第二章 ものさしと緑(4)
領館では各地の村長が地域別に集められ、ノリコたちの汗の結晶である領土地図を前にオーダが話かけていた。
「長たちよ、今回ご足労いただいたのは他でもない。長きにわたる調査の結果、このアペルティア領の姿形がついに明らかになった。この写しを持ち帰り、それぞれの村の情報を書き足して欲しいのだ。川や水車小屋、パン屋、教会、旅籠、井戸、洗濯場……民家以外の情報が特に欲しい。ご協力いただけるかな。無論距離の基準はomで頼む」
村長たちはざわめいた。
「姿形が明らかになったことは結構ですが、その分税の取り立ても細かくなるのでは……」
「うちにも測量隊は来ておりましたが、あの面妖な縄張りを真似しろと言われても困ります」
「川や井戸まで書けば、隣村との揉め事が増えますぞ」
「omで記せと言われても、村の者はまだ歩幅でしか物を知りませぬ。うちの村では前の触れがまだ馴染んでおらんのです」
期待よりも先に、不安と面倒が口をついて出るあたりが、いかにも長たちらしかった。
「違う。私が領内を見渡すための協力を求めているのだ。無いものは無いと、危うい場所は危ういと記せ。そのうえで、どこから手を入れるかを私が決める。曖昧なままでは、領主の仕事にならぬ。私は領館でふんぞり返り、帳簿だけ見て税を決めるような領主になるつもりはない。各村はこの写しを持ち帰り、知る限りを書き足してほしい」
もはや異を唱える者はおらず、村長たちは顔を見合わせ、それ以上は何も言わなかった。
そして、この押し引きの最中もオーダの心はここにあらずだった。そう、調査隊の行く末が気になって仕方が無い。肝心の調査隊は、地図の空白へ少しずつ中身を書き加えていった。
北西の西よりでは、沢筋に転がる石の色がまずクレイの目を引いた。赤黒く、妙に重い。拾い上げて割ると、断面には鈍い光があった。山肌にも同じ色の筋が幾筋も走っている。クレイはそれを見た途端、鉄だ、と言い切った。ノリコは沢の位置と露頭の場所を地図へ落とし、カラムが脇で特徴を書き留める。鍛冶場を太らせうる鉄鉱脈が眠っていた。
北西の北寄りでは、山肌がふいに赤茶けた色へ変わった。森の切れ目の向こうに、草の薄い平たい高みが横たわっている。雨に洗われた斜面を踏むと、土というより脆い石の層が靴裏に当たり、崩れた面には豆粒めいた赤褐色の塊がびっしり混じっていた。
クレイはしゃがみ込み、その塊をひとつ割った。中まで同じように赤茶けている。指先で砕くと、乾いた粉が爪のあいだからこぼれ落ちた。しばらく黙っていたが、やがて低く唸る。
「……こいつァ、ただの赤土じゃねえな。ボーキサイトかもしれん」
「ぼーき……何?」
ノリコが眉をひそめる。カラムも帳面を持ったまま首を傾げた。
「アルミニウムの原料だ。とてもじゃないが今すぐ役に立つ石じゃねえ。けど、妙に引っかかる。おい、測量屋、地図に残しとけ。北西、鉄の筋よりさらに北。赤茶けた台地。詳しい話は、今はまだいい」
ノリコは言われた通り、台地の縁と露頭の位置を書き足した。カラムも脇へアペルティアの言葉で記す。
――赤茶台地。豆粒状の赤褐色塊あり。詳細不明
クレイは立ち上がり、もう一度だけその赤茶けた地肌を振り返った。
「こういうのはな、忘れた頃に効いてくる。地図ってのは、そういう未来の種も埋めとくもんだ」
南西では景色が一変した。踏み入れるたびに地面が水を含んで沈み、草の下には黒く湿った層がどこまでも続く。クレイが切り出した土塊を焚き火へくべると、じわりと火を呑んだ。燃え尽きて灰へ移る際だけ、火の縁にかすかな青緑が差した。
「泥炭だな。薪ほど派手じゃねえが、火種には困らなくなる。ここいらの連中は木炭を買わずに済むようになる。 ……しかも、こいつァ大きなオマケが付いてきそうだぞ」
谷を詰めた先の崩れた岩肌には、さらに別の色がにじんでいた。緑がかった青。クレイが石片を削り、十六代目ヴィルが陽にかざす。
「銅、ですか」
「たぶんな。量まではまだ分からねえが、筋はある」
銅鉱脈と思しき場所から、さらに脇の白茶けた風化帯へ踏み入った時だった。クレイがしゃがみ込み、指先で脆い鉱物を削り取る。白とも灰ともつかぬ粉が、爪のあいだへぼろりと落ちた。
「こいつは驚いた。カラミン鉱まで揃ってるとは、ご領主さまはツイてんねえ」
「あの、カラミン鉱って何? 化学の授業では習わなかったんだけど」
カラムはともかく、ノリコまで怪訝そうな顔をしている。
クレイは白茶けた欠片をひらひら振って見せた。
「すげー雑に言やァ、銅に混ぜる石だよ。亜鉛って言えばいいか。こいつがありゃ、銅をそのまま使うだけじゃなく、別の合金に化けさせられる」
「銅……亜鉛……合金……あ、真鍮か!」
ノリコはそこでようやく目を見開いた。
「偉い偉い、ちゃんと学校で勉強してたんだな。そういうこった。鍋だの飾りだのでも使えるだろうが、細かい歯車や板物を作る奴がいたら、喉から手が出るほど欲しがるだろうな」
クレイはにやりと笑い、白い鉱物のついた岩肌を親指で示した。
ノリコはすぐさま帳面を開き、泥炭地、銅の筋、そしてその脇の風化帯へ印を書き足した。カラムが後ろから覗き込む。
「南西地方、すごいですね……燃料もあって、銅もあって、その……銅を変える石まである」
「その代わり、足元は最悪だけどね」
ノリコが泥まみれの靴を持ち上げる。踏み抜くたびにぬかるみがまとわりつき、歩くだけで体力を奪われる土地だ。宝はある。だが、容易く手が届くとは限らない。そういう種類の豊かさだった。
ヴィルは、露頭と湿地を見比べながら静かに言った。
「泥炭を切り出す場所と、鉱脈を掘る場所とで道を分けたほうがよさそうですね。同じ荷車では立ち往生します」
「だろうな。おまけにこの湿地を荒らしすぎると、道そのものが死ぬ」
クレイの声に、ノリコの手が止まった。
「それも記すべきね」
「は?」
「資源の場所だけじゃなくて、どこまで踏み込んでいいかも地図に書くの。泥炭地って、掘れば掘るほど得ってわけじゃないでしょ」
クレイは一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに鼻を鳴らした。
「分かってきたじゃねえか、測量屋。そうだよ。宝のありかだけ書いときゃ、人はそのうち宝ごと土地を潰す。だから今はここだけの話にしとけ」
ノリコは頷き、南西の余白へ小さく書き添える。
――泥炭地。燃料。深追い注意。
――銅筋あり。
――白色風化帯、亜鉛。
