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第二章 ものさしと緑(3)

 同日夜。領館食堂で夕餉を終えた一同は計量法について意見を出し合っていた。ダリオは地方へ農業指導に向かっており不在だった。


「もう長さは私が()()に来た頃に定めたものがあるから当面は大丈夫なんだって」


「そりゃ当面は、の話だろ。その棒を杖代わりにされてみなよ、みるみる長さは削れていくぜ」


「じゃあやっぱり領全体の正原器制定が必用ね……」


「重さについては何か意見はあるか?」


「俺のいたところでは水の量で決めてましたよ。けどここで四角四面な入れ物を作れるかっていうと、ちょっとなぁ……」


 ヴィルは全員にお茶のお代わりを注いで回っている。リテアは議事を纏めていた手が疲れたのか、手首をぐるぐる回している。


「そうだ。ヴィルさん。東方隊商とのやりとりで、重さ基準で売買することはありますか?」


「ほとんどございません。ただ隊商の方は時折不思議な機械をお使いになられてますね」


 ヴィルはそう言うと、リテアから新しい紙とペンを拝借し、絵をさらさらと描いた。


「これ、左右天秤じゃないですか」


「そうだ、これがあれば、まず基準となる物体を乗せて、反対側に釣り合う分銅を置けば揃えられる」


「オーダさん、私、要領はわかったので鍛冶場に発注してきます。良いですね?」


「構わんよ。ただ華美な装飾などは要らんぞ」


「重さの問題はとりあえずこれで一歩進んだとして、長さの基準よね……」


「何百年も変わらず、壊れず、粗末にも扱われないもの。そんな都合のいいもの、あるか?」


 一同また黙ってしまった。


 オーダは意を決したように周囲を見渡したあと、少し小声で話し始めた。


「私の身体はどうだろうか」


「ですから、人体なんてぶれるに決まってるじゃないですか。年も取るし、縮みもするし……オーダさん、これで何回目ですか?」


「……実はな、この屋敷でもヴィルとリテア、アルコしか知らぬ話なのだが……二人とも秘密は守れるな……?」


 リテアは筆記する手を止めた。オーダは一息ついて続けた。


「私は故あって()()なのだ」


「またまたご冗談を……そんな御伽噺みたいな話、あるわけないじゃないですか」


「ファンタジーが過ぎるぜ。言って良い冗談と悪い冗談がある」


「お二人とも、オーダ様はよくご冗談を召しますが、この話は事実です」


 ヴィルが真剣な面持ちでノリコとクレイに話しかける。リテアも黙って頷く。


「……え、本当に……? 何故……?」


「マイガー、本当かよ……」


「疑うのは構わぬ。だが、私の身長も、腕の長さも、百年前から変わっておらぬ」


「無論不死かどうかは別問題だ。過去に馬から落ちたとき生死の狭間を彷徨ったことがあるが、治り方は普通の人と変わらなかった。不死かどうか試す必要もない」


「ただただ老いぬのだ。 ……これまでに数え切れないほど親しい者たちを見送ってきた。初代ヴィル、リテア、アルコ……今ではもう顔も声も思い出せぬ……」


 手を止めたままのリテアが告げる。


「初代リテア・ライトの死去がおおよそ五百三十年前とされています。少なくともこの屋敷のアーカイブには初代からの記録が残っております。記録は嘘をつきません……」


 ノリコはしばらく口を開けなかったが、はっとしたように顔を上げた。


「……ちょっと待ってください。辺境伯でしたっけ? って、まあまあ偉い人ですよね。中央の夜会とか、婚姻とか、来客とか、そのへんはどうしてたんですか? 顔を知られ続けたら、いずれおかしいってなりません?」


 ヴィルが小さく息を吐く。


「表向き、オーダ様は偏屈という話で通っておられます。中央の夜会は可能な限り欠席、来客も本邸までは入れず、外客館で済ませることがほとんどでした。婚姻の話も、社交嫌いと仕事を理由に退けてこられたのです」


 クレイが眉を上げた。


「偏屈なのは否定しないけどよ、そんなので五百年もごまかせるのかよ」


「ごまかすのではなく、そういう領主だと思わせ続けるのです。会わぬ理由も、出ぬ理由も、性分で済ませられるように」


 ヴィルは淡々と続けた。


「それでも応対せねばならぬ時は、私かアルコが前へ出ます。オーダ様は体調不良を装って退くこともありました。肖像も、あえて腕の立ちすぎぬ若手に任せて、似すぎぬようにしてきました」


「そこまでやってたんですか……」


「老いぬことは便利ではない。隠し続けねばならぬ厄介でもある。表向き、私は襲名を続けて二十四代目ということにしてある。祝福なのか呪いなのか……数百年考えても答えは出ないままだ……」


 オーダはそう言って、わずかに肩をすくめた。


 食堂の空気がすっと冷えた。ノリコは額を押さえて、しばらく天井を見たあと、やがて呟いた。


「……いや、待ってください。重い。話が重い。すごーく重い。でも結論としては、オーダさんを定規にしていいってことですよね?」


 クレイが吹き出した。


「おいおい、せめてもう少し情緒ってもんをだな」


「情緒でものさしは作れません」


「長年言い忘れていましたが、私は元居た世界では測量士をしていました。地形を測り、地図を作る仕事です。性分なんでしょうね。何でも測って、線を引いて、区切らないと気が済まないんです」


 リテアは慌てて筆を走らせ始めた。


「な・の・で…… 測量の原器を自分で作れる、という千載一遇の機会に、最高にウズウズしています。ヴィルさん、長い紐を持って来てください。さあ、オーダさん、逃がしませんよ。頭のてっぺんから指先まで測らせていただきます。ほら、立ったまま、腕を広げてください」


