↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/20

第8話 廊下のマリエ

前回の続きです。

廊下の角を曲がると、マリエが一人で立っていた。


授業の合間。人の流れが、ちょうど切れている。高い窓の光が、石の床に四角く並んでいた。


特待生は、腕に本を三冊抱えていた。背表紙の角が擦り切れている。借り物か、何度も読んだものだ。制服は予備ではないほうで、染みはない。


この廊下を選んだのは、偶然ではない。


――図書室へ本を返しに行く、と教室の前で誰かが話していた。聞いた話を頼りに来たら、本当にいた。


エリゼは足を止めた。


マリエは壁に寄らない。半歩下がることもない。


恐れていない。それが、最初に見たことだった。


二日前、教室の前で目が合ったときも、この子は逸らさなかった。周りに誰もいない今も、同じ目をしている。


「ランベール。」


「クローデル様。」


声は丁寧で、怯えていない。


「脅しにいらしたのでは、ないのですね。」


「違う。」


「では、謝りに?」


「それも違う。」


マリエの眉が、ほんの少しだけ動いた。どちらでもない用件を、思いつけない顔だった。


エリゼは腕一つ分の距離で止まった。近づけば脅しに見える。離れれば声を張ることになる。張った声は、角の向こうまで届く。


――二人でいるところを見られるだけで、話が一つ生まれる。


クローデルが特待生を呼び止めた。その先は、見た者が好きに書き足す。長くは話せない。問いは、三つか四つ。


それに、弁護を頼みに来たのではない。


頼めば、この子の言葉は私の側の言葉になる。公爵家の娘に頼まれて言ったのだろう、と言われれば、それで終わりだ。中身が正しくても、終わる。


取るのは、見たことだけ。


「少し聞きたいことがある。答えたくなければ、答えなくていい。」


「はい。」


「茶会のことは、覚えているか。」


「覚えています。罵られました。皆の前で。」


迷いがなかった。思い出す間もなく出てくる。忘れられない種類の出来事なのだと、その速さで分かった。


――皆の前で。そこが、この子には一番重いのだろう。


エリゼには、その記憶がない。ないまま、自分が罵った相手と向き合っている。


胸の奥が、少し冷えた。


――この子の中で、私はずっと、あの日の私のままだ。


謝るべきか、と一瞬思った。


いや。覚えていない言葉を謝っても、中身は空だ。空の謝罪は、この子に何も返さない。話を聞く前に、こちらの都合で場を柔らかくするだけだ。


「そのあと、私から何かあったか。あなた自身が見たものだけで。人から聞いた話は、入れなくていい。」


マリエの視線が、一度、床の四角に落ちた。


「ありません。お手紙も、呼び出しも。廊下で何か言われたことも。」


「一度も。」


「クローデル様ご本人からは、一度も。」


――ご本人から。


その言い方を、この子は自分で選んだ。本人以外からは、何かがあったということだ。


問えば、誰かの名前が出るかもしれない。見た名前と聞いた名前が、混ざったものが。


――聞きたい。でも、今日取るのは、この子が見たことだけだ。


だから、問わない。


「制服のことは、別です。」


マリエのほうから続けた。


「私の戸棚に入っていました。朝開けたら、あの色で。誰が置いたかは見ていません。見ていないので、誰だとは言えません。」


少し間を置いて、マリエは付け足した。


「……そう言うと、皆さん、変な顔をなさいます。」


「そうだろうな。」


エリゼは、息を長く吐いた。


――見ていないから、言えない。


廊下の声も、匿名の紙も、見ていないことを平気で言う。この子は、一番言いたいはずのところで口を閉じている。


――この学園で、初めて見た。見たことと聞いたことを、分けて話す人間を。


「最後に一つ。茶会の言葉は、私の口から直接出たか。」


「はい。私の目の前で、クローデル様が。」


短い。短くて、十分だった。


エリゼは頷くだけにした。礼は言わない。礼を言えば、何かを受け取った形になる。一緒に歩こうとも、午後の茶に来いとも言わない。


「それだけだ。」


「……それだけ、なのですか。」


拍子抜けしたように、マリエは瞬きをした。本を抱え直す。


「皆さんは、クローデル様が私を黙らせにいらっしゃる、と話していました。」


「そうか。」


「私に何か言ってほしいのではないのですか。皆の前で。」


「頼まない。」


「どうしてですか。」


エリゼは答えなかった。


「……お答えいただけないのですね。」


「今は。」


説明すれば、この子に考えさせることになる。考えた言葉は、見た言葉ではなくなる。


――今のままでいい。見たことを、見たとおりに言えるこの子のままで。


味方の顔を、ここで作らせてはいけない。


作らせれば、明日にはその顔ごと噂になる。公爵家に取り込まれた特待生。そう呼ばれた瞬間、今の証言は値打ちを失う。


マリエはしばらく、エリゼの顔を見ていた。量る目ではない。分からないものを、分からないまま見ている目だった。


「茶会のことは、許していません。」


「分かっている。」


怒りを足さず、和らげもしない声だった。事実を置くような言い方だった。


エリゼも、それ以上は足さなかった。足せば、この子の言葉に自分の言葉が重なる。重なった言葉は、どちらのものか分からなくなる。


角の向こうで足音がした。次の授業へ向かう生徒たちだ。


――時間切れだ。


二人は同時に、それぞれの方向へ歩き出した。振り返らない。背中で、本を抱え直す小さな音がした。


階段を上りながら、エリゼは今夜の一行を決めた。


――マリエは茶会を覚えている。その後、私本人からは何も来ていない、と本人が言った。制服を置いた者は、見ていない。


取れた証言は、一つ。


許していない、は書かない。あれは証言ではなく、あの子の気持ちだ。気持ちは、あの子のものにしておく。


接触はした。味方は、増えていない。増やさないために、話を切った。


明日すれ違っても、今日と同じ距離で通り過ぎる。それが、取った証言を傷めずにおく方法だ。


それでいい、と思う。思うのに、階段の途中で足が止まった。


――クローデル様ご本人からは、一度も。


では、本人でない誰かは、あの子に何を届けていたのだろう。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。

次回は「第9話 証拠がない弁明」です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。