カラムがその光景を眺め、ぽつりと呟いた。
「地図って、広さを書くものだと思ってました」
「広さだけじゃ足りないのよ」
ノリコは泥炭地の向こうに広がる曇り空を見た。
「何があるか。どこまで使えるか。どこから先は壊れるか。このままだと未来に何が起こり得るのか。そこまで分かって、ようやく使える地図になるの」
南西の湿った風は、北の森とも南の山とも違う匂いをしていた。炭にもならぬ黒い土、銅の青、白茶けたカラミン鉱。アペルティアの地図は、ただ境と広さを示す紙から、少しずつ中身を持った領土そのものへ変わり始めていた。
南東は、見た目こそなだらかで広かったが、別の意味で厄介だった。雨が降るたびに水が引かず、踏めば靴がぬかるみに取られる。畑にするにはまず水はけを改めねばならない土地である。ノリコは地図の余白へ、排水路の候補と「要土壌改良」の文字を書き足した。
その窪地のいくつかには、ただの泥水とは違う、妙に黒くぬめる滲みがあった。棒でつつくと水面に薄く虹じみた膜が揺れ、鼻を刺すような嫌な臭いが立つ。
「……こいつァ、あんまり畑の近くで遊ばせたくねえ水だな。いつか使うだろうが、今は出番じゃねえ」
南東の山もまた沈黙してはいなかった――崩れた斜面の黒い層を見つけたクレイは、指先を汚して笑う。
「こいつは炭じゃねえ。石炭だ」
「これは流石に私もよーく知ってる。とはいえ現物を見たのは初めて」
燃える石があるなら、火の扱いも鍛冶も焼き物も一変する。南東も厄介な土地でありながら、深く掘れば別の富を抱えていた。こうしてアペルティアの地図は、ただ広さを示す紙ではなくなっていった。鉄、泥炭、銅、亜鉛、石炭。そして手を入れねば実りに変わらぬ土地。価値あるものも、扱いを誤れば厄介なものも、同じ一枚の上に並び始めたのである。
調査隊一行が領館に戻ると例によってオーダ自ら出迎えた。首尾を訊きたくて仕方ないらしい。旅の疲れと汚れを落とすのもそこそこに、食堂に地図を広げて土産話となった。
「ほう、本当に石が燃えている……これは木炭よりも火の持ちがよいのか?」
「そうだな、燃える温度は木炭も石炭も大きくは変わらない。ただ生み出せる熱の総量では圧倒的に石炭のが強いな」
「ならば早速鍛冶場や調理場、石鹸工房で使……」
「ご領主さん、気持ちは分かるが、石炭には但し書きが多い、とても多い。リテアさんもしっかり記録してくんなよ」
「はい」
リテアは腕まくりして合図する。オーダは静かに椅子へ座り直した。クレイは椅子の背にだらしなくもたれたまま、指を一本立てた。
「まず一つ。臭ぇ」
「臭い?」
ノリコが眉をひそめる。
「そう。石炭は煙も匂いもきつい。下手に屋内で焚けば、鍛冶場も調理場もあっという間に毒の煙と煤だらけだ。煙抜きの悪い竈じゃ、人が先に参る」
「ふむ……」
オーダの顔から、早速全部これで置き換える気満々だった色が少し引いた。
「二つ目。火付きが悪い。薪みてえにちょいと火を当てりゃ燃える、なんて気軽な代物じゃねえ。最初は木や木炭で十分に炉を熱して、それから火に食わせる必要がある」
「では、木炭が不要になるわけではないのですね」
リテアがさらさらと書きつけながら確認する。
「ならねえ。特に細けえ仕事じゃァな。火加減を繊細に見たい時や、煙と匂いを嫌う時は、まだ木炭の出番だ。フィスの仕事は永遠に無くならねぇ」
クレイはそこで三本目の指を立てた。
「三つ目。鍛冶場で使うにゃ、なおさら注意が要る。石炭は便利だが、雑に使うと鉄が汚れる。脆くなったり、妙な癖がついたりする。何でもかんでも放り込めばいいってもんじゃねえ」
オーダがふっと目を細める。
「つまり、量はある。熱も出る。だが、使い手を選ぶと」
「そういうこった。鍛冶場、石鹸工房、煮炊き、窯場――向き不向きがある。全部一緒くたにしちゃ駄目だ」
「最後に一つ。石炭ってのは掘り当てりゃ量が出る、少なくとも俺の知る土地じゃそうだった。 ……そりゃ岩塩には敵わないが、歩留まりは悪くない。ただ、掘るにしたって大規模にやらないと意味がない。坑夫だって今日明日いっせーので集まるモンでもないだろ」
ノリコは地図の南東へ目を落とした。石炭の印、その脇に書きつけた「要土壌改良地」の文字。豊かなのか厄介なのか、一目では決めきれない土地ばかりだ。
「便利な資源ってわけじゃなくて、扱いの難しい資源なのね」
「便利だよ。便利だが、楽じゃねえ」
クレイはあっさり言った。
「木炭一Kogと石炭一Kogでは生み出す熱の総量じゃ木炭なんざ話にならねえくらい出る。だがそのぶん、雑に使えば煙も煤も厄介さも増える。要は、木炭とは別の流儀が要るってことだ」
カラムが感心したように口を挟む。
「じゃあ、石炭が見つかったからといって、いきなり皆が幸せになるわけではないんですね」
「そんな都合のいい石があったら俺が枕に詰めて寝るわ」
「それは嫌です」
「即答かよ」
食堂に小さな笑いが広がる。だがリテアの筆は止まらない。
「石炭、屋内利用には煙抜き必須。火付き悪し。木炭の代替ではなく補完。鍛冶利用には要注意……このようなところでしょうか」
「上出来。あと、掘り出すにも道が要る。もし掘り当てたとしても、あの山からどうやって石炭を運ぶ? 南東のあのぬかるみのままじゃ、よくできた馬でも牛でも逃げ出すぜ、あれは」
クレイは地図の南東を爪先で示す。
「まず排水だ。地面を乾かす。道を通す。話はそれからだな。あと、南東には石炭とは別に、臭ぇ黒水の滲む窪地もあった。今すぐどうこう出来る代物じゃねえから、印だけ付けといたがな」
「なるほど……」
オーダは腕を組み、今度は安易な喜色を見せずに地図を見下ろした。
「資源とは、見つけた瞬間に使えるものではないのだな」
「見つけた瞬間に厄介ごとが一つ増える、の間違いじゃないかしら」
ノリコが疲れた声で言うと、クレイがにやりとした。
「ようやく分かってきたじゃねえか、測量屋。宝ってのはな、掘り当てた瞬間に『さて、どうする』が始まるんだよ」
オーダはその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「よい。ならば急がぬ。南東の石炭は、まず印だけ付けておこう。先に道と排水、それから使い道ごとの試し焚きだ。鍛冶場には鍛冶場の、工房には工房の流儀があるのだろう」
「賢明だねえ、ご領主さま」
クレイが珍しく素直に褒めると、オーダはわずかに口元を緩めた。
「領主たるもの、石が燃える程度で舞い上がってはならぬ、ということだな」