「……やはり黙っておくべきだったか……」


 オーダは自分が言い出したこととはいえ、渋々立ち上がり、両手を力なく広げた。


「違います。もっと目一杯広げて!!」


 その夜、ノリコはオーダの身長、肩幅、腕を左右に広げた幅、肘から指先までの長さを片端から測り、リテアはそれを逐一書き留めた。結果、腕を左右にいっぱいまで広げた時の幅を一om(オーダメートル)と定めることになった。


 重さについては、よく乾かしたダイズ十粒を一og(オーダグラム)の拠り所とし、まず領館に置くための親分銅を一つ作った。以後、売買に使う分銅はすべてそれに合わせて揃える。


 数も十倍ごとに位を上げることにした。数えるにも記すにも、その方が都合がよかったからだ。アペルティア領全体で「カズオ式の十進算術」が広まりつつあったのが下地にある。これにより、公文書のうち計量・税・収量に関わる記録は算用数字へ統一された。あるいは、従来から混在していた数字表記も、この制定を機に算用数字へ改められた。


 後日、鍛冶場では一omの正原器が一本打たれ、さらにその写しが村ごとに作られた。各村の長は、それを粗末に扱わぬよう厳命されることになる。中には「ただの鉄の棒ではないか」という顔をした者もいたが、ノリコは容赦しなかった。


「ただの棒ではありません。これから先、畑の広さも、木材の長さも、炭焼き場の区画も、みんなこれで決めます。これを疑うなら、明日から自分の畑の広さも口約束でどうぞ」


 そう言われてしまえば、村長たちも黙るしかない。


 こうしてアペルティアでは、領主の腕の幅が長さの元となり、乾いたダイズ十粒が重さの拠り所となった。奇妙ではあったが、奇妙であることと役に立つことは、別に矛盾しない。少なくともノリコはそう信じていたし、オーダはもはや諦めていた。


 ノリコは出来たばかりの正原器を見つめたまま、ふうと息を吐いた。


「これでようやく半分です」


「半分?」


 クレイが眉を上げる。


「ものさしを作っただけでは半分です。残り半分は、領地に線を引くことです」


 食堂が一瞬静かになる。ノリコは構わず続けた。


「先日作ったばかりの炭焼き場、試験畑の区画、水路を引けそうな場所、村と村の距離。今この領で進んでる話、ほとんど全部が『ここからこのへん』で済まされてるでしょう」


「まあ、そうだな」


「そういうの、あとで必ず揉めます。どこまでが誰の畑か、どの村がどれだけ働いたか。面積が分からなければ収量比較もできない。距離が分からなければ運搬も読めない。高低差が分からなければ水路なんて夢物語です」


 リテアがはっとしたように筆を握り直した。


「……つまり、地図が必要だと」


「はい。ちゃんと測った地図です」


 クレイが肩をすくめる。


「言うのは簡単だがね。誰がやるんだい、そんな気の遠くなる仕事」


 ノリコは即答した。


「私がやります。やるというか、やらせてください。原器まで作ってもらって、ここで止まるなんてありえません」


 オーダはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「よろしい。では始めようか。費用は当然私が持つ」


「何をです?」


「アペルティア全土の測量をだ」


「またそんな無茶を。時間がいくらあっても足りねぇ。少なくとも俺はやらない。細々と土をいじってたまに炭を焼く。そんなんでいいんだよ」


「私知ってますよ。クレイさんはただの肥料屋じゃなくて、元々は鉱物を扱う大きな会社に居たんでしょう。この領の山を、ちゃんと見て回りたくないんですか?」


「……そういう言い方は卑怯だろ」


「決まりだな」


 オーダはニヤリと微笑む。


「そうとなれば測量隊を組織せねばならん。ノリコ、クレイは当然として、リテア、君はどうだ? ヴィルもどうだね」


「申し訳ありません、私もそろそろ四十が見える歳ですし、十一代目…娘への引き継ぎもございますので、折角のお話ですが辞退させていただきます。代わりに息子のカラムを連れていっては頂けませんか。あの子は誰に似たのか、文字よりも数字と自然が好きなのです。見聞を広めるいい機会ですし、きっと道中お役に立つと思います」


「折角のお申し出ですが、十五代目ヴィルは老体に鞭打ちすぎました。膝がもう踏ん張りが効かないのです。十六代目となる倅をお連れいただけますか。しっかり躾けておりますので、足手まといにはならないと思います」


 斯くして測量隊員が確定した。ただ、測るだけで済む旅ではない。野盗、山賊、獣、そして領境や国境にまつわる面倒事もある。そこでアルコは、配下から腕の強さだけでなく山歩きに慣れ、口の固い者を選んで護衛と荷物持ちを手配した。さらに隣領との境や南方の国境付近では、測量隊が余計な疑いを受けぬよう、現地の村長や関所へ事前に話を通し、案内と通行のための手形まで整えた。ヴィルの倅は路銀と帳面、宿の段取りを担い、刃の届く外側はアルコが先に鈍らせておく。ある程度測量したら領館に戻り、地図を纏めたらまた測量に出る。そんな過酷な旅が待ち受けていた。


 数日後、領館前にはアペルティア度量法の触れが張り出された。領館だけではない。各村にも同じ文面が届けられ、村長の家や広場の掲示板へと順に貼り出されていった。


 領民たちは戸惑っていた。長さも重さも、昨日まで己の勘と慣れで済ませていたものばかりだ。だが、今回は違う。領主名で強く定められたお触れである。すぐには根づくまい。それでも、ものさしはもう生まれた。次はそれが、畑へ、森へ、道へと降りていく番だった。


