第9話 証拠がない弁明
前回の続きです。
庭のベンチは、木陰に一つだけ空いていた。
正確には、空けてあった。隣のベンチに、セドリック・リュシアンが座っていたからだ。
生徒たちは半円を描いて避け、官吏が木の後ろに控えている。誰も近づかないのに、誰も目を離さない。
――第二王子。父の手紙で読んだ名前が、初めて顔になった。
婚約者。家の体面そのもの。手紙にはそう書いてあった。
背筋がまっすぐで、座っているのに、立っている人間より高く見える。膝の上に、書類が一束。
手紙で名前を読んだとき、エリゼは顔を思い描かなかった。描けば、その顔に合わせて言葉を選ぶようになる。
――好きか嫌いかは、まだ分からない。分かっているのは、この人が婚約者で、私への訴えを手にしていることだけ。
呼ばれたのは、昼の授業のあとだった。官吏が教室の前で待っていて、殿下が庭でお待ちです、とだけ告げた。教室を出るとき、何人かが顔を見合わせた。
用件は言わなかった。言わなくても、この数日を並べれば見当はつく。
――見当は、見たことじゃない。
エリゼは歩きながら、それを頭の外へ出した。
「クローデル。」
「殿下。」
体が、礼の角度を覚えていた。膝の曲げ方。裾をつまむ指の高さ。目を伏せる長さ。頭は、それを確かめるだけで精一杯だった。
セドリックは、座れとは言わなかった。書類の端を指で揃える。
婚約者同士の挨拶に、どれほどの言葉を交わすものなのか。エリゼは知らない。ただ、この沈黙が短いほうだということは、官吏の目の動きで分かった。
「茶会のことは、聞いている。あれは、多くの者が見ていた。」
エリゼは黙って頷いた。そこは、争わない。
「ランベールの予備の制服が汚された。四日前だ。」
回りくどさはない。
「あなたの差し金だと、複数の訴えがある。」
「訴えは、どなたから。」
「名は伏せてある。訴えた者を守るためだ。」
匿名。自室の扉の下に挟まっていた紙と、同じ形だ。
名前のない言葉が、数だけ揃えて王子の机に届いている。
――数が揃えば、名前がなくても重く見える。
――一つずつ、誰の言葉か問えば、崩れるかもしれない。
でも、ここでそれを問えば、守られている名前を暴けと王子に迫るのと同じだ。迫った、という話が一つ増えるだけ。
「私は、命じていません。」
「証は。一つでいい。」
――一つ。その一つが、ない。
七日前の朝から、侍女に何も許可していない。けれど、それを知っているのは自分とハンナだけだ。ハンナは、王子の前でそれを言う女ではない。言わせる手立てもない。
マリエの証言は、茶会のあと本人からは何も来ていない、というもの。制服については、見ていない、と本人が言った。見ていない者の言葉は、染めていない証にはならない。
――それに、あの子の言葉をここで使えば、あの子を私の側に立たせることになる。それも、しない。
袖の中に、自分で書いた紙がある。指先が、その角に触れた。
――でも、自分で書いた紙は、自分の証にならない。
見せて分かるのは、エリゼがそう書いた、ということだけだ。書いたことと、起きたことは違う。
「今は、持っていません。」
セドリックの眉が、わずかに寄った。怒りというより、期待した答えが来なかった顔だった。
「訴えた者が皆、偽りを言っていると?」
「そうは申しません。見ていないことは、申しません。」
「では、弁明にならない。」
「承知しています。」
「承知していて、それだけか。」
王子が書類から目を上げた。
まっすぐな目だった。責めるというより、何かを待っているように聞こえた。
「普通は、もっと言うものだ。」
――普通は。この人は、どんな普通を見てきたのだろう。
待たれている。そう感じた。ここで言葉を足せば、この人は聞くのかもしれない。
言葉なら、いくらでも足せた。
命令を止めたあとで、事件は起きた。制服は乾いていた。戸棚に入っていた。訴えは匿名だ。
どれも嘘ではない。けれど、どれも、誰が染めたかを示していない。示していないものを並べれば、確かめようのない主張で王子を押すことになる。
押した事実だけが残って、中身は残らない。
前の仕事でも、そうだった。根拠のない反論が一番高くついた。数字の代わりに言葉を積めば、あとで一つずつ崩される。崩されるたびに、最初に正しかった部分まで疑われる。
――だから、積まない。
誰かの名前を出したい気持ちも、どこかにあった。汚れた制服で得をするのは誰か。問いは立てられる。
でも、答えを持たないまま名前を出せば、それは匿名の訴えと同じだ。
エリゼは口を閉じた。
「……以上です。」
「以上、か。」
セドリックはしばらく、エリゼを見ていた。何か言いかけて、やめたように見えた。
何を言いかけたのかは、見えない。
王子は書類を官吏に渡し、立ち上がった。書類の束が、官吏の腕の中で揺れる。あの中に、自分の名前は何度書かれているのだろう。エリゼの横を、歩幅を変えずに通り過ぎる。振り返らない。
官吏が後に続く。すれ違いざま、ほんの一瞬だけこちらを見た。同情なのか、記録なのか。分からない。
半円を作っていた生徒たちが、左右に割れた。
婚約者の背中を見送るのは、これが初めてだった。初めてなのに、ずっと前から見慣れた背中のように遠かった。
見ていた生徒たちが、ようやく声を取り戻す。何を言っているのかは、聞かなかった。聞けば、伝聞の行が増えるだけだ。
――悔しい。
喉の奥に、言わなかった言葉が詰まっている。一つずつ、飲み込んだ。
言えることはあった。言わずに立っていた。周りには、言い返せない女に見えていただろう。
見えたものは、変えられない。変えられるのは、次に口を開くとき、手の中に何を持っているかだけだ。
エリゼは空いたベンチに座らず、木陰に立ったまま、今夜の一行を並べた。
――王子は証を求めた。証はなかった。言葉は、そこで止めた。
弁明では足りない。それが、今日の結論だ。
口で勝てないなら、口以外のものが要る。黙っていても喋るもの。紙。印。誰かが残した、動かせない跡。
それを持っていそうな人間を、エリゼは一人だけ知っている。
毎朝、自分の髪を結いに来る手だ。
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次回は「第10話 燃えかす」です。