「さっきまで舞い上がってた人が言うと味わい深いわね」
ノリコが呆れ半分に返すと、今度は食堂のあちこちで肩を揺らす者が出た。
だが笑いの収まったあとも、卓上の地図は静かにそこにあり続けた。南東には石炭と黒い臭い水。南西には泥炭と銅、それに白茶けたカラミン鉱。北西には鉄。北の森には再生待ちの斜面。危うい場所も、価値ある場所も、同じ紙の上に並んでいる。ノリコはその一枚を見つめ、ふと呟いた。
「広さが分かっただけじゃ、やっぱり半分だったわね」
「まだ半分なのか?」
「ええ」
ノリコは指先で、今度は地図の北東側、まだ印の薄い岩山地帯をとん、と叩いた。
「次はここ。北東。岩山と湿地が入り混じってて、まだ白い。――中身を埋めに行かないと」
オーダはその指先の先を見た。黙って見た。それから、ゆっくりと息を吐いて呟いた。
「……もう我慢ならん」
「はい?」
「ここまで聞かされて、領館に残っておれというのは酷だと言っておるのだ」
「まさか」
ノリコが呆れ顔で目を細める。
「そのまさかだ。ヴィル、リテア、アルコ、悪いが留守番は頼んだ。いつ出立する? 次の調査には私も同行する」
冬の足音が聞こえてきそうな季節だった。秋風の中、領主一行が通りすがる村々は収穫と冬の支度で忙しそうだ。一行の顔ぶれは、オーダ、ノリコ、クレイ、カラム、十六代目ヴィル。そして念のための護衛二名と雇い人足二名。それと荷馬車が一台。
目標は領内北東部の山岳地帯に位置する果ての北東村。山沿いに北上していくルートを選択した。主にオーダの主張によるものだ。クレイの山師の勘が何かを見つけるのを期待しているらしい。野営が増えることに難色を示したクレイやノリコだが、オーダの決定を覆す権利は、生憎とこの領内で誰も持ち合わせが無かった。
山の麓、もやが立ちこめる野営明け。天幕から起き抜けたクレイが、顔を洗おうと近くの沢に向かう。冷たい水で顔を洗ったあと、沢に目をこらす。しゃがみ込み、沢筋の砂を掌ですくって水で洗う。軽い砂が流れたあと、底に妙に重たげな黒い粒と、鈍い灰色の欠片が残った。
「……ここまで来ると、俺の『勘』ってヤツはスゲエな……引くわ」
他の皆も起きだしてきたようだ。朝食用の焚き火の準備をしている。
「皆、朝飯のあとちょっといいか。あー、測量屋は地図を持ってくるように」
「何よ、今度はついに砂金でも見つけたの?」
「ンッンー……当たらずとも遠からずってとこかな。さあ、気になるならメシをさっさと食べる」
「まだ火も起こしてないのに気が早すぎ」
朝食もそこそこに済ませた一同はクレイの案内で沢へ来た。
「ここなら朝ご飯の水を汲みに来たわよ、他に何があるの」
「ようし、ちょっと見てろ」
クレイは沢縁にしゃがみ込み、朝食で使っていた平たい木皿を一枚取り出した。沢筋の砂を二掬いほど盛ると、水ごとすくい上げ、皿をゆっくり揺すり始めた。
「何してるんですか、それ」
カラムが身を乗り出す。
「こうすっと、重たいものだけが残るんだわ。砂利も砂も、だいたいの連中は水に揺られると先に逃げる。これで砂金なんかも集めることが出来るぞ、出るところならな」
「ほう、金もこのように集めるのか」
「えー、俺が居た世界では長年使われてた基本技術でね、パンニングって言うんだわ。誰でも皿一つで砂金が集められる『かもしれない』」
木皿の中で砂が薄く広がり、濁りが下流へ流れていく。クレイは手慣れた手つきで手首だけで皿を揺すり、時おり沢水を掬い足した。何度かそれを繰り返すうち、皿の底に黒い粒が筋になって寄り、鈍い灰色の欠片がいくつか顔を出した。
「ほらな」
クレイは皿を皆へ向けた。ノリコが目を細める。
「……黒い砂と、石の欠片にしか見えないけど」
「そう見えるなら正常だよ。山師ってのは、そういう『ただの石』に人生を狂わされる連中なんだ」
クレイは指先で黒い粒を寄せ、次に灰色の欠片を爪でひっかいた。柔らかいのか、表面に白っぽい筋がつく。
「こっちの黒い重砂は砂錫の気配がある。で、こっちの鈍い灰色はたぶん鉛だ。どっちも沢が上から運んできたもんだな」
「……待ってください」
ノリコの声色が変わった。
「錫と鉛、ですか」
「当たりならね。まだ『当たり』とは言わねぇ。沢に落ちてるってことは、上流のどこかに親玉が居るってだけだ」
オーダとヴィルが皿を覗き込みながら首を傾げる。
「領民の生活はどう上向くのだ?」
「その二つ、見つかると何が変わるのですか?」
クレイは待ってましたとばかりに笑った。
「錫は銅と合わせりゃ青銅になる。鉛は柔らかいから重りにも板にもなるし、細工もしやすい。焼き物の釉薬やら何やら、使い道は山ほどある。要するに、鍛冶場も窯場も喜ぶってことさ」
「……山を歩いた甲斐がありましたね」
ノリコがぼそりと言う。
「まだ早いって。俺はいま『匂いがした』って言ってるだけだ」
「山沿いを行こうと主張した私の采配も悪くなかったな」
「オーダさまさすがです」
皆が談笑している間も、クレイの目はもう沢の上流を追っていた。谷は朝霧の向こうへ細く続き、その先は山肌の陰に消えている。水は冷たく澄んでいるが、ところどころ川底に黒っぽい筋が沈んでいるのが見えた。
カラムが帳面を開く。
「記録します。山麓野営地そばの沢にて、重砂中に黒色重粒および灰色の軟質片を確認。クレイさんの見立てでは、砂錫と鉛鉱の可能性……で良いですか?」
「いいねえ。すっかりそれっぽいじゃないか」
「可能性、と付けるのが大事です。断定はまだ早いので」
ノリコが即座に補足した。
「よろしい。では地図を」
ノリコは油布に包んでいた地図を広げ、膝をついて沢筋を追った。杭打ち済みの基準線、今朝の野営地、眼前の沢、そこから見える尾根筋。まだ荒いが、地図の上ではもうこの場所がただの山裾ではなくなっている。
「ここですね。領館から見て北東、山沿いの沢。予定していた北東村はこの先……たぶん半日強」
ヴィルが地図の端を押さえた。
「予定を変えますか?」
オーダは少し考えてから首を振った。
「いや、変えないほうが良いだろう。この先の北東村が目標のままで良い」
クレイは沢の黒砂をもう一度指先でつまみ、川へ戻した。
「ご領主さま、賢明な判断をなさったね。こういうのは、村の年寄りが案外知ってる。『川でやたら重い黒砂が取れる』『妙に柔らかい灰色の石がある』『子どもが拾って遊ぶ』『焚き火に放り込むと変な匂いがする』……そういうどうでもいい話が、山の正体だったりする」
ノリコが頷いた。