 測量が始まった。まずは領館玄関前に杭を一本打つ。記念すべき一本目はオーダが木槌で打ち付けた。


 ノリコたちは測量開始から数日は領館周辺に木杭を等間隔で打ち、足がかりとなる基準を作っていった。杭を一本打っては移動して杭を打つ。気の遠くなるような作業である。杭と杭の間隔はとりあえず百omとした。オーダメートル原器百本分の長さの紐を多数用意したのだ。杭から紐を伸ばし、伸びきったら杭を打つ。ノリコからすれば耐えがたい精度だが、何もないよりマシである。こうして領館周辺にはほぼ正三角の間隔で杭が打たれた。杭打ちの日々が始まってからというもの、ノリコは夜な夜な自室に籠もるようになった……


 そして出立の時が訪れた。領館前の庭には、奇妙な旅支度をしている集団が集まっていた。


 剣や槍だけなら辺境伯領の朝として不自然はない。だが今日はそこに、長い紐を巻いた木枠、節ごとに印の付いた棒、先端を削って尖らせた大量の杭、紙束を油布で包んだ行李、墨壺まで加わっている。戦にでも行くのか、畑でも耕すのか、それとも祭りの準備か。見物に来た領民たちにも判じかねる有様だった。


「あ、こら、その数字でギッシリの紙『三角関数表』は本当に丁寧に扱ってね、また計算するの本当に本当に面倒なんだから!」


 ノリコは巻き紐を持ち上げながら眉を吊り上げた。ノリコは何晩もかけて手計算の三角関数表を作っていた。リテアにアーカイブを見せて貰い、先人の記録を漁ったが三角関数表は存在しなかったため、低い精度ではあるものの泣く泣く数表を作成したのである。


「厳しいねえ」


 クレイは肩に杭束を担ぎながら、まるで他人事のように笑った。


「山を歩く前から山より怖いのが居る」


「聞こえてます。次に三角関数表をおざなりにしたらクレイさんに再計算して貰いますからね」


 ノリコは即答した。その隣ではカラムが、出発前だというのにもう帳面を開いている。人員、杭の本数、紐の巻数、携行する堅焼きパンの袋数、毛布の枚数……。ひとつ読み上げるたびに、リテアが別帳へ控えていた。


「測量隊、総員八名。先導兼現地判断、クレイ。測量責任者、ノリコ。記録、カラム。算術と交渉、十六代目ヴィル。護衛二名、資材運搬、人足二名」


「立派に記録をするのですよ、カラム」


「……まだ補助でいたいです」


「駄目ですよ、ライト家の名に恥じないよう頑張りなさい」


 そのやり取りに、オーダはわずかに口元を緩めた。彼の背後、領館の門柱には、真新しい触れが朝日に照らされている。アペルティア度量法の制定。長さと重さの新しい決まり。そして、これより領内の土地を順に測り、記録していく旨と木杭を抜いてはならぬ旨が簡潔に記されていた。


 領民たちはまだ半信半疑の顔をしている。棒一本で何が変わるのか。紐を張って歩いて何になるのか。そういう顔だ。だがノリコには、むしろその曖昧さこそが我慢ならなかった。


「しかし凄い数の杭だな。これ全部打ち尽くしてくるつもりかね」


 ダリオは杭の山を見て目を丸くした。ジャガイモや豆類の作付け指導で領内巡回が忙しく、測量行に加わっていない。


「この杭ですか? 持っていくぶんには全然足りません。なので我々が測量している間も杭は作りつづけていて欲しいんです」


「わかった。リグナに使いを出しておこう。彼なら喜んで手伝ってくれるはずだ。それと私の手形は携帯しているな? 困ったときに使うといい。では出立だ。アペルティア全土を測り、明らかにしてくれ。道中くれぐれも気をつけてな……」


 その言葉を合図に、杭束が肩へ担がれ、紐が抱え直され、帳面が閉じられる。誰にとっても初めての遠征だった。敵地へ向かうわけではない。魔物を討ちに行くわけでもない。けれどノリコには、これが間違いなく領地の未来を左右する仕事だと分かっていた。剣ではなく、ものさしで国をひらく。その最初の一歩目が静かに始まった。


「それではオーダさん、皆さん、行ってきます。さあ、キリキリ歩くわよ!」


 ——数日後——


 現場主義のオーダがこれだけの事業を他者に委ねるのは初めてのことであった。領主としての仕事が無ければ自分も喜んで測量隊に加わっていただろう。


「測量隊のことがお気になさっておられますか?」


 いつの間にか冷えていた茶を交換しに同じく留守番の十五代目ヴィルが声をかけた。


「全くその通りだ。路銀も十分に与えてある、警護もつけた。それでも無事測量隊がこの領館に帰ってくる保証がどこにもないのでな……」


「殊勝なお心がけ、結構でございます。ただ、目の前に山と積まれている報告書も同じく大切なものです。領民たちが汗と土にまみれて収穫した農産物の結果にお目を通してください」


「私も息子が測量隊におりますからね。皆様にご迷惑をおかけしてないか、気が気ではありません。けど今は待つしかありません」


「そうだな……測量隊を理由に政を滞らせてはならん。これも領民のためだ」


 オーダは書類仕事を片付けつつ、茶請けの煎りダイズを囓りながら、測量隊に思いを馳せた。


 測量隊はまだ冷えの残る春先、街道沿いを北へと少し進んでは杭を打ち、紐を張り、杭を打つ、を延々と繰り返していた。カラムの手元にある大きな用紙には五百om基準の正三角が二十近く書き上がっている。


