第4話 すでに嫌われている
前回の続きです。
翌朝、廊下は細かった。
ハンナが選んだ服を着て、ハンナが結んだ髪で、エリゼは自室を出た。建物の形だけでも見ておきたかった。
三歩で、足が止まった。
向こうから来た生徒が二人、同時に目を逸らした。挨拶はない。壁際に寄って通る。すれ違う瞬間、片方の肩が縮んだ。
(……顔に、何かついてる?)
手は上げなかった。
(上げたら、効いてるって見せることになる。)
次の二人は、目を逸らさなかった。頭から裾まで、値札でも確かめるように見る。
「……クローデル様。ごきげんよう。」
言葉だけは丁寧だった。声は、氷を置いたように冷たい。
「ごきげんよう。」
返すと、二人は顔を見合わせた。通り過ぎてから、小さな声が背中に届く。
「本当に、出ていらしたわ。」
「よく平気なお顔で。」
(ごきげんよう、は挨拶の形をした線引きだ。ここから先に来るな、っていう。)
三組目は、舌を打った。聞こえる大きさだった。
「よく、出てこられること。」
振り向いたときには、背中が三つ並んでいるだけだった。
(三組。七人。一人残らず、同じ向きの顔をしてた。)
(嫌われてる。)
(見えたのは、それだけ。理由はまだ見てない。)
廊下の先は階段で、下から何人もの声が上がってくる。
(降りても、同じ顔が増えるだけ。数は増えても、理由は増えない。)
前の人生にも、会議室に入った途端、空気が変わることがあった。
(誰かがもう、私のいないところで私の話をしてる。中身はあとから届く。先に届くのは、いつも空気。)
エリゼは踵を返した。
自室の扉の下に、紙が挟まっていた。出るときには、なかった。
宛名のない、二つ折りの粗い紙。字はわざと崩してある。右上がりの癖を、無理に寝かせたような線だった。
――茶会だけでは足りなかったのか。よくも顔を出せるものだ。特待生の前に、もう立つな。
署名もない。
(茶会。特待生。知らない言葉が二つ。)
(それに、「もう」立つな。前にも立ったことがある、って書き方。)
窓の光に透かしてみた。透かし模様はない。安い紙だ。
(これが生徒の使う紙かどうかも、今の私には分からない。)
エリゼは紙を、父の手紙とは机の反対の端に置いた。
(匿名は、事実じゃない。誰かがそう書いてよこした、って事実なだけ。見たのか、聞いたのか、作ったのか。紙の上じゃ、三つとも同じ顔をしてる。)
「ハンナ。」
侍女はすぐに来た。息が上がっていない。扉の下にあった紙には、目をやらなかった。
「私が何をしたと言われているか。あなたの口から聞きたい。」
ハンナは一瞬、答えを選ぶ顔をした。
「茶会で、ございます。特待生のマリエ・ランベール様を、皆の前で罵られました。お忘れでは。」
(特待生。平民の出で、成績で入った子……ってところか。)
忘れた、とは言えない。覚えていない、が正確だ。
(でも、その正確さを、今この人には渡さない。覚えてない主人は、何でも吹き込める主人に見える。)
ハンナの目が、答えを待っていた。主が驚くか、怒るか、黙るか。
エリゼは、黙るほうを選んだ。
「そのあとは。」
「そのあとも、皆さま、いろいろと。わたくしの口からは、とても。」
(言わない形で、言った。)
「その茶会を、あなた以外で知っている者は。」
「使用人なら、どなたでも。他家の侍女も控えておりました。」
「分かった。下がって。」
扉が静かに閉まった。
少し待ってから、エリゼは呼び鈴を鳴らした。来たのは、水差しを替えに来た若い男だった。ハンナが呼んだ者ではない。袖口が濡れている。
(名は聞かない。聞けば、この人を私の側に巻き込む。)
「ハンナに言われて来たのか。」
「いいえ。呼び鈴が鳴りましたので。」
(なら、この人の話は、ハンナの話とは別の口だ。)
「茶会で、私が特待生を罵った。それは見たか。」
男は盆を持ち直した。
「拝見しました。控えの間の、戸口から。」
「どんな言葉だった。」
「身の程を知れ、と。ほかにも。お言葉は、かなり強うございました。」
(身の程を知れ。……私の口から?)
口の中で繰り返してみる。この体の舌が言い慣れているのかどうか、舌は答えなかった。
(そんなこと言うとは思えない。でも、思えない、は、していない証拠にはならない。)
(もし本当に言ったなら。皆の前で言われた子は、どんな顔でそこに座ってたんだろう。)
「そのあと、私は何をした。」
「それは、私には。」
男はそこで口を閉じた。見ていないことを、見ていないと言った。
(押したら、見てないことまで答え始める顔だ。)
「ありがとう。水は、それでいい。」
男が出ていってから、しばらく扉を見ていた。
(ハンナの口と、あの人の口。別々の場所から、同じ一言が出てきた。)
(一人なら、聞き違いかもしれない。二人なら、もう私の都合で消せる話じゃない。)
エリゼは紙を広げた。
茶会で、特待生マリエ・ランベールを罵った。
証言は二つ。侍女ハンナ。水差しの使用人は、戸口から見たと言う。
言葉は、身の程を知れ、ほか。
記憶は、ない。
(それでも、事実として残す。覚えてないことは、起きなかったことにはならない。)
(二人が口を合わせた可能性? ゼロじゃない。でも、戸口の位置まで言える人を、今は疑う理由がない。疑う理由のないものまで疑ったら、一行も残らない。)
次の行に、少し間を空けた。
その後の嫌がらせ。匿名の紙と、ハンナの「いろいろ」。見た者は、まだいない。
二つの行のあいだに、線を一本引いた。
(こっち側は、引き受ける。向こう側は、まだ誰のものでもない。)
(覚えてない非礼を引き受けるのは、妙な気分だ。でも、この体で生きるなら、この体の昨日ごと背負うしかない。)
茶会の非礼は、この体の過去。
今日、エリゼが手に入れたのは、その一行だった。
線の向こうに残した行が、いつ、どこで、誰の口から「事実」として読み上げられるのか。
その答えの端を、エリゼはその夜、薄い扉越しに聞くことになる。
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次回は「第5話 夜会という仮説」です。