「聞き取りかぁ」
「そう。測量だけじゃなくて、地元の記憶も拾う。数字だけじゃ山は喋らないからな」
「野営道具を荷車に積み戻したら北東村へ向かう。ただし今日から目的地でやることが一つ増えた。村を測る。道を聞く。ついでに山の噂も拾う」
「ついで、で済ませるには大物すぎませんか」
「山師はな、確証が出るまでは全部ついでって顔をするもんなんだよ」
ノリコは地図を巻きながら小さく息をついた。
「では記録を改めます。本日の目的。北東村への到達、周辺地形の測量、沢筋と山肌に関する聞き取り。それから——」
一拍置いて、クレイを見た。
「鉛と錫の、尻尾を踏むこと」
クレイはにやりと笑った。
「そう来なくちゃな」
領主一行は地図を片手に領内北東部の、そのまた最奥へ向けて歩いていた。油紙に転写した地図を片手に先頭を歩くのはクレイだ。オーダが依頼し、領内の各村長らに書き込ませた絵中心の地図情報も相まって、視界に入ってくるどれが何か、といった情報が掴みやすくなってきた。
「そろそろ北東村が見えてくる頃だ……村まで二komってとこかな。地図ではこの村から先には何もないってことになってる」
クレイがそう言った矢先、枯れ草の向こうに低い柵と煙が見えてきた。北東最果ての小村にしては、思ったより人の気配がある。領内でも一足早く秋の終わりが近いらしく、干した根菜や刈り束が軒先に並び、寒さへ備える手つきが村全体に満ちていた。そこに領主自ら現れたのだから、村の者たちはさすがに慌てた。すぐに村長らしき老人が駆けてきて、帽子を胸に抱え込むようにして頭を下げる。
「こ、これはオーダさま。このような辺鄙な村へ、ようこそ……」
「急な訪問で済まぬ。少し聞きたいことがあってな」
オーダが穏やかに言うと、老人は少しだけ肩の力を抜いた。ノリコはその脇で、油紙の地図と目の前の家並みとを見比べる。確かに、ここまでは写しに書き込まれた絵と大きくは違わない。井戸、納屋、共同の竈、羊小屋。だが問題はその先だった。
ノリコは地図の東側、白いまま残った余白を指で叩いた。
「この先です。この村より東。地図には何も描かれていません。人が住んでいないのか、それとも書き漏らしなのか、それを知りたくて来ました」
老人の顔がわずかに曇る。
「住んでおりませぬ。昔から、この先には家は建てぬことになっております」
「どうして?」
ノリコはすぐに問い返した。老人は口を開きかけ、しかしすぐには答えられないようだった。隣で聞いていた若い男が、代わりに言葉を継ぐ。
「鳥の湿地があるんですわ」
「鳥?」
カラムが首を傾げる。
「春と秋にようけ来るんですよ。で、昔から言われてます。あっちへは踏み込みすぎるな、石より先に小屋を建てるなって」
「石?」
今度はオーダが反応した。老人は諦めたように頷いた。
「ございます。村のはずれに古い石が。わしの爺さまの、そのまた爺さまの頃から立っておるとか……」
クレイが鼻を鳴らす。
「ほう。行って見せてくれよ。こういう話は、だいたい石のほうが正直だ」
村長に案内され、一行は村の東端へ向かった。家並みが切れ、畑が痩せた草地へ変わり、やがて風当たりの強いわずかな高みへ出る。そこに、半ば傾いた石柱があった。人の背ほどの高さもない。上部は欠け、文字らしき刻みは長年の風雨に晒され読めない。ただ、表面には鳥に見えなくもない印と、その下に一本の横線が残っていた。ノリコはしゃがみ込み、石の表面へ指先を当てる。ざらついた感触の中に、たしかに人の手で刻んだ痕があった。
「……昔は何か書いてあったのね」
「さあ、意味が分かるものはこの村に誰一人として居りませぬ」
老人は困ったように言った。
「ただ、石より先に家を建てるな、春の水の時は近づくな、鳥の来る間は騒ぐな……そんなことを、年寄りどもは言っておりました」
「春の水?」
ノリコの手が止まる。
「雪解けの頃になると、向こうの低地は水が広がるんです。沼とも川ともつかん有り様になります。けれど、何年かに一度は大したこともなく終わる。だから若い者は、ただの年寄りの脅しだと思ってる」
若い男が肩をすくめた。
「正直、俺らにもよく分からんのです。鳥が神様の使いだとか、荒らすと不漁になるだとか、そういう話ばかりで」
「でも、石は残ってるのね」
ノリコは石柱から目を離さずに言った。
「ええ。何となく、壊しちゃいかん気がして」
その『何となく』に、ノリコの胸の奥がひやりとした。危ない。その一言だけが、妙に鮮明に頭の中へ浮かぶ。危ないとだけ残されて、何がどう危ないのかが失われる。禁忌だけが殻のように残り、中身は風化する。けれど石は立っている。誰かが、ここで止まれと確かに言おうとした証だけが、理由を失って残っている。
「ノリコさん?」
カラムが心配そうに顔を覗き込んだ。ノリコは気づかぬうちに、石柱を握る指先へ力を込めていたらしい。慌てて手を離し、小さく息を吐く。
「……ごめん。ちょっと、考え込んだだけ」
オーダはその横顔を静かに見ていたが、すぐには何も言わなかった。代わりに石柱の前へ進み出て、村長へ向き直る。
「この石より先に小屋を建てた者は、本当におらぬのか」
老人は首をひねる。
「わしの知る限りでは……昔、狩り小屋を出した者がおったとか。けれど雪解けの年に流されたとも、鳥を追って祟られたとも聞きます。話が古すぎて、どれが本当やら」
クレイが鼻で笑った。
「祟りか増水かは知らねえが、理由のある禁足を、後の連中が面倒だから女神さんのせいにした匂いがするな」
いつもならここで突っ込みを入れるノリコが黙ったままだ。オーダが石柱の横線をなぞるように見た。
「理由を失った警告、か」
その言葉に、ノリコは思わず顔を上げた。オーダは彼女を見なかった。ただ石を見たまま続ける。
「それでも石が残っていたということは、昔の誰かが、ここで止まれと伝えたかったのだろう」
ノリコは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。書いただけでは駄目だ。立てただけでも駄目だ。理由が伝わらなければ、いつか「ただ古い石」にされる。蓋をして思い出さないようにしていた、今となっては遠い記憶……
ノリコははっと我に返り、村長に話しかける。
「……村長さん、この村に宿はありますか? 私たちもうヘトヘトで……」
「んだよ、疲れてただけなのか。けどそういう意味なら俺も賛成だ。夕飯時だもんな、腹が減ってきてる」