「……薄々わかっちゃいたけど、これ本当に終わんのかよ……」


「何事も始めて、積み重ねていけば、いつかは終わるものよ。はいそこ杭打って」


「容赦ねーなこのカントクさん」


 カラムは笑いながらも記録を続ける。最初は興味津々だった護衛の二人も、今では完全に気を抜いている。彼らにとっては割の良すぎる仕事だ。


「それ書き終わったら一旦お昼休憩にしましょう。歯が折れそうな硬いパンと煎りダイズ以外が早くも恋しい……」


 ——さらに数日後——


 測量隊は、磯の匂いとともに海岸線近くまで到達した。小さいながらも港町がある。当面はこの町の宿屋を拠点とし、海岸沿いを測量して回る予定だ。


「思ったよりしっかりした港町だな。灯台まであるぜ。酒場にも期待できそうだ」


「オーダさん、『海運業にも投資をしておるのだ』とか言ってたけど、本当にちゃんとしてたのね……。これなら測量もしやすいわ。けどその前に宿を決めましょう。せめて身体と髪を洗いたい……」


 宿でひと息ついた一行は、まず海岸線におおむね平行する基準線を陸側に取り、等間隔で杭を打っていった。次に、杭ごとに海辺までの距離を測る。カラムは潮風にめくられる紙と格闘しながらもその数を書き留め、ノリコは帳面の上で杭と杭のあいだを一本の帯に置き換えていった。海岸が素直な区間なら、両端の幅を足して半分にし、杭間の五百omを掛ければよい。大きく曲がるところだけは、途中に補助の棒を立てて二つに割る。


「波打ち際そのものは当てにならないわ。だから先に基準線を引くの。あとは幅を拾って足していけばいい」


 ノリコの号令のもと、一行は海岸と陸を何度も往復した。測ったばかりの数字が帳面に並ぶたび、入り組んだ海辺は少しずつ、台形の列へとほどかれていった。


 ——おおよそひと月後——


「第一次測量隊、帰還いたしました~」


 土にまみれて少しくたびれたノリコらが、領館の扉を叩く。待ちかねていたように、オーダがすぐさま出迎えた。


「おお、測量隊は全員無事であったか。息災なようでなによりだ。まずは領館で疲れを癒やすといい」


「そうしたいのは山々なんですが、先に地図を清書したいんです。オーダさんも、結果が知りたくて仕方ない顔してますし。それと頼んでおいた杭の補充もお願いします。旅の疲れを取って、食糧を補充したら、またすぐ出ないといけませんので」


「そ、そうか……では食堂を使うがよい。私も仕事を片付け次第、向かう。杭は前のとき以上に準備してある、館の者へ積ませておこう」


 ほどなくして食堂の卓上は紙と木札と帳面で埋まり、大量の茶と茶請けが脇から消えていった。カラムが記録を読み上げ、ノリコが線を引き、面積を書き足していく。やがて最後の計算とヴィルの検算が一致したノリコが、紙面から満面の笑みで顔を上げた。


「出ました。アペルティア領北部の面積は概算で八百八十ko㎡です」


 オーダはその数字をすぐには言葉にしなかった。森林に覆われて、海岸線も曖昧だったアペルティア領北部が、初めて数字を持った瞬間である。


「ただし、これはあくまで概算の広さです。山や森、村の位置もある程度は入っていますが、まだ正確とは言えません。ここから先は北部の村長たちを集めて情報を重ねれば、もっと使える地図になります。では一仕事終えたので、私はお湯を頂いてきますね」


 クレイは、忘れてた、こいつ女だったな、タフなやつめ、という表情をしながら茶請けのバターピーナッツをぽりぽり囓っていた。


「今夜は久しぶりに、ちゃんとした飯で滋養を付けたいねぇ。オーダさん、献立はよしなにお願いするよ」


「ああ、今日はささやかながらも祝宴といこう。つもる話も山ほどあるだろうしな。愛着ある領が数字で表せることに、私もしみじみ感心しているところなのだ」


 測量隊は次に西へと向かった。隣領との国境線を明確にしておきたかった。オーダは先んじて隣領領主に話をつけておいてくれており、ほぼ開発済みの地方でもあり、アルコ経由で関所にも話が通っていた、大きな混乱もなく、あっけなく測量が終わった。西方面の面積は概算で四百五ko㎡だった。


 次は東部方面の測量だ。こちらは何の境も無く、東方隊商が時折行き来し、新規開拓したジャガイモ畑が一面に広がる場所だ。どこまで測量するかが争点にはなったが、事前にオーダとすり合わせておいた「耕作地まででよい」という鶴の一声で境界が決まった。東部方面の面積は概算で五百ko㎡にも及んだ。そして開拓事業は今も行われており、この数字は増える一方になるだろう。


 東部方面の測量を終え、アペルティア領全土のざっと四分の三が明らかになった。これまでの測量による概算面積は一千七百八十五ko㎡。


 南部方面へ向かう前夜、領館では壮行会という名のささやかな宴席が設けられていた。


「ついに南部だけかぁ……北部方面の測量を始めたときは内心えらいこと始めちゃったなーって思ってたんですよ」


 珍しくエールを飲み赤ら顔のノリコが言う。


「あ、お前さんがそれ言っちゃう? 俺なんか今でも終わる気がしねえぞ」


 同じく赤ら顔のクレイがバターピーナッツを頬張りながら答える。前いた世界でも好物だったのか、領館ではバターピーナッツを片時も離さない。


「お母さん、アペルティア領ってとても、とても広いんですよ。旅に出る度、僕は本当に勉強になっています。見識が広まりました」


 カラムがリテアと妹である十一代目リテアに語りかける。


「南部には隣国『モンテメリア』との国境がある。話を通してあるとはいえ、決して粗相の無いように……」


 ヴィル親子も南部の段取りを真剣に打ち合わせている。ヴィルの言葉に、その場の空気がわずかに引き締まった。北や西の測量とは違い、南部には相手がいる。しかも山を越えた先にあるのは、地図の上の曖昧な線ではなく、隣国そのものだ。


