第8話 廊下のマリエ
前回の続きです。
廊下の角を曲がると、マリエが一人で立っていた。
授業の合間。人の流れが、ちょうど切れている。高い窓の光が、石の床に四角く並んでいた。
特待生は、腕に本を三冊抱えていた。背表紙の角が擦り切れている。借り物か、何度も読んだものだ。制服は予備ではないほうで、染みはない。
この廊下を選んだのは、偶然ではない。
――図書室へ本を返しに行く、と教室の前で誰かが話していた。聞いた話を頼りに来たら、本当にいた。
エリゼは足を止めた。
マリエは壁に寄らない。半歩下がることもない。
恐れていない。それが、最初に見たことだった。
二日前、教室の前で目が合ったときも、この子は逸らさなかった。周りに誰もいない今も、同じ目をしている。
「ランベール。」
「クローデル様。」
声は丁寧で、怯えていない。
「脅しにいらしたのでは、ないのですね。」
「違う。」
「では、謝りに?」
「それも違う。」
マリエの眉が、ほんの少しだけ動いた。どちらでもない用件を、思いつけない顔だった。
エリゼは腕一つ分の距離で止まった。近づけば脅しに見える。離れれば声を張ることになる。張った声は、角の向こうまで届く。
――二人でいるところを見られるだけで、話が一つ生まれる。
クローデルが特待生を呼び止めた。その先は、見た者が好きに書き足す。長くは話せない。問いは、三つか四つ。
それに、弁護を頼みに来たのではない。
頼めば、この子の言葉は私の側の言葉になる。公爵家の娘に頼まれて言ったのだろう、と言われれば、それで終わりだ。中身が正しくても、終わる。
取るのは、見たことだけ。
「少し聞きたいことがある。答えたくなければ、答えなくていい。」
「はい。」
「茶会のことは、覚えているか。」
「覚えています。罵られました。皆の前で。」
迷いがなかった。思い出す間もなく出てくる。忘れられない種類の出来事なのだと、その速さで分かった。
――皆の前で。そこが、この子には一番重いのだろう。
エリゼには、その記憶がない。ないまま、自分が罵った相手と向き合っている。
胸の奥が、少し冷えた。
――この子の中で、私はずっと、あの日の私のままだ。
謝るべきか、と一瞬思った。
いや。覚えていない言葉を謝っても、中身は空だ。空の謝罪は、この子に何も返さない。話を聞く前に、こちらの都合で場を柔らかくするだけだ。
「そのあと、私から何かあったか。あなた自身が見たものだけで。人から聞いた話は、入れなくていい。」
マリエの視線が、一度、床の四角に落ちた。
「ありません。お手紙も、呼び出しも。廊下で何か言われたことも。」
「一度も。」
「クローデル様ご本人からは、一度も。」
――ご本人から。
その言い方を、この子は自分で選んだ。本人以外からは、何かがあったということだ。
問えば、誰かの名前が出るかもしれない。見た名前と聞いた名前が、混ざったものが。
――聞きたい。でも、今日取るのは、この子が見たことだけだ。
だから、問わない。
「制服のことは、別です。」
マリエのほうから続けた。
「私の戸棚に入っていました。朝開けたら、あの色で。誰が置いたかは見ていません。見ていないので、誰だとは言えません。」
少し間を置いて、マリエは付け足した。
「……そう言うと、皆さん、変な顔をなさいます。」
「そうだろうな。」
エリゼは、息を長く吐いた。
――見ていないから、言えない。
廊下の声も、匿名の紙も、見ていないことを平気で言う。この子は、一番言いたいはずのところで口を閉じている。
――この学園で、初めて見た。見たことと聞いたことを、分けて話す人間を。
「最後に一つ。茶会の言葉は、私の口から直接出たか。」
「はい。私の目の前で、クローデル様が。」
短い。短くて、十分だった。
エリゼは頷くだけにした。礼は言わない。礼を言えば、何かを受け取った形になる。一緒に歩こうとも、午後の茶に来いとも言わない。
「それだけだ。」
「……それだけ、なのですか。」
拍子抜けしたように、マリエは瞬きをした。本を抱え直す。
「皆さんは、クローデル様が私を黙らせにいらっしゃる、と話していました。」
「そうか。」
「私に何か言ってほしいのではないのですか。皆の前で。」
「頼まない。」
「どうしてですか。」
エリゼは答えなかった。
「……お答えいただけないのですね。」
「今は。」
説明すれば、この子に考えさせることになる。考えた言葉は、見た言葉ではなくなる。
――今のままでいい。見たことを、見たとおりに言えるこの子のままで。
味方の顔を、ここで作らせてはいけない。
作らせれば、明日にはその顔ごと噂になる。公爵家に取り込まれた特待生。そう呼ばれた瞬間、今の証言は値打ちを失う。
マリエはしばらく、エリゼの顔を見ていた。量る目ではない。分からないものを、分からないまま見ている目だった。
「茶会のことは、許していません。」
「分かっている。」
怒りを足さず、和らげもしない声だった。事実を置くような言い方だった。
エリゼも、それ以上は足さなかった。足せば、この子の言葉に自分の言葉が重なる。重なった言葉は、どちらのものか分からなくなる。
角の向こうで足音がした。次の授業へ向かう生徒たちだ。
――時間切れだ。
二人は同時に、それぞれの方向へ歩き出した。振り返らない。背中で、本を抱え直す小さな音がした。
階段を上りながら、エリゼは今夜の一行を決めた。
――マリエは茶会を覚えている。その後、私本人からは何も来ていない、と本人が言った。制服を置いた者は、見ていない。
取れた証言は、一つ。
許していない、は書かない。あれは証言ではなく、あの子の気持ちだ。気持ちは、あの子のものにしておく。
接触はした。味方は、増えていない。増やさないために、話を切った。
明日すれ違っても、今日と同じ距離で通り過ぎる。それが、取った証言を傷めずにおく方法だ。
それでいい、と思う。思うのに、階段の途中で足が止まった。
――クローデル様ご本人からは、一度も。
では、本人でない誰かは、あの子に何を届けていたのだろう。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。
次回は「第9話 証拠がない弁明」です。