「というわけで、長よ、すまぬが宿の案内を頼む。宿が無いのであれば空き家でも構わない。空き家もなければ野営の許可を頂けるかな」
「めっ、滅相もない。ご領主さまがわざわざいらしたんです、夜露に当たらせるなんてことがあれば、この村の名折れです。ただ生憎旅商人も立ち寄らぬ辺鄙な村。普段は誰も使っておらん一軒家がございます。そちらをご案内いたしましょう」
「済まぬな。助かる」
一行は村長の案内について行く。ノリコは隊列の最後尾になり、何度も石柱を振り返った。
村からの新鮮な根菜の差し入れと、荷馬車に積んでいた食材とで夕食を済ませて、少し早いがオーダとカラム以外は床に着いた。やはり領はずれともなれば陳情の機会も少ないらしく、あれやこれやと要望を聞かされていた。
オーダとカラムが家に戻ると、ノリコが寝床でうなされていた。涙も流している。
「ノリコ……大丈夫か、ノリコ。カラム、すまんが茶を淹れてやってくれるか…… 落ち着いたようだな。どうしたノリコ。いつもらしくないではないか」
「……みっともない所お見せしてすいません。 ……少し長くなりますが、思い出話に付き合っていただけますか?」
「ああ、構わんよ。秋の夜は長い」
「それでは……今日の夕方、村の奥で、石柱に出くわしましたよね。警告とも注意とも脅かしともとれる意味のわからない石柱」
「ああ。カラムでも読めないのであれば、ここに居る誰もが意味は分からんだろうな」
「……おそらく私、意味がわかりました。それで昔のことを思い出してうなされていたんです」
ノリコは過去、身に降りかかった厄災をぼそりと語り始めた。
「私が測量士として働き始めて一年が過ぎようとした春先、地元で突然ものすごく大きく地面が揺れました。それはもう立っていられないくらいです。 ……そしてしばらくして、海沿いの景色が一変しました。海の水が一気に引いていったんです。そして少し間を置いて、海から大水が押し寄せました」
ノリコはうつろな目で続ける。
「……領内に中央教会がありますよね。あれの鐘楼くらいまで届く高さの大水です。大水はずっと陸を洗い続け、私の家族も、住んでいた家も働いていた場所も、何もかも、何もかも全てを押し流していきました…… ちょうど私はその時、丘の上で地形を『測る』仕事をしていたので、免れてしまったのです……」
カラムが筆記をしようとした手を止めさせ、オーダは黙って聞いている。
「何のために『測る』仕事をしていたのかも話すべきでしょうね。 ……こういった海からの大水があったとき、どこまで逃げれば助かるのか、大雨が降ったとき、どの斜面が危ないのか、そういう危険な場所を地図に記すためだったんです。それなのに皮肉ですよね。私だけ生き延びてしまって……」
「それからしばらくして、大水が来なかった内陸から、石碑が見つかりました。それには古い言葉でこう書かれていたそうです。『ここより海側へ住んではならぬ』。遙か過去の人が既に警告を残していたんです。それなのにいつの間にかその石碑が忘れ去られ…… 過ちとは言いませんが、人は忘れるんです。どんなに想いを込めて何度警告したって……」
そこでノリコの声が切れた。部屋は静寂に包まれている。カラムは何か言おうとして、結局、何も言えずに唇を引き結んだ。オーダはすぐには慰めの言葉を口にしなかった。軽い慰めで済む話ではないと、分かっていたからだ。静寂を破る声が聞こえた。
「なあ、『チェスタトンの柵』って言葉を知ってるかい?」
クレイの寝床からだ。
「……あなたいつから起きてたの!?」
「ノリコがうなされていた時から。起こそうかと思ったら二人が帰ってきてさあ。悪いけど全て聞かせてもらったよ、なかなか切り出す機会が無くてね、そこは悪かった。……あの話を直接当事者から聞くのは初めてだがね」
「……本当に配慮ってものがないのね」
「まあ聞いてくれよ。昔あるところに住んでいたチェスタトンという作家が本の中でこう書きました。『柵や門は自然に生えてきたのではない。夢遊病者や変人が寝ぼけて建てたわけでもない。誰かが、何らかの理由で、誰かのために良いと考えて置いたのだ。だから、その理由が何だったのか分からない限り、その理由が妥当だったかどうかも判断できない』ってね。これが『チェスタトンの柵』の意味だ。今の俺たちが置かれた状況に似てるよな」
クレイは寝床の上で寝返りを打ち、天井を見たまま続けた。
「石は残ってた。けど理由が死んだ。だから禁足だけが迷信になった。お前が悔いてるのはそこだろ、ノリコ」
ノリコは返事をしなかった。返事をしなかったというより、できなかった。
「……はい」
やっとそれだけ絞り出す。
「だったら、今回はそこまでやりゃいい」
クレイはあっさり言う。
「危ねえ場所を地図に書く。石も立てる。けどそれだけじゃ足りねえ。どうして危ねえのか、何が起きるのか、いつ駄目なのか。そこまで残すんだよ。柵は理由ごと残らなきゃ、いつかただの邪魔物になる」
オーダが静かに頷いた。
「その通りだ。石だけでは足りぬ。触れを出そう。村長にも読ませよう。子らにも分かる言葉へ直させよう。禁足は禁足のままでは弱い。理由を伴ってこそ残る」
カラムが思わず身を乗り出す。
「じゃあ、地図の余白に書くべきなのは、場所だけじゃないんですね」
「ええ」
ノリコは目元を拭い、ようやく顔を上げた。
「場所だけじゃ足りない。何が起きるか、どこまで来るか、どう逃げるか。そこまで書いて、やっと警告になる」
しばらくの沈黙のあと、ノリコは小さく、しかしはっきりと言った。
「……明日、あの石柱より先を見に行きましょう」
オーダが視線を向ける。
「春の水がどこまで広がるか、鳥の湿地がどこにあるか、逃げ道がどこで途切れるか。全部拾います。今度は『危ない』だけで終わらせません」
秋の夜は深かった。だが、その深さの向こうに、明日の仕事は確かに見えていた。
翌朝、一行は村はずれの石柱の前に立っていた。案内してきた村長は、何度も帽子を握り直しておろおろしている。オーダはそんな彼に、改めて静かに告げた。
「これより先は、我々が自らの判断で踏み入る。そこで生ずる危険も責任も、何もかも我々が負う。構わぬか」
「オーダ様がそう仰るのなら、我々には止める術がありませぬ。どうか、お気を付けて……」
村長に見送られながら、一行は石柱の向こう――禁足地へ足を踏み入れた。
石柱の先は、すぐに湿地帯へ変わった。枯れかけた葦が風に鳴り、足を置くたび黒い泥がぬるりと靴裏へまとわりつく。見通しは悪くないのに、どこか息を潜めたような静けさがある。静かなくせに、生き物の気配だけは濃い。水辺のあちこちで鳥が動き、羽音が上がり、遠くで短く鋭い鳴き声が交わされていた。