「境務官である私の書状も用意しておきました。いざとなればお使いください」


 段取りのよいアルコは署名押印の書類を用意してきた。


「アルコさんありがとうございます。……粗相って言われてもなぁ……測るだけなんだけどね」


 ノリコは木杯を両手で持ったまま、少しだけ肩をすくめる。


「その『測るだけ』が、相手にとっちゃそうでもねえのさ」


 クレイが鼻を鳴らした。


「山ってのは昔から境の隠れ蓑にされる。どこからどこまでが誰の土地か、曖昧なままのほうが都合のいい連中もいるんだ。そこへ物差し持って踏み込むってのは、思ってるより喧嘩腰に見えるぜ」


「うっ……それ、すごくありそう」


 ノリコは顔をしかめ、それからエールをひと口だけ飲んだ。珍しく酒を口にしているせいか、いつもより表情が素直に出ている。


 オーダはそんな面々を見回し、静かに杯を置いた。


「だからこそ、先に話を通した。相手方にも、此度は境を侵すためではなく、領内の把握のための測量であると伝えてある。既に山の稜線を境にする手筈にはなっている。双方に実のある話だからな」


「その相手方が、オーダさまのお言葉を額面どおり受け取ってくれればよいのですが」


 リテアが淡々と釘を刺す。


「受け取らせるための贈り物と書状も抜かりなく届けてある。あとは現地で、こちらが礼を失せぬことだ。そもそもモンテメリアと《《今までは》》関係が良好なのでな、わかっておるな?」


 オーダの柔らかい視線がノリコとクレイへ向いた。ノリコはぴしりと背を伸ばし、クレイは口いっぱいのバターピーナッツを慌てて飲み込んだ。


「わ、私はいつだって礼儀正しいですよ」


「俺を見るなよ。俺だって相手がまともなら、わりとまともに振る舞うぜ。ちゃんと相手は選ぶ」


「それが不安でしかないのですが」


 リテアが即座に切り捨て、十一代目リテアがくすりと笑う。重くなりかけた空気が、そこで少しだけやわらいだ。


 カラムは卓上に広げられた南部の粗い下図へ目を落とした。北部や西部と違い、南側には皺のように連なる山筋が幾重にも走っている。川も道も素直ではなく、村の位置もまばらだ。そこへ国境線まで加わるのだから、難しいに決まっていた。


「でも」


 カラムが小さく口を開く。


「だからこそ、やる価値があるんですよね。曖昧なままの境を、曖昧なままにしておかない。そのために、僕たちはここまで杭を打ってきたんですから」


 その言葉に、ノリコが目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「……そう。そうなのよね。結局それに尽きるのよ。曖昧だから揉める。曖昧だから損をする。曖昧だから、誰かが勝手なことを言い出す。だったら、測ってしまえばいい」


「おお、出たな。ノリコ節」


「節で悪かったわね」


 クレイの脇腹を軽く肘で小突きつつも、ノリコの顔にはもう迷いがなかった。疲れは濃い。それでも、北から西へ、そして東へと歩いてきた実績が、彼女の中に確かな手応えを残している。


 南部は険しいだろう。国境も山も、これまでよりよほど面倒な相手に違いない。だが、だからといって引き返す理由にはならない。


 卓の上の地図には、まだ南側だけぽっかりと空白が残っていた。まるで最後まで意地を張るように。


 ノリコはその空白を指先でとんと叩いた。


「次はここ。これを埋めれば、アペルティアはようやく自分の形を知る」


 宴席のざわめきの向こうで、夜風が領館の板戸をかたかたと鳴らした。南から吹いてきた風だった。


 翌朝。鍛冶場で打って貰った大量の鉄杭が荷車に積み込まれる。山の稜線相手に木の杭は分が悪い。朽ちてしまっても話にならない。そこで国境線は鉄杭を打つ手筈となった。測量隊の出立も四度目ともなれば見慣れた光景だ。領館の庭からもよく見えるアペルティア南部にそびえ立つ山脈。もう夏だというのに未だに冠雪しており、山頂まで登る可能性を考えるとノリコは身震いがしてくる。


「俺は登山が趣味だったんだぜ。こっちに来てからあの山にはいっぺん登りたいと思ってたんだ。役得ゥ~」


 そんなノリコを察してか知らずか、クレイは鼻歌交じりで積み荷を点検している。ザイル、ピッケル、鉄ハンマー……クレイの依頼で誂えた登山道具だ。


「もう忘れ物はないか。それではまた暫しのお別れだ。皆気をつけて帰ってくるのだぞ」


 オーダは保護者のような気配りで測量隊を見送った。


 強くなった日差しの中、測量隊はいつものペースで杭を打ち、測り、記録しつづけながら南下して行った。そしてついに南部山脈谷間に位置するモンテメリア国境の村へと到着した。一六代目ヴィルが宿の手配を速やかに行う。ここからはアルコが事前に手配しておいてくれた村の山男と、南部の国境線となる山稜沿いを進む旅路となる。明日にはモンテメリアの担当者とも合流する予定だ。


