人は教会の外へ出た。冷たい外気が肺へ入ってくる。シズクはようやく呼吸を整えた。
「リテアさん」
「何でしょう」
「確認させてください。この領では、ああやって病人を診るのが普通なんですか」
リテアはためらいなく答えた。
「そうです。病も怪我も、すべて女神様の思し召しとされております。満月の時は加護が最大となり、新月はその力が及ばぬ日。ですから病に伏すのも信仰を試す一つの形だと」
シズクは目を見開いた。
「あのやり方じゃ、死が増えるだけです」
「……死が?」
「手を洗っていない。水も使い回している。病人を集めて、同じ場所で、同じ人が、同じ手で触って回ってるんです。あれでは病気が人から人へ移り続けます」
リテアは黙った。
意味が半分しか分からなくても、シズクの言葉がただの思いつきではないことくらいは伝わった。
シズクは続ける。
「リテアさん。『公衆衛生』とか、『看護』って言葉をご存じですか」
「いいえ」
「……そうですか」
その返答に、シズクはかえって覚悟を決めたような顔になった。知られていないのだ。この世界には、まだ。オーダは教会の方角を一度だけ振り返り、それからゆっくりと領館の方角へ視線を戻した。
「戻るぞ」
三人は言葉少なに村を後にした。領館へ戻ると、ヴィルがすでに応接間で茶の支度を整えていた。オーダは席に着くなり、短く言う。
「話を詰める」
リテアのペンがすでに構えられている。
シズクは一度だけ深く息を吸った。
「……あの教会のやり方は、止めたほうがいいです」
「それは分かった」
オーダは即答した。
「ではどうする」
「……隔離、が必要です」
「隔離?」
「はい。病気の人を、そうじゃない人から離す場所を作ります」
リテアのペンが走る。
「場所、とは」
「一箇所に集めるんじゃなくて、『管理するために集める』場所です」
シズクは自分でも言葉を探しながら続けた。
「看る人も、触れる人も、全部そこに限定する。外に広がらないようにする」
オーダは顎に手を当てる。
「……なるほど。ならば、それを置く場所が要る」
シズクは少しだけ躊躇い、それから言った。
「……私のいたところでは、『診療所』とか『病棟』って呼ばれてました」
その言葉が、初めてこの場に置かれた。リテアはそのまま書き留める。診療所。
「そこで、看護をする」
オーダが静かに繰り返す。
「人を分ける。触れる前に洗う。水を分ける。覆う。それと、水はできれば一度、煮てください」
「水を煮る、とは」
「沸かすんです。ぐつぐつ言うまで。そうすると、水の中の『見えないもの』がかなり弱くなります」
シズクは言葉を探しながら続けた。
「私のいたところでは、飲み水も、道具も、体に触れるものも、熱を通してから使うことがありました」
オーダは短く頷いた。
「火を通すことで、清める、か」
「……はい。そういう言い方でもいいと思います」
「……それをやる場所と、人手と、物が要るな」
シズクの指がわずかに強く握られる。
「……はい」
オーダは短く頷いた。
「よし。では準備に入る。それでは、診療所の設えを詰めようではないか」
客に茶を出す指示と同じ調子のその一言で、話は決まった。リテアは紙の末尾へ書き足す。
——看護概念の導入
——隔離の必要性確認
——診療所設置の検討開始
シズクはその文字を見ながら、自分が何を始めてしまったのかを、ようやく理解し始めていた。もう戻れない。けれど、それでいいと思った。次にやるべきことは、もう見えている。