「……たしかに、鳥だらけね」
ノリコが呟く。
「村の連中が気味悪がるのも分からなくはねえな」
クレイが泥を踏み抜きながら返した。
一行は湿地を南から北へと慎重に横切った。やがて葦原が途切れ、眼前が急に開ける。そこには切り立った崖があった。前に海岸線を測った時は、崖下からただ遠目に海を見ただけだった。だが今は違う。ここから海岸までは目算で一kom以上、しかも高低差は四十omほどある。落ちれば助かるまい。
崖の表面は一面、雪のように白かった。岩そのものの色というより、長年積もった鳥の糞がこびりついているのだろう。白い壁のあちこちに無数の影が貼りつき、時折一斉に羽ばたいては、また同じ場所へ戻っていく。
「この三日月みたいに曲がった嘴……」
カラムが目を凝らした。
「春と秋の営巣……月嘴鳥だと思います」
「ええ、間違いないでしょう」
ヴィルも頷く。
「大陸北岸広くに渡る鳥ですが、こうまで大きな営巣地は珍しいはずです」
月嘴鳥。大陸北岸におびただしい数で渡来し、その特徴的な三日月型の嘴から教団が季節を告げる聖鳥として扱っている鳥だ。猟に興じないオーダなら普段は流していた話だろう。だが今は、彼の中で点が線に繋がったようだった。
「私の中で二つの仮説が組み上がった」
オーダは湿地と石柱と崖を順に見やる。
「一つ目。春、山の雪解け水によって、この低地は大水に呑まれる時があるのだろう。村人の言っていた『春の水』とはそれだ。なるほど、それなら石より先に家を建てるなという警告にも筋が通る」
ノリコは黙って耳を傾けている。
「二つ目。この禁足には、教団が後から意味を被せた可能性がある。月嘴鳥は食うはおろか、捕えることすら禁じられた鳥だそうだな。もともとは大水への警告だったものへ、聖鳥を守れという理屈を重ねたのかもしれぬ」
「両方、かもしれないわね」
ノリコがようやく口を開いた。
「本来は危険だから近づくな、だった。けど長い年月のあいだに、危険の理由は剥がれ落ちて、代わりに『聖なる鳥がいるから』のほうだけが残った。……そういうことなら、石柱の意味が分からなくなったのも説明できる」
クレイがしゃがみ込み、葦の根元をかき分けた。そこには泥と一緒に、枯れ枝や草屑が帯のように引っかかっている。彼は無言でそれを指差す。
「見ろ。この高さまで流れてきた跡だ」
葦の半ばより少し上。大人の膝どころではない。
「ここまで水が来るんですか」
カラムが思わず声を上げる。
「毎年じゃねえ。だが一度来りゃ、家も家畜も流すには十分だな」
さらに少し進むと、泥の中から朽ちた柱穴の跡が見つかった。かつて何か小屋のようなものが建っていたのだろう。だが土台は傾き、木片は半ば埋もれ、もう人が住んだ形跡とは呼びがたい。
オーダが低く言う。
「……村の伝承は、完全な迷信ではなかったな」
「ええ。むしろ逆です」
ノリコは石柱のほうを振り返った。
「ちゃんと理由があった。けど、その理由が伝わらなかった」
風が吹き抜け、白い崖から月嘴鳥の群れが一斉に舞い上がった。影が空を横切り、湿地に落ちる。ノリコは油紙の地図を開き、石柱の位置、湿地の広がり、崖の位置、そして葦に残った流木の帯の高さを次々と書き込んでいく。書く手は速いが、もう震えてはいなかった。
「石柱の位置を禁足の境にするだけじゃ足りない」
彼女は誰にともなく言う。
「春の水がどこまで来るのか。逃げ道がどこで死ぬのか。鳥の来る季節に、何をしてはいけないのか。そこまで残さないと、またただの古い石になる」
オーダが頷いた。
「ならば、今回は理由ごと残そう」
ノリコははっきりと答えた。
「今度は、危ないだけで終わらせません」
クレイが鼻を鳴らす。
「だったらまずは、どこまでが本当に沈むのか見切らねえとな。村へ戻る前に、北の高みも押さえとくぞ」
「賛成です」
カラムが筆記板を抱え直した。
「月嘴鳥の営巣地と、春の増水域と、石柱の位置。全部つながってきました」
ヴィルも静かに続ける。
「そして教団が後から意味を上塗りしたのなら、その分だけ村への伝え方も考え直さねばなりませんね」
白い崖の下、湿地の風は冷たかった。冬の足音はもう近い。けれど、古い警告の意味を拾い直すには、まだ間に合うようにも思えた。石柱は、もはやただの古い石ではない。 かつて誰かが残した理由が、ようやく再び言葉へ戻ろうとしていた。
一行はクレイに先導され、湿地の北にある痩せた高みへ回り込んだ。地面はぬかるみを離れるにつれて固くなり、やがて枯草と石混じりの斜面へ変わる。そこから見下ろすと、さきほど歩いてきた湿地が一望できた。細長い水筋が幾本も走り、その間にわずかな高まりが浮島のように散っている。春の増水が来れば、どこから水が広がり、どこが最後まで残るか、平地で見上げていた時よりずっと分かりやすかった。
ノリコは膝をつき、油紙の地図へ新しい線を引き足していく。石柱の位置、朽ちた小屋跡、流木帯、葦の濃い場所、わずかに乾いた逃げ場。書き込みはみるみる増え、さっきまでただの余白だった場所が、危険の濃淡を持ち始めた。
「ここまでは沈むわね」
彼女は地図の上に指を滑らせた。
「毎年じゃない。でも、来る年にはここまで全部、水の道になる。石柱は村を脅かしていたんじゃない。村を止めていたのよ」
オーダがその線を覗き込む。
「ならば、村へ戻ったらまずこれを見せよう。禁足の理由は、祟りではなく水だと」
「ええ。でも、それだけでも足りません」
ノリコは崖のほうを振り返った。白い壁では、月嘴鳥の群れが風に乗って騒がしく旋回している。
「鳥の季節に騒ぐな、というのもたぶん本当です。あれだけの数が巣をかけていれば、崖の下は相当荒れる。落ちた卵や死骸に獣も寄るでしょうし、フンも溜まる。人が入り込めば、鳥だけじゃなく土地そのものが乱れます」
クレイがにやりとした。
「フンはフンで、領内の畑にゃとんでもないお宝だがな」
「……またそうやって、すぐ掘り返す話に持っていく」
「掘り返すとは言ってねえさ。けどあの白さ、ただの景色じゃねえ。鳥が何百年も積み上げてきた肥だ。扱いを間違えなきゃ、畑にはもの凄く効く。俺がこの世界で探し求めていた最後の一欠片だ」
カラムが崖とクレイを交互に見た。
「じゃあ、ここは危ない場所であると同時に、村の助けにもなりうるんですか」