 南部の山脈は、夏なお雪をいただく高山ではあるが、氷河を抱くほどではない。それでも気まぐれに霧と風が稜線をさらい、測量隊から見通しを奪うには十分だった。


「おーい、足下が何にも見えねぇ。紐は引っ張ってるけど……わかるかー?」


 霧の向こうからクレイの声が聞こえる。


「はーい、聞こえてますー。同行してる山男さんに稜線を指示してもらって、杭を打ってください」


 金属音が響く。


「あ痛ェ~~! ここ全部岩じゃねえか、杭が打てないんだけどー!?」


「そっちへ向かいますー。ロッカさんも一緒に来て下さいますか?」


 ロッカと呼ばれた無口なモンテメリア担当者はこくりと頷き、ノリコたちは張り詰めた紐を頼りに霧の中を進む。


「ようやく来たか。ここだよ。ここが稜線って言うんだけどさ」


 ハンマーの反動で痺れた手をさすりながら、稜線と呼ばれる地面を足で示す。


「ここは稜線じゃない」


 ロッカは言い放つ。


 クレイがむっとして顔を上げた。


「はぁ? どう見たって一番高ぇところだろ。こっちは山男にも確認してんだぞ」


 ロッカは首を振る。霧に濡れた髪が額に貼りついていた。


「高く見えるだけだ。そこは肩だ。風に削られてそう見える。真の稜線は、もう一段向こうにある」


「肩ぁ?」


 ノリコはクレイとロッカの間に割って入った。こういう時、感情のままに押し切らせると話が拗れる。相手は隣国の担当者だ。ここで喧嘩を始めるために南まで来たわけではない。


「……ロッカさん。そう言う根拠を教えてください。こちらも、勝手に杭を打つわけにはいきません」


 ロッカは少しだけノリコを見、それから足元の岩を杖で叩いた。


「境は、いちばん尖ったところで決まるとは限らない。水がどちらへ落ちるか、それを分ける線で決まる」


「水分け……」


 カラムが小さく呟く。


「そうだ。雨が降れば、アペルティア側へ落ちる水と、モンテメリア側へ落ちる水に分かれる。その境が稜線だ」


 ノリコは目を細めた。なるほど、理屈としては明快だ。しかも美しい。山の境を山の形ではなく、水の行方で決める。確かに、それなら誰の土地かという揉め事にも筋が通る。文字通りの分水嶺だ。クレイはまだ不服そうに鼻を鳴らしている。


「そんなの、この霧の中でどうやって見分けんだよ」


「見分けるわ」


 ノリコは即答して腰の水筒を外し、岩の上へしゃがみこんだ。まずクレイが杭を打とうとしていた場所に少しだけ水を垂らす。水は岩肌を伝って、思ったよりもはっきりと南東側へ流れていった。


「……あっちだな」


 カラムが身を乗り出す。


 ロッカは頷く。


「こちら側だ」


 ノリコはさらに数歩ずれて、今度はロッカが指した先の岩の裂け目に水を垂らした。こちらは一瞬岩の窪みに溜まり、それから左右へ細く分かれた。片方はアペルティア側の谷へ、もう片方はモンテメリア側の斜面へ消えていく。


「ここですね」


 ノリコの声が少しだけ弾んだ。


「まだ早い」


 ロッカは短く言った。


「一点だけでは足りない。線にしろ」


 その言い方に、ノリコは思わず笑いそうになった。嫌な言い方ではない。むしろ、こちらのやり方を理解している者の言葉だ。


「分かりました。クレイ、杭は一旦保留。山男さん、少し先まで案内をお願いします。水筒の水、もう一本持ってきてください。あとカラム、いまの地点を印して」


「了解です!」


 霧の中、彼らは慎重に尾根を辿った。風が強くなるたび、視界は開いたかと思えばすぐまた閉じる。見た目だけでは、どこが本当の頂きか分からない。だが数十歩ごとに立ち止まり、水を垂らし、小石を転がし、斜面の落ち方を確かめていくと、不思議と一本の筋が浮かび上がってきた。完全な線ではない。岩の露頭があり、浅い鞍部があり、風に削られた痩せ尾根がある。だが、それらは確かに一つに繋がっていた。雨が落ちれば、その左右で流れ落ちる谷が分かれる線。山そのものが隠していた境目だった。クレイが感心したように唸る。


「なるほどな……高いところ探しじゃなくて、水の分かれ目探しってわけか」


「平地と違って、山は見た目があてにならないのよ」


 ノリコは帳面の端に簡単な線を書き込みながら答える。


「一番高そうに見えるところが、必ずしも境じゃない。けど水は誤魔化さない」


「お前さん、そういう時だけ妙に格好いいこと言うよな」


「そういう時だけって何よ」


 軽口を叩き合う二人を横目に、ロッカはしゃがみ込み、露出した岩の一角を指でなぞった。


「ここなら印を残せる」


 クレイが鉄杭を持ち上げる。


「よし、ようやく打てる場所か?」


「いや」


 ノリコが首を振った。


「ここは杭じゃない。岩に刻みましょう。こんな場所、土のほうが少ないもの」


 ロッカが初めて、ほんのわずかに口元を動かした。笑ったのか、それともただ納得しただけかは分からない。


「賢明だ」


 鉄杭を打つために持ってきた大槌は、ここでは境を刻むためのノミを叩く仕事へ変わった。金属音が霧の中へ鋭く響く。山男たちが周囲を固め、カラムが刻印位置を記し、ヴィルが両国の立会いを確認する。やがて、露頭した岩の面に一本の刻みが入った。それは平地の杭ほど見栄えはしない。だが、朽ちず、流されず、雪の下でも残る印だった。ノリコはその刻みを見つめ、息を吐く。


