第7話 汚れた制服
前回の続きです。
教室の前は、朝から人だかりだった。
あの朝から、三日。エリゼはハンナに、何ひとつ許可していない。
差し入れも、呼び出しも、注意の紙も。盆に紙が載ってくることも、なくなった。
――少なくとも私の口からは、何も出ていない。
それが、今朝までの手応えだった。
もっとも、手応えなど自分の側から見た話だ。外から見れば、三日前と何も変わっていない。
今朝の支度のあいだも、ハンナはいつもどおりだった。髪を結う指の速さも、襟を整える順番も。あの朝に止まった顔は、翌日にはもう戻っていた。
――戻ったことは、見た。戻った理由は、見ていない。
盆に紙が載ってこないことに、少し安堵していた。安堵は、見たものではない。そう気づいて、エリゼはそれを胸の脇に置いた。
人だかりは、扉の前で半円を作っていた。声は低いのに、途切れない。エリゼが近づくと、半円の端が割れた。
道を空けたのではない。距離を取ったのだ。
――三日前より、半歩遠い。
真ん中の椅子の背に、制服が一着掛けてあった。皆に見えるように。
襟の刺繍は特待生の型。予備のものだ。裾と胸に、青に近い濃い紫が広がっている。
こぼした跡ではない。染みの縁が輪にならず、布目に沿ってにじんでいる。浸したような広がり方だった。
――この色、見たことがない。
学園の制服にも、衣装箪笥の服にも、こんな紫はない。染料の名前も、売っている店も知らない。
知らないなら、それでいい。知っているふりをしなければ、間違えずにすむ。
「ランベールさんの予備ですって。戸棚から出てきたって。」
誰かが言った。
マリエ・ランベールは、輪の外に立っていた。泣いた跡も、怒った顔もない。汚れた布を一度だけ見て、窓のほうへ視線を移す。
騒ぎの真ん中にいるのに、騒ぎに加わっていない。
「ランベールさん、平気なの?」
「平気ではありません。でも、着る制服はもう一着あります。」
答えは短く、それきりだった。
「クローデル様がやったのよ。」
輪の後ろから声がした。声の主は、前に出てこない。
「茶会のときだって、皆の前で。」
「ずっと続いてるんでしょう。」
誰も、自分が見たとは言わない。言葉だけが口から口へ渡り、渡るたびに確かな響きになっていく。
エリゼは声の出どころを目で追った。後ろの列の三人。一人は、廊下で舌打ちをした顔に似ている。
――似ている、だけ。この学園の顔と名前は、まだ結べていない。結べていない顔に、名前は貼らない。
「ねえ、何とかおっしゃったら。」
「黙っているってことは、そういうことでしょう。」
輪には入らなかった。
――黙れば認めたことになる。話せば言い訳になる。どちらを選んでも、この輪の答えはもう決まっている。
入れば、弁明する顔を作らされる。この場で弁明する顔は、罪を認める顔と見分けがつかない。
代わりに、見る。
染みは裾と胸の二か所。布は乾いている。縁も固まっている。少なくとも、ついさっきの出来事ではない。
――昨夜か、それより前か。どちらにしても、今朝ではない。
マリエの手首は白い。あの制服に、まだ袖を通していない。
――戸棚に、誰が、いつ入れたのか。
それを言う者は一人もいない。知らないのだろう。この輪の中では、知らないことが一番先に消えていく。
――私は命じていない。それは、私の側の事実。
周りの声は、事実ではない。事実ではないのに、止まらない。止める手段を、今の自分は持っていない。
「どうして、平気な顔をしていられるの。」
すぐ横の女生徒が言った。エリゼに向けたのか、隣の友人に向けたのか、分からない声量で。
「公爵家ですもの。何をしても許されると思っていらっしゃるのよ。」
――許されるどころか、訴えは夜会まで留められている。
エリゼは答えない。
平気ではない。胸の内側が、提出日の朝のように硬くなっている。けれど、顔に出しても染みの位置は変わらない。
前の人生にも、似た朝があった。会議室の外で、自分の数字が間違っていると誰かが囁いていた。言い返しても、数字は正しくならない。正しかったのは、黙って元の表を開き直したほうだった。
――今は、開き直す表がない。だから、見るしかない。
輪の後ろで、折り畳んだ紙が一枚、手から手へ回っていく。署名のない紙だろうか。中身は見えない。
「読んだ?」
「茶会の続きだって。」
囁きだけが、紙より先にエリゼの耳へ届いた。
見えないものを、見たことにはしない。回っている、という事実だけを覚えておく。
始業の鐘が鳴った。
廊下の端から教師が来て、制服を椅子から下ろした。
「これは事務室で預かる。」
「先生、それはクローデル様が――」
「あとで聞く。席に着きなさい。」
誰が掛けたのか、とは教師も問わなかった。
人だかりがほどける。マリエがエリゼの前を通り過ぎるとき、目が合った。何も言わない。逸らしもしない。そのまま、教室へ入っていった。
――怒っていない。怯えてもいない。あの目は、何を見ているのだろう。
エリゼは最後まで扉の前に残った。
床に、紫の粉がわずかに落ちている。
指で触れはしない。触れれば、指に色が残る。残った色は、この場では何より雄弁な証拠になる。
自分に不利な方向へ。
――触らない。拾わない。持ち帰らない。見たものだけを、頭に入れる。
――三日、命令を止めた。それでも、染料の事件は起きた。
今夜の一行は、それで決まりだ。
私が許可した嫌がらせは、この三日、ない。マリエの予備の制服が、染料で汚れていた。戸棚から出てきたと、周りが言った。
茶会のあとの嫌がらせは、今の自分の命令とは別のところで走っている。そこまでは切り分けられる。
誰が染めたかは、まだ見ていない。浮かびかけた名前は、飲み込んだ。
周りの声が一つの名前に揃っていくのを、止めることはできない。できるのは、自分の紙の上でだけ、揃えないことだ。
教室の中から、また囁きが聞こえる。周りの声は、もう一つの名前に揃いはじめていた。
クローデル。
その名前が、訴えの束になって王子の机に届くまで――あと何日あるだろう。
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次回は「第8話 廊下のマリエ」です。