「そういうこった。だから余計に面倒なんだよ。宝のありかだけ教えりゃ、来年には崖が丸裸だ」
クレイが言うと、ノリコは小さく頷き、地図の余白へさらに書き加えた。
――春の増水域。
――石柱より先に家を建てるべからず。
――月嘴鳥の季は禁足。
――白崖のフンは季節を外して少量のみ採るべし。
「少量のみ、か。少し勿体ない気もするが、営巣の邪魔にならなければよいのだろう?」
オーダが復唱する。
「俺が居た世界でも同じことがあった。ご領主さまもよーくご存じだと思うが、人の欲望に限度はねぇ。鳥のフンの利き目が知れ渡り、とても高価になった頃はひでー有様だったそうだぜ。営巣中でもお構いなしにフンを取るヤツ、ついでに卵まで盗むヤツ、土までこそぐヤツ……幾つもの営巣地が壊滅に追いやられたそうだ。そうなったらもう二度と鳥のフンは取れないっつーのにな」
クレイはいつものように鼻を鳴らした。
「もしこれを採集するにしても、厳密な管理が必要そうだな。フンの件はいったん私が預かろう」
その日のうちに一行は村へ引き返した。村人たちは、禁足の先から戻ってきた領主一行を、朝よりもずっと落ち着かない顔で迎えた。ノリコは地図を広げ、石柱、小屋跡、流木帯、そして水が来る線を順に指し示す。
「この石は、鳥の神様が怒るから立っていたわけじゃありません。少なくとも、それだけじゃない。春の大水がここまで来るから、ここで止まれと残されたの」
村人たちは黙って聞いていた。若い男が石柱の方向を振り返る。
「……じゃあ、爺さまらの言ってたことは、本当に理があったのか」
「ええ。ただ、理由が途中で失われたのよ」
ノリコはそう言って、地図の余白に描いた簡単な絵を見せた。石柱、波、鳥、高みへの矢印。文字が読めなくても意味が分かるようにしたつもりだった。
「だから今度は、理由ごと残しましょう」
一同はまた春先の大水が来そうな頃に観測しにくると約束し、村を後にした。月嘴鳥のフンの件はいったん伏せたままだ。北東村からの帰り道にクレイが悪態を付いていたので、どうしたのかとオーダが尋ねると、錫と鉛の聞き取りをしそびれたと地団駄を踏んでいた。春先にまた来れば良いのに、とノリコは久しぶりに笑った。
最北東の村から四日目の夕方。一同は久しぶりに領館へ帰ってきた。ヴィルがオーダを出迎えるなりこそこそと耳打ちする。オーダは右手で髪をかき上げながら、荷ほどきをしているノリコとクレイに声をかける。
「ノリコ、クレイ、長旅で疲れているところ済まないが……」
「ほらきた」
「こら、まだ何も言ってないでしょ」
「明日、朝一番で私と共に領司祭の家へ出向いて欲しい」
二人とも仲良く眉を集める。
「別に取って食われたりはされんぞ。今回の禁足地の件がもう教団側の耳に入ったようだ。今は心当たる要件がそれしかない」
「わ、私が新しい作物を持ち込んだことが罪になっているとかはありませんか」
今日も畑も見回ってきたのだろう、話を聞いていた土まみれのダリオが鍬を落として驚く。
「新種の作物の植え付けについてはヴィルを通じて都度認可は受けている。民が飢えないことに越したことは無いからな。そこは私も教団も同じ見解だ。既に握っている」
「そうでしたか……」
「もしかして領内を測量して回ったことが罪に問われているとか……」
「それもない。こちらについても教団の認可をとりつけているし、あんなに大々的に動いておったのだ。何かに問われるのであれば、とうに問われておる。最新地図の写しを提供済みだ。何に使うのかは知らんが領司祭はたいそう喜んでいたそうだ。よってこれも握っている」
ダリオは安堵した表情だが、ノリコとクレイは暗い表情のままだ。
「今夜、夕食後に少し作戦会議をしよう。心配するな、既に全責任は私が負っているのだから」
翌日。領司祭から迎えの馬車が領館へやってきた。オーダは少し昔を思い出して少し苦い表情をしている。
「クレイ、分かっているとは思うけど……」
「はい、分かりました」
「ああもうその態度、全ッ然分かってないじゃない。私が領館の人たちに聞いた情報によれば、モンテメリアの時よりずーっと高度な政治的問題よ、これは。そもそもどうしてクレイがいるのよ」
「私が必要だと判断したからだ。とはいえ言動には十分注意したほうが良い。現司祭は人柄が丸いと専らの評判だが、それはこちらも相応の礼を持って接している時に限る。私相手の時のように軽口が通じる相手ではないからな……まだこの世界に未練はあるだろう?」
「……こりゃあ流石に自重したほうが良さそうだな」
「普段から自重してなさい」
馬車は静かな御者と賑やかな三人を揺らしながら領司祭邸に到着した。
領司祭邸の応接間に通される。透明なステンドグラス細工の窓、部屋一面の赤い絨毯、蝋燭の吊り燭台。ノリコはこれらを見ただけで領館応接間より遙かに立派で、どれほど社会的地位が高い要人なのか察しがついた。
そしてオーダの質実剛健ぶりに呆れもした。緊張して出された茶にも手が付けられない。クレイはどこ吹く風という感じで、何時ものように懐のバターピーナッツを囓りながらお茶を啜っている。ここまでくれば逆に才能である。
絹織物の紫の司祭服をまとい、上弦の月型の耳飾りを右耳垂に下げた丸顔の老人が、書記らしき若い僧を伴って入ってきた。オーダは席を立つ。ノリコとクレイも、一拍遅れてそれに倣った。
老人はまずオーダに向かって柔らかく笑った。
「これはこれは、オーダ・ルーメン殿。わざわざ足をお運びいただき、痛み入ります」
それから視線をクレイへ滑らせる。
「……そしてこちらが、あの新しい食物を領内へ根付かせた方ですかな。ずいぶんと大胆なことをなさった」
次にノリコを見る。笑みは崩さないまま、目だけが少し細くなった。
「地図をお作りになったのは、そちらのご婦人だとか。民は迷いやすいものです。道だけでなく、考えまで広げてしまう」
一拍置いて、ようやく二人まとめて頷いた。
「とはいえ、飢えを遠ざけ、土地を見える形にした功は小さくありません。礼が遅れましたな」
老人は胸に手を当てた。
「ドミニクス・クラウディウス二十二世です。どうぞ、お掛けください」
「この度は迎えの馬車まで手配していただき心より感謝する」
「とんでもありません、お招きいただきありがとうございます」
「……ます」
三人ともそれぞれに礼を返し椅子に座った。
「さて、早速ですが本題に参りましょう。最近、北東の村にて、『石柱より先へ家を建てるな』『春の水が来る』などという新しい触れが広まりつつあると聞きました。加えて、《《月嘴鳥》》の禁足について、教団の教えを勝手に解し直しておられるとか」