「これで一点」


「一点ではない」


 ロッカが言う。


「ここから先も、同じように決める」


 ノリコは顔を上げた。霧の向こうに続く稜線は、まだどこまでも白く曖昧だった。


「ええ。山は面倒ですね」


「今さら気づいたのか?」


 クレイが笑う。ノリコは肩をすくめた。


「平地なら物差しで済むのに、山は水に聞かないといけないんだもの」


 風がひときわ強く吹き、霧がわずかに裂けた。白の向こうに、次の岩峰の影が一瞬だけ見える。境はまだ先まで続いていた。


 一行は国境山脈連山で最も高い山の頂までやってきた。手慣れた様子でノリコが水筒から水を垂らして分水嶺を割り出した。


「ここね。少なくともアペルティアで最も高い場所……」


 今日は珍しく雲一つ無い快晴で森林限界をゆうに超えた高山地帯なのにもかかわらず汗ばむ陽気だ。ノリコは栓を開けたままの水筒から水分を補給した。


「い~い眺めだぜぇ。ご領主さまへの土産話になるな。『私も往く』とか言いかねないけど」


「似てない物真似は止めなさいよ」


 ノリコは水を吹き出しそうになる。カラムはわざわざ持って来た板に何かを書き付けている。


「できました。これ、山頂の分水嶺に埋めるのはいかがでしょうか」


 板には『これより南、モンテメリア/これより北、アペルティア』と書かれている。


 無口なロッカがやにわに拍手し始めた。


「素晴らしい発案。そのためにこの板を持って来ていたのか」


「はい。手持ちのペンでは書き付けても読めないと思ったので、今朝の野営地で使った焚き火の消し炭をこっそり拝借して書きました。書き損じたらどうしようかと緊張しっぱなしでしたけど」


「カラム、気が利くじゃないか。炭焼き小屋の前で船こいでたガキが、いっぱしの大人になってきた」


「へへ、これでもライト家の跡取り息子ですから」


 カラムが右手で鼻の下をこすると、握っていた消し炭の炭素で鼻の下が真っ黒になってしまった。それを見てカラム以外の一同は爆笑した。カラムも何が起きたのか理解していないが、釣られて笑い始めた。一行の笑い声が遠くの山までこだまするほどに。


 この山の名前についてはアペルティア、モンテメリア双方で呼び名が違っており、政治的問題として棚上げすることにしたが、頂上には測量隊一行の測点と看板が鉄杭で打たれ、残されることになった。


 この山が『モンテメリティア山』と呼ばれるようになるのはもう少し先の話……


 ——十日後——


 南部山脈の測量は、稜線と天候に振り回されながらもどうにか終わった。快晴の日に一気に距離を稼いだかと思えば、翌日には霧に閉ざされて野営地から一歩も動けない日もある。山に聞き、水に聞き、時には岩へ刻み、時には鉄杭を打ち、測量隊はようやくアペルティア領南縁の骨格を描ききった。


 領館へ戻る頃には、荷車の荷は軽く、人足たちの顔は濃く日焼けし、ノリコの帳面だけが異様に重たくなっていた。


 食堂の卓上に広げられた地図は、もはや最初の白紙が思い出せないほどに線と数字で埋め尽くされていた。北部は八百八十ko㎡。西部は四百五ko㎡。東部は五百ko㎡。そして南部は三百六十ko㎡。ヴィルとノリコの計算が一致し、最後にノリコが合計値へ線を引く。


「出ました。アペルティア領全土の概算面積は、二千百四十五ko㎡です」


 しんと静まり返った食堂で、オーダだけがゆっくりと頷いた。


「二千百四十五ko㎡、か」


 いままではただ広いだけの領土だった。森があり、畑があり、谷があり、海があり、山があり、そして領民達すべての生活が乗っている。だがそれらはみな曖昧なまま、感覚と伝聞の中に漂っていた。それが今、初めて一枚の紙の上で形を持ち、数字を持ったのだ。文字通り《《スケール感》》が生まれた瞬間である。


 粗々しくも明確になった領境線をアルコはずっと見入っている。これまで境務官としての実務で相当苦労したのだろう。


「これまでは、どこまで追えば越権で、どこで引けば職務放棄か、全部が口伝でした。これなら関所も見張りも、ようやく胸を張って置けます」


 と安堵した様子だ。


「これでようやく、どこまでが我が領かを胸を張って言えるな。皆の者、本当にご苦労であった。今夜は祝宴といこうじゃないか」


 オーダの言葉に、クレイが鼻を鳴らす。


「形はな。けど中身はまだだ」


「その通りです」


 ノリコは間髪入れずに応じた。


「面積が分かっただけでは、地図として半分です。次はこの中身を埋めないといけません。森か、畑か、岩か、鉄か、水か。それと――」


 そこでノリコは少しだけ言葉を切り、北部の森へ視線を落とした。


「危ない場所も、です」


 カラムが顔を上げる。


「危ない場所……ですか?」


「山崩れの起きる沢、増水すると消える道、伐りすぎると禿げる森。そういうものまで分からないと、地図は人を守れない」


 食堂にいる何人かが、そこで初めてノリコの顔をまともに見た。彼女の口調はいつも通り実務的だったが、その実、わずかに硬かった。地図にする、という言葉へ妙な重みが乗っているのを、オーダは聞き逃さなかった。


「では第二次測量隊、いや……調査隊とでも呼ぶべきか」


「ええ。今度は境界線を引く旅ではありません。中身を拾いに行く旅です」


 その日のうちに方針は決まった。まずは領館北の森。ついで北西。次に南西、南東。最後に北東の岩山地帯まで足を延ばす。地図の空白に名前を与え、価値と危険を記していくための旅だ。


