第3話 父の手紙
前回の続きです。
午後の茶は、昼の菓子が半分残ったままの机で始まった。
ハンナが新しい盆を置き、脇に一通の手紙を添えた。紋章の封は、もう切られている。
「公爵様からの、定例のご書状です。いつもこの時間に、目を通されます。」
(いつも。この体の習慣を、侍女は知ってる。私は知らない。)
封蝋の割れ跡は、盾と、翼をたたんだ鳥。引き出しの印章と同じ紋だった。
「封は、あなたが。」
「はい。いつものように。お嬢様のお指を、紙の縁で傷めませぬよう。」
(理由は、きれい。きれいすぎて、確かめようがない。)
(主の父から主への手紙を、侍女が先に開ける。それが、この部屋のいつも。)
ハンナは下がらなかった。主が読むあいだ、そばに控えるのも、いつものことらしい。
(一人で読みたい、と言えば、いつもと違う主になる。)
エリゼは黙って紙を開いた。
字は大きく、角が立っている。昼に見た古い封筒の、どの字とも違った。文面は短い。体調を気づかう一行のあと、すぐに本題だった。
(気づかいは、一行だけ。)
――第二王子セドリック・リュシアン殿下との婚約は、クローデル家の体面そのものである。学園にあって、みだりに席を立つな。侍女の差配に従え。家を煩わせるな。
署名はクローデル。父より、とだけ添えてある。その三文字だけが、少し小さかった。
(急いで書き足した? それとも、最初からそういう書き方の人? ……一通じゃ、分からない。)
王子、の二字で、茶が喉で止まった。
咳をこらえて、もう一度読む。読み違いではなかった。
(婚約者。第二王子。……私が?)
(第二、ってことは、第一がいる。王位を継ぐ人じゃない。それでも、公爵家が体面そのものと言い切る相手。)
(前の人生で、結婚なんて、書類の向こうの他人事だった。それが今、父親の四行で決まってる。)
顔も声も知らない。どんな人か考えかけて、やめた。
(名前と立場しか分かってない。人柄を想像で埋めたら、会う前から決めつけることになる。)
手紙には、会いたいとも、寂しいとも書いていない。書いてあるのは、家と婚約が同じものだということだけだ。
(体面の一部、じゃない。体面を支えるもの、でもない。そのもの。婚約が揺れたら、家の顔が揺れる。)
(じゃあ、今これを捨てたら?)
家の顔が割れる。割れた家が、この体を拾う保証はどこにもない。家を煩わせるな、の一行が、むしろ拾わないほうへ傾いて見えた。
(婚約をやめる権利が、この体にあるのかどうか。それも手紙には一言もない。前の人生なら条文を探した。ここにあるのは、父親の四行だけ。)
「殿下とのご婚約のことで、何か。」
ハンナが聞いた。盆を直す手が、手紙の端に近い。
(何が書いてあったか、じゃなく、婚約のこと、と先に言った。中身をもう知ってる人の聞き方。)
エリゼは紙を折り、膝に置いた。
「読んだだけです。」
「さようでございますか。」
ハンナは微笑んだ。目は笑っていない。
「父は、いつもこういう書き方を。」
「公爵様は、お言葉の少ない方でございますから。」
「殿下からは、何か。」
「殿下はお忙しい方ですので。」
(答えになってない。……答えにしないことが、答え? いや、まだ決めつけない。)
「殿下は、どんな方。」
口にしてから、しまったと思った。婚約者に聞くことではない。
ハンナの眉が、ほんのわずか上がった。
「……お嬢様が、いちばんよくご存じかと。」
(そうだよね。普通は、そう。)
「講義のことは、お伝えしておきました。夕餉はお部屋にお持ちします。明日のお召し物も、もう選んでございます。」
エリゼが頼んだことは、一つもなかった。
「明日は、講義に出られますか。」
「考えておく。」
「では、出られるものとして支度いたします。」
(考えておく、が、出る、に書き換えられた。この部屋では、私の保留は、全部「はい」になるらしい。)
壁際の小卓に、明日の服が畳んである。襟の色まで決まっている。茶器は二客あるのに、出されたのは一客。引き出しの鍵は、鍵穴に挿したままだ。
(鍵を持ち歩かない主? それとも、持たせてもらえない主?)
茶の時間も、手紙の順番も、カーテンの幅も、先に決まっている。
(そして父親の手紙は、侍女の差配に従え、と言ってる。)
つまり、この仕切りは父が認めている。ハンナの手を払えば、父の一行を払うことになる。
(自由がない、って、気持ちの話じゃない。仕組みの話だ。)
家の名前と、王子の名前が、同じ文面で結ばれている。侍女の手は、その文面の下で動いている。どれか一つを動かせば、残りまで動く。
(片方だけ破ると、全部が崩れる契約書。前の仕事で、何度も見た。外した側が、いちばん先に損をする。)
嫌だと言うのは、簡単だ。
(言ったあと、この体がどこに立っていられるのか。その地図がない。)
地図がないまま歩き出すのは、前の人生でも、いちばんまずいやり方だった。
(まず輪郭を描く。どこまでが家で、どこからが婚約で、どこに侍女の手が届いてるのか。)
手紙を封筒に戻した。
(定例、とハンナは言った。なら次も来る。同じ言葉が繰り返されるかで、これが父親の口癖か、今だけの念押しか分かる。)
ハンナが盆を下げ、扉を閉めた。
足音が遠のくのを待って、エリゼは昼の紙を広げた。
第二王子セドリックとの婚約。父の手紙は、これを家の体面そのものと呼ぶ。
身の回りはハンナが仕切る。手紙は、その差配に従えと命じる。封は、ハンナが先に切っていた。
(なぜ先に切ったか、は書かない。いつもだから、かもしれない。いつもじゃないから、かもしれない。)
ペンを置いて、膝の上の手を見た。
(名前の次は、婚約者。顔も知らない人の隣が、この体の席。)
婚約者がいる。今は、その席を立てない。
今日、分かったのはそれだった。
窓の外で、誰かが笑った。中庭の、遠いところだった。
明日、あの中庭の側へ出ていけば、この名前がどう呼ばれているのかも分かるだろう。
――分かりたくないものまで、含めて。
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次回は「第4話 すでに嫌われている」です。