「勝手に、ではない。現地を見て帰ってきたところだ」
オーダが答えると、ドミニクスは指先を組んだ。
「聖鳥にまつわる禁足は、古くより教団が守ってきたものです。土地の民草が恐れを失えば、営巣地は荒れ、秩序は崩れます。北の辺土にまで説教を運んできた我らの積み重ねを、軽々しく俗な理屈へ置き換えられては困るのです」
「俗な理屈、か」
クレイが鼻で笑ったが、オーダは視線だけで黙らせた。
ノリコが油紙を卓へ広げる。湿地の輪郭、石柱、小屋跡、流木帯、北の高み。書き込まれた線と印がステンドグラス越しの陽光に照らされている。
「これが現地です」
彼女の声は静かだったが、応接間の空気を切るには十分だった。
「石柱の先は湿地でした。春の雪解けの年には、おそらくこの低地一帯が水の道になります。実際に流木帯と朽ちた建物の痕を確認しました。禁足は迷信ではありませんでした。理由があったんです」
若い書記が思わず身を乗り出す。だがドミニクスは地図を見もせず、ノリコを見た。
「仮にそうだとしても、それは教団の教えを否定する理由にはなりますまい。聖鳥は聖鳥です。女神の季を告げる鳥であることは変わりません。違いますかな」
「否定などしておらんよ」
今度はオーダが一歩前へ出た。
「そこを履き違えてはならん。私はそなたらの《聖鳥を守れ》という教えを退けるつもりは一切ない。むしろ使えと言っている」
ドミニクスの顔に初めて戸惑いが走った。
「……どういう意味でしょうか」
「簡単だ。禁足は残せ。ただし理由を一枚足す。月嘴鳥の季に騒ぐな、巣を荒らすな、という教えはそのままでよい。その上で、石柱より先に家を建てるな、春の大水が来る、と付け加える。教団の顔も立つ。村も死なずに済む」
部屋がしんと静まった。
ドミニクスはゆっくり首を振る。
「それでは、教えの源が教団ではなく土地の事情であると認めることになる。禁足の力が弱まるのです」
「それは違う」
オーダの声は低かった。
「禁足の力は、理由を失った時に弱まる。そこは既に北東村で起きていた。聖鳥の話だけが残り、水の話は死んでいた。その結果、石柱は《ただの古い石》になりかけていた」
ノリコがわずかに目を伏せる。クレイは腕を組んだまま、珍しく口を挟まなかった。
「そなたらは、禁足が続いていたから十分だと言うかもしれぬ。だが私は領主だ。たまたま今まで死人が山ほど出なかったことを良しとは言えん」
ドミニクスはそこで初めて地図を見た。石柱の印、湿地の広がり、逃げ場の高み。若い書記もつられて覗き込み、何かを小声で囁く。
「……証はあるのですか」
「今は無い。だが、春先になれば禁足地では雪解けの大水が出る。多かれ少なかれ必ず出る。一緒に眺めますかい? ご案内いたしますよ、きっと壮絶な光景だ」
クレイが口を開いた。空気がぴりつく。オーダが卓を指で一度だけ叩いた。乾いた音が、妙に大きく響いた。
「話を戻す。私は北東村に新しい掟を作りたいのではない。古い警告を、理由ごと立て直したいだけだ。触れは領主名でも出す。だが教団にも同じことを言ってもらう。説教でもよい。村長へ渡す紙でもよい。文字が読めぬ者向けに絵を添えるなら、こちらで用意しよう」
「……我らに、領主の言葉を読めと?」
「逆だ。そなたらの言葉として読めばよい」
ドミニクスが目を見開いた。
「月嘴鳥の営巣地を荒らすな。石柱より先へ家を建てるな。春の水を恐れよ。高みへ逃げよ。どれも教団の損にはならぬ。損になるのは、来る春に村が流れ、人が死に、《教団は何をしていた》と囁かれる時ではなかろうか」
若い書記の喉がごくりと鳴った。
ドミニクスは、しばらく何も言わなかった。やがて彼は、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「……文言はこちらで整えます。ただし、あくまで『聖鳥の季に土地が乱れるゆえ、女神の理に従い石柱より先を禁ず』という形になります。大水の件も入れましょう。ですが、教団の教えを領主が改めた、という形にはいたしません」
オーダは即答しなかった。少しだけ考え、それから頷いた。
「それでも一向に構わぬ。民が助かるなら、看板の塗り分けに興味はない。石が残り、理由も残るならそれでよい」
その言葉に、ドミニクスは初めてわずかに視線を落とした。敗北ではない。だが、完全な勝ちでもない。なんとも領司祭らしい、苦い顔だった。
「では、数日中に草案を使いに持たせましょう」
「よろしい。こちらも村長向けの絵図を整えよう。ノリコ、写しの準備を」
「承知しました」
領司祭邸からの帰りの馬車では誰も口を開かなかった。領館に到着し、馬車から降りた直後、クレイがぼそりと言った。
「で、白崖はどうする」
ノリコがすぐに反応する。
「どうする、じゃないわよ。あんな場所、今すぐ人を入れたら禁足地が荒れるでしょうが」
「分かってるよ。だから聞いてる」
オーダは肘掛けに指を置いたまま、静かに言った。
「結論から言おう。今は伏せる。まだ私が預かっておく」
クレイが眉を上げる。
「……丸ごと秘匿か」
「そうだ。春の増水を見切る前に、あの崖へ人を入れるわけにはいかぬ。禁足の理由を立て直したばかりで、こちらから踏み荒らす真似をすれば目も当てられん」
ノリコが頷く。
「まずは危険域の確定が先です。石柱より先のどこまで沈むのか、高みへの逃げ道が本当に使えるのか、春先にもう一度見ないと」
「鳥の季節も外さなきゃな」
クレイが続けた。
「採るなら営巣の終わった後だ。少量ずつ、崖を削らず、表層だけ。欲を出したら終わる」
「村人へはまだ伏せる。来春の観測を終えた後、採る価値があると判断したなら、村長立会いのもとで少量採取を許す。許可なく近づくことは禁ずる。教団には『聖鳥保護のため、季には誰も入れぬ』と言えばよい」
ノリコが小さく笑う。
「看板が増えたわね」
「世の中そんなものだ」
オーダは平然と返した。
クレイはしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「まあいいさ。逃げる鉱脈じゃなし、飛ぶ肥料でもない。春まで寝かせる」
「鳥は飛ぶけどね」
「そういう揚げ足を取るな、測量屋」
張りつめていた空気が、そこで少しだけ緩んだ。白崖の肥は消えたわけではない。ただ、まだ誰のものにもならないまま、冬を越させることになったのだ。