 そして数日後、最初の目的地である領館北の森へ入った調査隊は、そこで早くも想定外の光景を見ることになる。


 木々の隙間から見えてきた山肌は、緑ではなく土色だった。炭焼き小屋の向こう、ついこの前まで森だったはずの斜面が、見事なまでに丸裸になっていたのである。


 クレイが立ち止まる。


「……植えてねえのかよ」


 その声には呆れより先に、本気の苛立ちが滲んでいた。


 炭焼き小屋の脇で薪を割っていたフィスが、手を止めてこちらを見る。額には汗、腕にも煤がこびりついている。だがクレイの顔色を見るや、まずいものでも見たように目を逸らした。


「いや、その……植えるって、何をだよ」


「何をって、木だよ木。お前、切ったら終わりだと思ってんのか?」


 クレイはずかずかと斜面のほうへ歩き、切り株の一つを足先で示した。雨に濡れた年輪の断面はまだ新しい。その脇から、細い緑の芽がいくつも伸びかけていた。


「見ろ。ひこばえが出てる」


 フィスが目を細める。


「……ああ、切り株の根元から出るやつか」


「そうだ。木によっちゃ、切っても根が生きてりゃこうしてまた芽を吹く。こいつを何本か残して育てりゃ、次に切る木になる」


 クレイはしゃがみ込み、指先でひこばえの一本をつまんだ。


「けどよ、全部まとめて伐っちまったら、土が死ぬ。日が当たりすぎて乾くし、雨が来りゃ流れる。斜面ならなおさらだ。おまけに芽が出ても、獣に食われたり踏まれたりして終わる」


 フィスは煤だらけの手で頭を掻いた。


「そんなこと言ったって、今は炭が要るんだよ。鍛冶場でも使うし、なにより銭になる……余裕なんて無かったんだ」


 言い訳というより、ただの事実だった。悪びれているというより、本当にそこまで考えが回っていなかった顔だ。ノリコはその表情を見て、少しだけ息を吐いた。怠けていたのではない。ただ、先のことを知る者がいなかっただけなのだ。


 クレイもそこは分かったらしく、語気を荒げたままではあるが、言葉の調子を少しだけ落とした。


「炭が要るのは分かる。だから伐るなとは言わねえ。けど伐る山と休ませる山を分けろって言ってんだよ。こっちを今年切ったなら、来年は隣、その次はまた別。全部いっぺんに使うな」


 そう言って彼は斜面を見回した。


「それと、どんぐりだ」


「どんぐり?」


 カラムが首を傾げる。


「ナラだのカシだの、炭に向く木は実が落ちるだろ。秋に拾って、禿げたところへ埋めとくんだ。全部が育つわけじゃねえが、やらねえよりずっとましだ。ひこばえで戻る木と、実から育てる木、両方あったほうが山は強い」


 フィスは丸裸になった斜面と、足元の細い芽とを見比べた。


「……山ってのは、勝手に戻るもんだと思ってた」


「戻るさ。百年、二百年とありゃな」


 クレイは百年、二百年と生きる人物が一人だけ脳裏に浮かんだが、それを追い払うようにぴしゃりと言い切った。


「けどお前が欲しい炭は、来年も再来年も要るんだろうが。だったら山が戻るのを呆けて待つんじゃねえ。戻すんだよ、人の手で」


 その言葉に、フィスはようやく本当にばつの悪そうな顔をした。


「悪かった。俺ぁ、焼くことばっかり考えてた」


「炭焼きなんてのはな、焼く前の仕事のほうが長ぇんだよ」


 クレイは立ち上がって斜面を親指で示した。


「切る場所を決める。残す木を決める。芽を守る。実を埋める。そこまでやって、ようやく次がある。じゃなきゃ炭焼きじゃねえ。ただの山荒らしだ。それに何も全部お前さん一人でやれって言ってない。リグナ姓を貰ったろ。あれの本当の意味を教えてやるよ」


 クレイはフィスの方を軽く叩きながら続ける。


「一族で森を育て、守り、炭を焼けって意味だ。手が足りないなら子どもにドングリを集めさせる。それでも手が足りないなら親族を頼る。なんなら俺にだって声をかけてくれればいい」


 クレイは己の胸を拳で叩いた。フィスは何も言わず、ただ無言で切り株の脇のひこばえを見下ろし、それから深く頭を下げた。


 ノリコは帳面を開き、地図の北の森のあたりへ印を書き足した。伐採済みの斜面、再生待ちの区画、保全すべき森。これまではただ「森」としか書けなかった場所が、少しずつ別々の意味を持ち始める。


「……これも地図に載せるべきね」


 クレイが振り向く。


「何をだ?」


「切った場所と、休ませる場所と、再生させる場所。そういう区別よ。炭を取れる森と、今は取っちゃいけない森。そうやって分けないと、また同じことが起きる」


 フィスが目を瞬いた。


「そんなもんまで地図に書くのか」


「そうよ」


 ノリコは迷いなく答えた。


「宝がある場所だけじゃ足りないの。壊したら困る場所も、休ませないと死ぬ場所も、同じように残さなきゃ駄目」


 丸裸の斜面を吹き抜ける風は、森の中よりずっと乾いていた。ノリコはその感触を覚えるように目を細め、地図の余白に小さく書き添えた。


 ――伐採注意。再生要。


 この森はもう、ただの森ではない。使い方を誤れば禿げる場所として、そして手を入れれば戻せる場所として、ようやく名を持ちはじめていた。


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