第5話 夜会という仮説
前回の続きです。
夜の私室は、ランプが一つきりだった。
エリゼは予定表を、机の端に引いた。夕方、人の少ない時刻を選んで、廊下の掲示を書き写してきたものだ。背中に視線は来た。声は来なかった。
講義の休みの日。宿舎の点検。創立祭。
創立祭の欄だけ、字が多い。式典は昼。その夜、大広間で夜会。第二王子殿下ご臨席、と小さく添えてある。
(殿下。父の手紙の中にいた人が、掲示にもいる。)
日付を指で辿った。
(今日から、二十日先。昨日の朝、あの鏡の前に立った日から数えれば、二十一日。)
(二十日あれば、前の仕事なら、調べて、確かめて、まとめるところまで行ける。――何を調べればいいか、分かっていればの話だけど。)
扉の外で、年嵩の使用人が火を落としに来た。ハンナではない。今朝の水差しの男とも違う。
女は壁の燭台から順に芯を切っていく。主の机には近づかない。目を伏せている。芯を切るたびに、部屋が一段ずつ暗くなった。
その女が、少し前に戸口で誰かと話していたのを、エリゼは聞いていた。扉は薄い。夜の廊下は、昼より声が通る。
――特待生の件は、創立祭の夜まで。
聞こえたのは、それだけだった。
「夜会まで、訴えは留められていると聞いた。誰の口だ。」
女の手が止まった。鋏が、空で鳴る。
「……廊下で、官吏の方が。特待生への件は、創立祭の夜まで表に出さぬ、と。私はその通りを、申し述べたまでです。」
「どの官吏だ。」
「お顔は、よく。殿下の御用の方のような、お仕着せでございました。」
(殿下の、ような。ような、は見た形だけ。同じ色のお仕着せを着る人は、一人じゃない。)
「あなたが見たのか。聞いたのか。」
「聞いた、のでございます。立ち話を、通りがかりに。」
「表に出さぬ、というのは、その官吏の言葉のままか。」
女は少し考えた。
「……そう、だったと。」
(だった、と思う。記憶の端が揺れてる。)
「その官吏は、どちらへ。」
「東の階段のほうへ……いえ、確かではございません。」
「その話を、ほかに誰に。」
「戸口で、若い者に一度だけ。それきりでございます。」
女の指が、鋏の柄を握り直した。
「あの、お嬢様。……お咎めは。」
「ない。ありがとう。誰にも言わない。」
女は逃げるように火を落とし、出ていった。
(誰にも言わない。……ここで目を覚ましてから、人と約束したのは初めてだ。)
守れる約束しか、口にしない。口にしたものは、守る。
(それに、又聞きの又聞き。官吏が言って、女が聞いて、戸口で誰かに話して、それを私が扉越しに聞いた。)
(ハンナは、この話を知ってるだろうか。知ってて、黙ってた? ……それも、今はまだ問いのまま置いておく。)
静かな部屋で、エリゼは紙を読み返した。
名前。エリゼ・クローデル。公爵家。学園。侍女はハンナ。
婚約。第二王子セドリック。父はそれを、家の体面そのものと呼ぶ。
茶会の非礼。証言は二つ。
匿名の紙。その後の嫌がらせは、伝聞。
(こうして並べると、たった二日分にしては、ずいぶん重い。)
名前は紙で確かめた。婚約は父の字で読んだ。茶会は、二つの口から聞いた。どの行にも、出どころが添えてある。
(出どころのない行は、一つも入れない。それが、この紙の決まり。)
そこへ、今夜の二行を足した。
創立祭の夜会に、第二王子が出る。掲示で見た。
特待生への訴えは、その夜まで留められている。使用人から聞いた。官吏の言葉の又聞き。
二行を、上下に並べた。
(並べると、つながって見える。つながって見えることと、つながってることは、違う。)
同じ時期に起きた二つを並べれば、片方が原因に見える。確かめたら、まるで別だったこともある。
(並べたくなる二行ほど、あいだを空けて置く。)
誰が何を宣告するのか、まだ見ていない。訴えが誰に向いているのかも、正確には聞いていない。女が言ったのは、特待生への件、だ。エリゼの件、とは言っていない。
(でも、今朝の廊下と、扉の下の紙を思えば、向きは想像がつく。)
(想像は、紙に書かない。書いたら、明日の私がそれを読んで、事実だと思い込む。紙は、書いた日の迷いまでは残してくれない。)
ペン先が止まった。
(じゃあ、何なら残せる?)
(もし、この体について何かが決まるなら――どこで決まる?)
父の手紙で決まる道がある。人のいない部屋で決まる道もある。
(でも、表に出さぬ、と言うなら、いつか表に出すつもりがある。表は、人の目のある場所。王子が来る夜会は、この学園でいちばん人の目が多い夜だ。)
(しかも留めてるのは、殿下の御用らしい官吏。その夜に合わせて留めてるなら、席を選んでるのは、訴える側。)
(訴える側が席を選べるなら、選ばれた側は、席に着くまで何も知らされない。……今の私みたいに。)
エリゼは紙の真ん中より下、線を一本引いたその外に、短く足した。
創立祭の夜会。公開の決定があるなら、その席。
日付を、横に写す。
(仮説。まだ、ただの仮説。外れてもいい。外れたと分かる形で置いておけば、当たったときに慌てずに済む。)
(でも、何も分からなかった昨日の朝より、ずっといい。場所と日付がある仮説なら、確かめに行ける。)
名前。婚約。茶会。そして今夜、日付。
(今夜手に入れたのは、期限だ。)
紙のいちばん下に、方針を一語だけ足した。
確かめる。
(言い返すのは、そのあと。根拠の前に反論を作ったら、その反論に縛られる。守るために、見たいものしか見なくなる。隣の机で、何度も見た。)
ランプの油が落ちる音だけがした。
(二十日。人が話を留めておくには、短い。でも、話が口から口へ渡って形を変えるには、十分に長い。)
(今朝の廊下の顔は、もうその途中の顔なのかもしれない。)
(明日からは、見たものと、聞いたものを、混ぜずに増やす。それだけをやる。)
エリゼは予定表の日付に、丸をつけた。
二十日後の夜、大広間の真ん中に立たされるのが誰なのか。
それを確かめるための二十日が、今夜から始まる。
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次回は「第6話 命令を出さない」です。




