第6話 命令を出さない
前回の続きです。
中庭に出る前の私室は、まだカーテンが半分閉じていた。
予定表の丸印まで、指で日を数える。十九。朝の光は、昨日より少しだけ机の奥まで伸びていた。
――夜会まで、あと十九日。
エリゼは二つ折りの紙を、引き出しの手前に入れた。見たことと、聞いたこと。分けて書いた紙だ。
見た、と書ける行は、まだ半分にも届かない。
一行目は、名前と公爵家と婚約。二行目は、茶会の非礼。三行目から下は、聞いた話ばかりだ。匿名の紙。廊下の舌打ち。夜会まで留められた訴え。
――半分に届かないうちは、何かを決める側に回りたくない。
扉が叩かれた。ハンナが盆を持って入ってくる。朝の支度はもう済んでいた。髪も襟も袖の釦も、侍女の手で隙なく整えてある。
盆の上には、小さな紙が一枚。
「特待生への、いつもの注意でございます。今日も、お廊下でお目にかけますか。」
いつもの。
エリゼには、初めて聞く言葉だった。
「……いつもの、か。」
「はい。いつもの、でございます。」
紙には手を伸ばさない。盆に載ったまま、目だけで読む。
ランベールの席を、今日は使わせない。課題の提出場所を、告げない。
整った字だった。誰の癖とも言いにくい。差出人の欄は、空白。
――書いた人の名前がない。許す人の欄だけが、私の名前を待っている。
盆を支えるハンナの手首に、力みはない。何度も同じ盆を運んできた手だ。
誰かが書いて、誰かが許して、誰かが運ぶ。この部屋で埋まっているのは、運ぶ手だけだった。
「これは、誰の指示だ。」
「お嬢様の、ご意向に沿って。」
「いつの意向だ。」
「以前から、そのように。」
「今朝、私がそう言ったか。」
ハンナの睫毛が、一度落ちた。
「今朝は、まだ。」
まだ。
命じられる前から、紙は書き上がって盆に載っている。順番が逆だ。
前の職場にも、あった。中身より先に、判を押す欄だけが空いた書類が回ってくる。押した者が中身を背負い、書いた者は背負わない。
――誰が書いたか分からない紙に、名前は入れない。
「押す前に、書いた人を確かめろ。分からないなら、押すな。」
入って二年目の冬、先輩にそう言われた。その声が、今も耳の奥にある。
「では、しない。」
「……お嬢様?」
「しない、と言った。」
「ですが、これまでは、お嬢様のほうから。」
「これまでのことは、今朝の話ではない。」
ハンナが瞬きをした。主人の口から出る言い回しとしては、妙に聞こえたのだろう。
――妙でも、事実だ。この体のこれまでを、私は知らない。
「差し入れも、ご用意できます。焼き菓子を少し。呼び出しの文も、お声がけひとつで。」
「どちらも、いらない。」
「差し入れは注意ではございません。お心遣いとして。」
「中に何が入るのか、私は見ていない。」
「ただの焼き菓子でございます。」
「それも、見ていない。」
ハンナの口元が、わずかに固くなった。
――見ていないことは、許可しない。それだけ。
この体が以前、何を許していたのか。エリゼは知らない。知らないまま「続けて」と言えば、知らない過去まで自分の名前で引き受けることになる。
いつもの、は便利な言葉だ。誰がいつ始めたかを、問わせない。問わせないまま、次の日も同じことを続けさせる。
茶会の一件は、証言が揃ったから認めた。認めたのは、その一度だけだ。
「では、せめて呼び出しの文だけでも。お嬢様のお名前で出せば、皆様も安心なさいます。」
「皆様とは、誰だ。」
「それは……学園の、皆様でございます。」
名前は、一つも出てこない。皆様、は、いつもの、と同じ種類の言葉だった。
「いらない。」
ハンナの手が、盆の上で止まった。
微笑みは残っている。けれど、次の言葉が出てこない。指先が盆の縁を探して、止まる。
用意してきた次の一手が、行き先をなくした顔だった。
「……お嬢様。」
「何だ。」
「いえ。何でもございません。」
――見た。今は、それだけ覚えておけばいい。
問い詰めることはできる。でも、問えば侍女は言葉を足す。足されるのは言い訳か、ほかの誰かの名前だ。今朝、それを確かめる手段はない。
確かめられない名前は、耳に入れた瞬間から、事実の顔をしはじめる。
――今朝は、答えを急がない。
それに、髪を結うのも、手紙を受け取るのも、明日からもこの手だ。この手を失えば、この部屋で見えるものが減る。
――今この人を問い詰めて得るものより、失うもののほうが多い。
「お嬢様らしく、ありません。」
「そうか。」
「以前のお嬢様なら、今ごろは――」
ハンナはそこで言葉を切った。
続きは出てこない。出てこないことも、一つの答えだった。
聞きたい、と思った。それでも、エリゼは問い返さない。侍女の口から以前の自分を組み立てれば、その像は侍女の都合で出来上がる。
「今日は、これでいい。」
「……かしこまりました。」
ハンナは盆ごと紙を引いた。下がる前に、一度だけこちらを見る。何かを量る目。量り終える前に、伏せられた。
扉の閉まる音が、強かった。
いつもの強さを、エリゼはまだ三日分しか知らない。それでも、昨日までより強い。
足音が遠のくのを待って、エリゼは引き出しの紙を広げた。ペン先を浸し、一行だけ足す。指先が、少し冷えていた。
――ハンナが特待生への注意の許可を求めた。許可しない。差し入れと呼び出しも、しない。そのとき、顔が止まった。
止まった理由まで書きたくなる。困ったのか。怒ったのか。誰かへの言い訳を考えたのか。
どれも想像だ。想像は、顔の横に並べた途端、顔より大きくなる。
――理由は、紙に書かない。
エリゼはペンを置いた。
今日決めたのは、一つだけ。確かめられない命令を、自分の名前で出さないこと。
命令を出さなければ何も起きない、とは限らない。それでも、起きたときに自分の名で起きたのではないと、少なくとも自分には分かる。
紙を畳み、カーテンを開けた。中庭の石に、朝の光が落ちている。人影がいくつか横切る。誰が誰なのか、まだ半分も分からない。
ふと、盆の上の紙を思い出した。整った字。空白の差出人。
あれが「いつもの」なら――これまでの紙は誰が書いて、どこへ消えたのだろう。
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次回は「第7話 汚れた制服」です。




